2014年から2015年にかけて行われたこの中世古城の発掘調査で、14世紀後半のものと思われる地層から大砲の一部が発見されたという。この時期のグロドノはリトアニア大公国とドイツ騎士団が争っている地域の一つで、文献史料によると14世紀末の攻城戦では火器が使用されたそうだ。というわけで発掘されたこの大砲もその時期に使われていたものである可能性がある。
見つかった大砲(実際には一部失われていた)の写真はFig. 3に載っている。大砲のうち砲尾の部分のみが残っており、タッチホールも見られる。長さは残されている部分で30センチ弱、薬室の直径は7センチ弱で口径は15.5センチだったと見られる。撃ち出したと思われる砲弾は、花崗岩製の石弾で重さ5キロちょっと、装填していた火薬の量は280~380グラムと想定されている。復元した図像はFig. 4に載っており、それを見ると長さは45センチほど、砲口付近にはおそらく照星の役割を果たしたと見られる十字架があるが、これは破片の中に十字架が残っていたことが理由だ。論文によるとこれはシュタインビュクセと呼ばれた軽砲の一種で、荷車で運搬されて砲撃時に台に乗せられるか、もしくは車輪付きの車両に搭載されていたそうだ。
続いて論文ではルーシにおける初期の火器について説明している。といってもあまり詳しいことは分からないが14世紀末から15世紀初頭にかけて関連する記述が増えている傾向が見られるようだ。研究者の中には西欧の影響について言及している者もいるが、東からも伝わったとの見解もあるそうだ。中には1483年に長さ150センチ、重量250キロの車両に載った「ピシュチャル」が存在していたという記録もある。
東欧で見つかった出土品としては、クリミアで発見された1400年前後のものと思われる迫撃砲があるが、これはイタリア産のものをジェノヴァが持ち込んだと見られる。またロシアのルジェフでも似た形状のものが発見されているが、これらは鉄製の大砲だ(Fig. 5)。銅合金製としては15世紀中ごろのものと思われる大砲がクリミアで見つかっており(Fig. 6)、また同時期のものとされるヴグレールがナルヴァ河畔で発見されている。銃については1400年頃のものや、15世紀後半から16世紀にかけてのものも見られるが、古い銃は一般に鉄製だと言われている。
西プロイセンのカウアーニック(クルツェトニク)で見つかった15世紀前半の大砲がFig. 7だ。長さは50センチほど、口径は13.5センチ、重量は42キロちょいで、アンチモンと鉛を含む銅で製造されているという。その他にも多数の同時期の大砲について紹介されているが、それらは残念ながら画像はない。一方、この時代の大砲を砲車などに乗せた古い時代の図像(15世紀初頭から16世紀初頭まで)がFig. 8に掲載されている。
論文には大砲の製造法についても言及されている。鋳造の場合、中子は木製の軸に縄を巻いて粘土で覆い、外枠も同様に粘土を使ってそれを焼いていた。15世紀前半が終わるころには木型を使うようになったそうで、それによって生産力が上がったという。他にもオスマン軍による大砲の鋳造方法について記した1467年の記述についても紹介されており、16世紀前半に書かれた青銅砲の製造方法については図(Fig. 9)も含めて細かく書かれている。製造に使う錫の比率は7~10%ほどで、これは鐘を作るときの比率(20%前後)よりも低い。
ドイツ騎士団の本拠地だったマリーンブルク(マルボルク)の鋳造所跡からは粘土などが見つかっており、文章記録でも火器の製造についての言及がある。ハンガリーのブダでも15世紀後半から16世紀前半にかけて鋳造所跡が見つかっているそうだ。14世紀後半から15世紀の第3四半期にかけて中欧では青銅製の銃が多く作られたそうだが、その後再利用されたのか、残っているのは鉄製の銃が多いという。一般論として15世紀中ごろにかけて青銅製の火器(大砲)がより好まれるようになったことなども指摘されている。
グロドノ古城について言うなら、ここを争っていた勢力のうちドイツ騎士団が銅合金製の火器を製造していたという記録は多くある一方、ポーランドやリトアニアにはそうした史料はほとんどないようだ。ドイツ騎士団では銅や銅合金を使った火器の製造割合がかなり高かったそうで、記録に残っているもののうち65%はそれらが占めている。特に大砲では銅合金が圧倒的で、ドイツ騎士団は
銅合金の持つ性能面での優位を把握していたと見られる。彼らは後装式ヴグレールのように使用頻度が高いものは青銅製で、他の小型砲は銅製で作っていたという。
続いて論文では金属的な組成についての分析を記しているが、このあたりはかなり専門的なので私にもよく分からない。どうやらグロドノで発見された火器には、上に述べたカウアーニックの大砲と同様に色々と不純物が混ざっていたようで、それは中欧の中世後期の火器と類似しているようだ。またドイツ騎士団は多くの銅合金製の火器を作っていたのが知られているが、ポーランドやリトアニアにはそうした記録がない。というわけでおそらくドイツ騎士団が製造した可能性は高いと言えるのだろう。ただし断言できるほど情報が揃っているわけではなく、またこれまでも触れたように銅については再利用も多いためそうした面も検討する必要があるようだ。
結論として論文では、この火器がおそらく14世紀末の戦いで使われたものであろうとしている。一方でその製造地については結論を出すのを差し控え、今後中世の火器に関する技術的な検証がもっと進むことに期待を述べている。
15世紀の話として鍛鉄製と青銅製の大砲があると述べたうえで、前者の一例がFigure 1.1に載っている。そして15世紀の後半にはこうした大砲がガレー船の船首や船尾に搭載されていたと指摘し、そうした事例を示すと見られるおそらく最も古い図版を紹介している(Figure 1.2)。どうやらヴェネツィアを描いた絵地図の中にこれが載っていたようだ。また鋳造で作られた15世紀後半の大砲としては、こちらは鉄製だが、Figure 1.3とそのX線写真(Figure 1.4)が紹介されている。こちらもヴェネツィアにあるものだそうだ。
青銅製の大砲は後装式と前装式の両方があったようで、後装式のものは旋回砲の一種として船に搭載されたのではないかとしている。当初は石弾を発射していたが、16世紀になると鉛の散弾を撃ち出す短距離用の兵器としてガレー船の武装にも使われるようになったそうだ。一方、一部の研究者が古い図版を基に主張している15世紀末に口径長の長いカルヴァリン砲が存在した(Figure 1.10)については、図版に書かれている年号は思い違いだろうと主張しており、カルヴァリンやキャノンといった名称が広まるのはもっと後だと指摘している。
他に16世紀の青銅製大砲に含まれる金属成分に関する分析(Table 1.1)や、当時のヴェネツィアに存在した大砲製造業者のイニシャルなどを記した刻印(Figure 1.15)などが紹介されており、ヴェネツィアが交易だけでなく製造業にも取り組んでいたことが分かる。この業者のイニシャルについては
ナショジオの動画でも出土品がヴェネツィア製の大砲かどうかを調べる論拠として使われていた。
欧州では急速に火薬兵器が発達した。その中で起きた現象については、英仏あたりはかなり広く知られているが、東欧のように西欧の後を追った地域についてはまだまだ知らないことが多いし、イタリアやドイツように多くの諸侯に分裂していた地域での動きも、全貌を把握するのは簡単ではない。今回紹介した2つの文章も、そうした幅広い出来事や現象の一部に過ぎないはずだ。火薬兵器がどう広がり、どう社会を変えていったかについては、まだ調べるべきことが多々あるんだろう。
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