ジュンガルの火器 上

 火薬史について書いた時に、最後まで火薬革命がとどかなかった地域として清朝の話を紹介した。騎兵時代に最先端を進んでいたのは、気候的に騎馬の利用が多かった遊牧民の住むステップ地帯に近い帝国ベルト地域であり、だがなまじその環境下で発展してしまったために火薬革命によって変化した環境への適応が最も遅れた地域になってしまったのではないか、という見方をそこでは示した。
 ただその理屈が成り立つなら、最も火薬技術の進展が遅れるのは帝国ベルトよりも遊牧民の居住地であるステップ地帯そのものになるはず、だとも考えられる。そして実際にそう主張する文章も存在する。The 'Military Revolution' Arrives on the Steppes of Central Eurasia: The Unique Case of the Zunghar (1676 - 1745)がそれで、題名の通り17世紀の第4四半期から18世紀前半にかけてのジュンガルに焦点を当てた分析だ。
 ジュンガルはオイラト(土木の変で明の皇帝を捕らえたエセンもオイラトの1人)の一部族として、現在の新疆ウイグル自治区の北西部にある盆地を中心に勢力を広げた遊牧民の国家だ。彼らは一時はオイラトの盟主として17世紀から18世紀にかけ中央ユーラシアで大きな勢力を築き上げたが、最終的にはほとんど清帝国に飲み込まれて姿を消した。匈奴から始まった遊牧民主導の帝国という意味では最後の存在でもあった。
 上の文章ではジュンガルについて、大量のマスケットと大砲を自前で製造した唯一の遊牧民国家としており、かつ軍事力を維持し高めるために社会や政治制度を色々と変更したという意味で「軍事革命」を実践した国だと解釈している。もちろんパーカーが記したようなルネサンス式要塞を通じて社会が変わったというルートは通っていないが、軍事技術の導入をきっかけに遊牧民たちの社会は大きく変わったそうで、「経済システム、地理的な位置、宗教、さらには話している言葉に至るまで、その[軍事革命の]過程で恒久的に変化した」(p176)という。
 この地域への火薬技術の導入はジュンガルがオイラトの盟主となる前から進んでいた。彼らはコサックのイェルマークが16世紀末に成し遂げた勝利について情報を得ており、17世紀初頭にはオイラトはシベリアのロシア勢力と接点を持って彼らからの銃や大砲の購入を積極的に進めようとしていた。これに対しロシア側は(新大陸のスペイン同様に)遊牧民に火器を売ることを厳しく禁じたそうで、ジュンガルが自前で火器を製造するに至ったのはこのロシアの政策が大きな背景にある(p179)。
 ジュンガルの軍事革命が本格的に始まったのは、オイラトの盟主の地位をホシュート部族から奪ったガルダン・ハーンの時からだ。彼はロシアやトルキスタンの諸部族との接触を通じて金属加工や火薬製造のノウハウを取り入れ、従来の重騎兵に加えて火器を主要兵器として使いこなすようになった。それまでジュンガルは伝統的な機動力と複合弓を使った遊牧民らしい戦い方をしていたが、以後は火器による斉射とそれに続く重騎兵の突撃といった方法が採用されるようになり、ガルダンはその方法を使って外敵と戦った(ウラーン・ブトンの戦いなど)。
 それだけではなく、彼はラクダの背中に小さな大砲を乗せた武器も導入した。もちろん多くの火薬帝国で採用されたザンブーラックのことだろう(p181)。さらに兵力の増加はそれを運営するための官僚機構を育て、それらを支えるための財政力と国家全体の経済力拡大も必要になった。遊牧民の支配だけでは必要な金を賄えないと考えたガルダンは、タリム盆地やシルダリア河畔の都市も自らの支配下に取り込んでいった。さらに労働力の徴収や課税の強化、集権的な制度の確立にも取り組んだ。
 ガルダンの後を継いだ甥のツェワンラブダンは行政や司法制度を整備し、またかつてのモンゴルやこの時点でのライバルであった清と同様、外国人の能力を取り込んで活用した。捕虜となったスウェーデン人、ロシア人、満州人、中国人などが登用され、例えば18世紀前半に捕虜となったヨハン・グスタフ・レナトというスウェーデン人は大砲鋳造などに貢献したという。武器製造や銃、大砲を扱う専門家の育成なども取り組まれた。
 ツェワンラブダンの息子であるガルダンツェリンも、父親と同じ路線を推し進めた。彼は定住民の支配を固めるために十分な数の火器を確保するとともに、遊牧民を守るための予備も設けた。彼の作った政治体制はさらに複雑になり、それを支える経済力をさらに高めるためイリ河とイルティシュ河での農業開発を進めようとした。彼が使ったのは灌漑農業のノウハウを持つタリム盆地の人々をこれらの地域に送り込むという手で、さらにモンゴル語やチベット仏教の普及といった文化的な手段も活用した。結果として彼の治世においてジュンガルが保有していた銃兵は8万人から10万人に達したという。
 結論のところでこの文章は、ジュンガルの例から軍事革命において遊牧民が常に弱い存在であったというのは決して事実にそぐわないと指摘している。確かに軍事革命はロシアや清の方に先に訪れ、ステップ地帯にまで及んだのはずっと後であったが、ジュンガルの支配者たちはこの新しい革命に順応し、それを積極的に推進していた。ジュンガルが滅んだのは旱魃や天然痘、飢餓といった統治者の手に負えない範囲で起きた出来事が原因である、と主張している。
 ジュンガルが軍事力の拡大に向けて努めたのは、彼らの周囲でロシアや清といった軍事大国がどんどん勢力を増していたのが理由だろう。この環境下では小規模な勢力は、欧州と同じように中央ユーラシアでもどんどん大国に飲み込まれていった。同じモンゴルでも東のハルハ部は清帝国に組み込まれ、シベリアの小部族やトルキスタンの諸汗国はロシアの圧力にどんどん屈していた。軍事技術の発展が帝国の領土を拡大するという流れはまさに軍事革命であり、ジュンガルもまたその一例だという指摘にはうなずけるところが多い。

 明確に軍事革命とは断言していないものの、軍事力の拡大を中心にこの時期のユーラシアについて記しているのがMilitary Mobilization in Seventeenth and Eighteenth-Century China, Russia, and Mongoliaという文章だ。ジュンガルはロシアや清と同様、軍事的拡大と国家制度の充実、そして経済力の拡大が手に手を取って進んだ事例であり、またそれは生死を掛けた生き残り競争であった(p759)とこの文章では記している。実にTurchin的な分析だ。
 こちらの文章では17世紀の危機を経てこの3ヶ国がどのように成長してきたかを簡単に説明している(その際にGoldstoneの理論を紹介している)。そして生き残りのために必要な経済力を分析しているのだが、いずれも農業国家であったために農民たちの流動性について真っ先に紹介(p770)。ロシアの農奴制と、それに比べて農民の流動性を広く認めてきた清との差について言及している。遊牧民も含め彼らの流動性をどうコントロールするかが国力を発揮するうえで重要だったとの指摘だ。
 また食糧問題についても触れている(p776)が、特に詳細に分析されているのが清の事例。彼らが作り上げた内陸大帝国が清の経済的な利点(商品作物の多さや兵站能力の高さ)に基づいていることを、乾隆帝の遠征に関する解説(p777)などを通じて説明している。この文章によれば清のジュンガル遠征はナポレオンのロシア遠征よりさらに長距離を、しかし兵站の破綻なく実行できたそうで、ジュンガルが滅亡したのは不運というより清が強すぎたため、とも言えそうだ。
 また文字の活用を中心とした文化的なヘゲモニーの重要性についても唱えている(p782)のだが、これがどこまで妥当な説なのかは判断が難しい。確かに満州文字は日常的に使う文字としては使われず、雍正帝が官吏との間でやり取りした文章も漢文だったのは確かだが、この主張を裏付けるような統計的な論拠が示されているわけではない(1996年に書かれたものなので仕方ないが)。
 基本こちらの文章によればジュンガルの滅亡は食糧生産能力の低さなどに由来するものであり、最初に示した文章が指摘しているような単なる不運だけが原因とはしてない。個人的にはジュンガル滅亡の要因として後者の説明の方が説得力があると思う。軍事革命を進めたからといって生き残れるわけではない。同じことをしている国同士なら、国力が高い方がサバイバルする、ということだろう。以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント