ジュンガルの火器 下

 17~18世紀に最後の軍事革命国家にして最後の遊牧国家となったジュンガルの話の続き。前回はジュンガルが導入した火器が遊牧民国家や社会をどう変えていったか、彼らの軍事力が拡大し、同時に財政力や経済力を高めようとする取り組みが進んだことを紹介したが、今回はもう少し細かい話を紹介しよう。使うのはThe Zunghar Conquest of Central Tibet and its Influence on Tibetan Military Institutions in the 18th Centuryという文章だ。
 題名を見ても分かる通り、ここで紹介されているのは実はチベットの軍事機構に関する話だ。だが18世紀のチベットにおける軍事技術はオイラトやジュンガルの影響を大きく受けていたため、当時のチベットの軍事について語ることは同時にジュンガルの軍事について語ることにもつながっている。まず17世紀前半にオイラトのホシュート部族のトップだったグーシ・ハーンがチベットを征服し、王朝を打ち立てた。だがこの王朝は18世紀には内紛を起こし、今度はそこにジュンガルが介入してチベットを支配した。その後、今度は清が入ってきて最終的にはチベットは彼らに征服された。
 つまり2度にわたってオイラトの侵攻を受けたチベットでの戦闘について、特に2度目の侵攻について調べれば、草原の部族が当時どのような武器を使って戦っていたかが分かる、という理屈だ。実際にはチベットの史料だけでなく中国や満州の史料も使って調べたようで、どうやらチベットのこの時代について政治面ではなく軍事面についてきちんと調べたものはこれまであまりなかったらしい。この文章が書かれたのは2020年だが、英語圏ではまだチベット史研究を手掛ける人が多くないのかもしれない。

 以下、大きく3つの観点で分析がなされているのだが、そのうち最初はジュンガル軍の侵攻ルートに関する話であり、火薬革命について参考になるわけではないので省略する。2つ目のテーマがジュンガルの軍事スキームなのでここから取り上げると、最初に紹介されるのはジュンガルが侵攻した1717年の具体的な戦闘事例。まず峠を突破して侵攻してきたジュンガルは、真っ先に近くの山地に登り、そこに防御施設を構築したという(p83)。ジュンガルより多くの兵力を揃えたチベット側はこのジュンガル軍を攻撃したが、有利な場所に陣取ったジュンガルを破ることはできなかった。
 別の記録によると、ジュンガル軍が来る前に自分たちが有利な地形に陣取るべきだという現場の助言に対し、その上官に当たる人物が「敵が来たのに気づいた時にふさわしい唯一の方法は彼らを直接攻撃することだ」と言い放ったため、この有利な陣地を敵に取られたそうだ。また夜闇に乗じてジュンガルの陣地に近づこうとする作戦も実行されたが、スパイのせいでかえって待ち伏せに会い、チベット側は多くの損害を出して撃退されたという(p85)。
 チベット占領後に清軍と戦う際にもジュンガルは同じ戦術を採用した。ある戦いではジュンガル軍は4つの異なる山に布陣していたそうで、ここでは清の攻撃によってジュンガルは敗北しているが、それでも高地に布陣していたのは同じ。筆者はジュンガル軍が山地に布陣するのはルーチンワーク的なものではなかったかと推測している(p87)。また別の戦い(1718年)ではジュンガル軍は清の宿営地を見下ろす山に布陣してそこから射撃を浴びせ、時には山から下りて清軍の馬を追い払ったりしたそうだ。
 山地に布陣してそこから銃弾を浴びせるという方法は、遊牧民の伝統的な戦い方、つまり待ち伏せや突然の出現、あるいは逃げるふりをした敵の誘導、弓矢の一斉射撃といったものからはかけ離れている印象がある。しかしジュンガルがチベットで見せたこういった戦い方は、決して一時的に使われた戦術ではなかった。古くはガルダンがホシュート部族を相手に行なった1676年の戦いでも、1690年にハルハ=モンゴルや清を相手にした戦闘でも、そしてウラーン・ブトンでも、ジュンガルはこうした戦いをしていた。1720年に清を相手にした時も同じだったという(p90)。
 チベットから退却した後もジュンガルは同じ戦い方を続けたそうだ。1730年代にもいくつかの戦いでそうした作戦を彼らが採用し、時に成功したという話が載っている。山中に野戦築城し、待ち伏せに役立てたり防衛上の優位を得ることに加え、何より彼らの銃にとって有利な射界を確保しつつ装填の時間も稼げる方法としてこの戦術が好まれたのではないか、というのが筆者の考えだ(p92)。最新兵器に合わせた戦術を、そうした兵器の採用が遅れている相手に使いこなすことで、ジュンガルはいくつもの決定的な勝利を得た格好だ。
 3つ目のテーマはジュンガルの使った武器だ。ジュンガル騎兵がチベット遠征に際して持ち込んだ武器は槍(ランス)、銃(マスケット)、弓矢、剣、短剣だが、戦闘について記した史料の中で最もよく言及されているのは槍と銃の2つだ。それに対し、遊牧民の騎兵にとっては伝統的な兵器とも言うべき弓矢についての言及は、18世紀のジュンガルではほぼ見当たらない。彼らは遠距離では銃と、しばしば大砲を使い、そして白兵戦になると槍を好んで使ったという。後者はモンゴルの時代から普通に使われていたが、飛び道具が変化した点には注目すべきだろう。18世紀の記録によれば彼らは馬上で弓矢を扱う能力がなく、騎乗した時はチームを組んで槍で戦うのが普通だったそうだ。ジュンガルが清兵の捕虜を最も多く得たのは槍で攻撃した後であり、次が銃で攻撃した後だったことも、これらの兵器の有効性を示している(p99)。
 さらにこの本ではジュンガルの新しい火器についても言及している(p100)。といってもその名前はジャムラ、ジャマラ、ジャンバラ、さらにはジャンバラックなどと呼ばれるもので、想像の通りこれはユーラシアの乾燥地帯で広く使われていたザンブーラック(ザンブール)が訛ったものである。著者によるとザンブーラックはまず16世紀にエジプトのマムルークが発明し、オスマン帝国がそこを占領した後にサファヴィー朝やムガール帝国を通じて中央アジア(アフガン、トランスオクシアナ、タリム盆地)まで広がったという。もしかしたら中央ユーラシアの東部までこの兵器を伝えたのはジュンガルかもしれない。
 通常のマスケットよりは大きいが大砲より軽いこの兵器は、通常の銃よりも破壊力も射程も大きく、一方で大砲より輸送や機動が簡単だ。「従って中央アジアの戦場における騎兵の戦術に完全にマッチしている」(p101)。この兵器はおそらくチベットにも伝えられたと考えられるが、それとは別に小型の大砲(2~2.5ポンド)自体はチベットに別ルートで伝わっていたようで、ジュンガルは大砲については地元で調達した可能性も指摘されている(p103)。ジュンガルは自前で大量の火器を製造したことが特徴だと前回記したが、規模はともかくそうした能力はユーラシアでは色々な社会が持ち合わせていたのかもしれない。

 以上がチベットに影響を与えたと見られるジュンガルの軍事に関連する話だ。軍事革命関連としては火器の大量使用とその兵器を効果的に運用するための戦術の採用、さらに中央ユーラシアで広く使われたザンブーラックの話など、他の火薬帝国でも見受けられるようなものが多い。その意味ではユーラシアの中核用に調整された形の軍事革命がジュンガルでも進展していた、と考えて問題はないのだろう。
 火薬革命についてまとめたところでも指摘しているが、ユーラシア中核ではまずイスラムの火薬帝国が16世紀前半から火薬シフトを始め、続いて17世紀前半には清(女真族)もその後を追った。一方、ステップそのものに拠点を置いたジュンガルが火薬シフトを本格化したのは17世紀後半からであり、やはり古い騎兵革命の中核であった地域ほど新しい技術の導入が遅れた面があったのだと想定できる。でもChaseが主張しているように、1700年以降になってようやく全世界で火器の優位性が明白になってきたという議論(Firearms, p203)は、もしかしたら正確とは言えないかもしれない。
 ユーラシアでも一番最後に火薬革命が始まったジュンガルで銃の大量使用が始まったのが17世紀後半だとしたら、その時使われていた銃はマッチロックだろう。実際、チベットでも17世紀に入るとマッチロックを持った守護神の姿が登場してくるという(p102)。逆に言うならその頃までには騎馬弓兵が持つステップ地帯での優位性はもはや明確ではなくなっていた可能性があるわけで、少なくとも戦場では騎兵の時代は18世紀に入る前に世界のあらゆる場所で息を止められつつあったことになる。
 このあたりについては異論もおそらくあるだろう。もう少し調べないと確定的なことは言えないと思われる。でも火薬革命の始まりから火器の世界的な浸透までの時間が、思っているよりも短かった可能性は考えておいてもいいと思う。
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