塞翁が馬

 カスティリオーネ戦役でオーストリア軍は一応目的の一つ(マントヴァ解囲)を達成したと書いたが、なぜそれが達成できたかという点についてVoykowitschが面白い指摘をしているのでそれも紹介しよう。
 Voykowitschはマントヴァ解囲のためにオーストリア軍が取るであろう進路は4つ想定できるとしている。(1)ガルダ湖西岸のキエーゼ川沿いに南下(2)ガルダ湖東岸のアディジェ川沿いに南下(3)レッシーニ山を越えてヴェローナ攻撃(4)ヴィチェンツァ経由で東から回り込む――の4種類だ。このうち(3)と(4)はアディジェ川に防衛線を敷けば少数の兵力で撃退が可能。一方、(1)と(2)のルートにはそうした防御に都合のいい地形がないため、多数の兵力で備えておく必要がある。以上がVoykowitschの見解だ。
 実際にボナパルトがやっていた布陣はそれとは全く逆。(3)(4)のルートに備えるためヴェローナとレニャーゴに配置した兵力が1万8000人だったのに対し、(1)(2)に備えた部隊は1万4000人。しかも最も危険な(1)のルートにはほんの4000人強しか置いていない。理由の一端は政治的なものだった。ボナパルトはヴェネツィアに対する牽制の意味もこめてヴェローナとレニャーゴに大軍を置いていたのであり、オーストリア軍への対処だけを目的とした布陣ではなかったという。
 しかし何よりも問題だったのは司令部の位置だった、とVoykowitschは記している。ボナパルトは戦役が始まる直前まで司令部をブレシアに置いていたが、ここはオーストリア軍の攻撃が予想されるアディジェ流域からは約70キロ、レニャーゴからは実に100キロも離れた遥か後方にあった。伝令が最も早い情報伝達手段であったこの時期に、これだけ司令部が最前線から離れていると色々と問題が起こる。彼の司令部が前線に近いカステルヌオヴォにあれば、ボナパルトは史実とは逆に最初にヴルムゼルの主力を叩きそれからクォスダノヴィッチへ向かう作戦を立案できただろうし、そうしていればマントヴァ包囲を解く必要もなかった。Voykowitschはそう指摘する。
 なぜボナパルトは戦役開始直前に司令部を遥か後方のブレシアに置いたのか。政治的な理由ではないし、キエーゼ流域の防衛線を確認するという目的のためでもなかった。ナポレオンの書簡集を見ても戦役開始直前の1796年7月25、26日には一切何の手紙も出していない("http://books.google.co.jp/books?id=CRUgu6Jko2kC" p496参照)。あの口述筆記魔が2日間、一切手紙を出さずにブレシアにとどまっていたのは、極めて個人的な理由ではなかったか、とVoykowitschは推測している。個人的な理由、つまり女、要するにジョゼフィーヌである。
 ボナパルトは7月22日、ジョゼフィーヌに対して「ミラノは遠すぎるから25日にブレシアに来てくれ」という手紙を書いている。そして7月30日、オーストリア軍がブレシアを強襲した時、ジョゼフィーヌがこの町から慌てて逃げ出したことある亡命貴族が記録しているそうだ(Voykowitsch "Castiglione 1796" p88)。漫画の中で「司令官は奥方と御多忙」なシーンが描かれていたが、あれは冗談ではなく実際にそれに近いシーンがあったのかもしれない。いずれにせよ戦役が始まった時にボナパルトは戦線の遥か後方におり、そのために彼はマントヴァ攻囲の放棄を迫られ、結果としてマントヴァはそれから半年ほど持ちこたえることになった。事件の影に女あり、といったところか。

 ボナパルトが女で失敗したとしたら、ヴルムゼルは自らの成功ゆえに失敗した、と言えるかもしれない。彼の率いるオーストリア軍主力は7月31日にミンチオ河畔のヴァレッジョに到達している。だが、彼の主力が本格的にミンチオ川を渡り始めたのは3日後の8月3日。「これは出来の悪い仕事振りであり、ボナパルトのような将軍の前では致命的ですらあった」(Weston Ramsay Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p66)。同日、クォスダノヴィッチはこれ以上フランス軍の攻撃を支えきれないと判断し、退却を決断した。
 理由はある。まず7月31日夜の時点ではフランス軍がミンチオ西岸へ一斉に移動していることは分からなかった。ボナパルトがロヴァベラでオーストリア軍と戦う用意をしているとの情報もあったようで、このあたりの真偽を確認するまでは簡単にミンチオを渡ることはできなかっただろう。オーストリア軍主力が山間部の厳しい道を通り抜けてきたことを考えるなら、兵の疲労回復と落伍兵の合流を待つために8月1日は休息に当てると判断しても不思議はない。オーストリア軍に同行していた英軍のグレアムも8月2日付の手紙で兵の疲労と補給困難に言及している("http://books.google.com/books?id=OZ4BAAAAMAAJ" p73参照)。
 さらにヴルムゼルは途中で作戦を変更した。当初は2日朝にヴァレッジョでミンチオを渡るとしていたが、前日になってよりマントヴァに近いゴイトまでミンチオ東岸を南下したうえでそこで川を渡ることにしたのだ。結果としてカスティリオーネまでわざわざ遠回りをするルートを選択している。しかも実際に2日の行軍を行う際には、途中で軍を離れて自分はマントヴァへ向かい、市民に迎えられながら入城を行ったという。主力部隊はヴァレッジョからゴイトまでの短い距離を移動しただけでこの日の行軍を終えた。何よりも貴重な時間が失われていったのだ。
 結局のところ、オーストリア軍はフランス軍がマントヴァ包囲を諦めて退却したことによって安心してしまったとしか思えない。グレアムの8月1日付報告書にもブオナパルト将軍が急いでポー河とミンチオ川を渡って退却しているという記述がある。敵は退却しているのだからそう急ぐことはない、という油断がどこかで生じ、それがその後の行動を鈍らせた可能性は否定できないだろう。自らマントヴァに行くことで勝利を実感したかったがために実行したように見えるゴイトへの南下も含め、オーストリア軍の行動はあまりに暢気である。
 もちろん、以上のヴルムゼルに対する批判は基本的に後知恵ばかりである。結果的にクォスダノヴィッチが撃退されたことを知っているから、あそこは急いでミンチオ西岸へ渡るべきだったと言えるのだ。当時のヴルムゼルがそうした事情を詳しく知っていたとは思えない。彼もクォスダノヴィッチも、互いの情報をほとんど得られないまま手探りのような作戦行動を続けていたのである。その中で自らが掴んだことが確実に分かる一つの勝利(マントヴァ解囲)のため、判断が緩んだとしても無理はない。一方、戦役の初期段階に明白な失敗を犯したボナパルトはそれを取り戻すべく我武者羅に兵を動かし、最終的には勝利を掴んだ。運命の皮肉とでも言うべきか。

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