実に胡散臭い記述をwikipediaに見つけた。またかと思うだろうが、またである。今回それが載っていたのは英語wikipediaの
Round shot の項目。曰く「鋳鉄製の砲丸はフランスの砲兵技師Samuel J. Beshが1450年以降に導入した」。はいダウト。見た瞬間に怪しいと分かる文章である。
そもそも常備軍すらろくに存在しなかった時代に砲兵技師artillery engineerなる職が存在したと言われても全く信用できないし、おまけに名前がおよそ中世フランス人らしくない。それに脚注もついておらず、論拠は不明。一体どこからこの名前が出てきたのだろうか。検索すると
2019年6月のノルウェー語のblog が出てくるのだが、wikipediaの修正履歴を見るとそれ以前(2019年4月)にこのBeshという名が出てきているので、blogは単にそれを引き写しただけだろう。ちなみに修正前のwikipediaの記述はartillery engineersと複数形になっており、固有名詞は記されていない。
他にこの名前が出てくるのはSNSの記述などが大半で、要するにどれもこれもwikipediaのコピペとしか思えない。そもそも検索結果の数が妙に少なく(googleでの結果はたったの1000件ほど)、この点も2019年のwikipediaの修正によってこの名前がネット上に初めて登場したことをうかがわせる。要するにこの人名は、wikipediaの筆者がでっち上げたものと考えるのが妥当だ。前から何度も
wikipediaを信用するのはよろしくない と指摘してきたが、その事例がまた積み上がった格好だ。
問題はその記述が
2020年に雑誌に掲載された記事 や
2022年に出版された商業出版物 に載ってしまっていることだろう。さすがにこれら以外にそうした書物は見つけられなかったが、wikipediaの記述を何の検証もなしに書物に引用する筆者が世の中には存在することを示す一例とも言える。つまり印刷された書物にしてもうっかり信用してはならない証拠の1つなのだ。でもこの調子だと、そのうちこの謎の人名が書籍上でもコピペされて広まる可能性もありそう。
実際には鋳鉄製の砲丸はいつ頃から広まったのか。
フランス語wikipedia を見ると1430年頃に登場し、1470年頃に石弾が鋳鉄製の砲丸へと次第に取って代わっていった、とある。もちろんBeshなる謎のフランス人は登場しない。そしてこの記述は、専門家が書いた英語文献とも平仄が合っている。
Rogersはこうした主張の論拠として、他ならぬブルゴーニュ公の記録を取り上げている。彼によれば1470年代になってようやくブルゴーニュ公の砲兵部隊における鋳鉄製砲丸の利用が一般的になった。同じことは
DeVriesとSmithの本 にも記されている。彼らの砲弾は岩石、鉛、鋳鉄の3種類があり、鉛は小口径の火器に使用され、鋳鉄は世紀の終盤になってようやく登場したという(p248)。具体的には1431年に珍しく早い時期の事例(小型砲1門用)があるが、それを除くと1474年に注文された鋳鉄製砲丸60発、1478年から79年にかけての同127発と、大型砲丸43発、小型砲丸203発などが登場するようになり、1478年に発注されたクロヴリヌ用の2万発の鋳鉄製弾丸といった大量生産もようやくこの時期に始まっている(p254)。
フランスにおけるそうした流れを詳しく記しているのが、
L’Artillerie ancienne et moderne 。そこでは金属製の弾丸の歴史について、15世紀中頃にまず鉛製の小型の弾丸から使用が広まったと記している。これらは城壁に対する攻撃に使うには小さすぎ、1420年から1440年頃までは昔ながらの投石機とボンバルドが要塞化された町への攻撃に使われたという。ただし石造りの城壁を相手にした場合、石弾は衝突した時に砕けてしまうことがあり、必ずしも有効ではなかった。彼らの効果は街中の家の屋根を破壊する時などに大きく発揮されたようだ。
そこで15世紀中ごろには岩の周囲を鉄で囲む砲弾が作られたが、その効果は限定的だったもよう。それでも1460年頃には岩の周りを鉛で囲む砲弾も登場した。また質量の大きな弾丸を撃ち出せるくらいにボンバルドの質が向上したが、すぐに完全な鋳鉄製の砲丸にシフトすることはできず、中の空洞に鉛を流し込んで質量を上げる方法が採用されたそうだ。ただしこの砲弾は重心が弾丸の中心からずれて不規則な軌道を描くようになったため、すぐに放棄された(p326-327)。
こうして鋳鉄製の砲丸がいよいよ使われるようになってきたのだが、それらはボンバルドのような大型の、そのために砲身が決して頑丈ではなかった大砲で使うには向いていなかった。むしろ小型の、鍛鉄製ではなく一体成型された青銅製の小型大砲の方が適切であり、そうした技術は1460年から1480年にかけて発展した。そして青銅製の小型大砲の方が効率的に運用できることもあり、1480年頃には古いボンバルドの使用が廃れていった(p346-347)。
この文献は19世紀の後半に書かれたものだが、上に紹介したRogersやDeVriesらの研究結果とも大きく矛盾していない。要するにこうした認識がすでに100年以上前から通説として扱われていたと見るべきだろう。読んで分かる通り、特定の誰かの行動で技術が変わったと見なせるような変化が起きたわけではなく、時間をかけ、幅広い分野で様々な試行錯誤が行われ、それらがやがて合流した結果として、ようやく鋳鉄製砲丸が普通に広く使われるようになったことが分かる。技術の歴史は英雄史観で語れるようなものではない。
それを踏まえても、やはり中世フランス人ぽくない謎の人物に功績を帰するのがおかしいのは明白だ。むしろこういう歴史に名を遺すのは、個々の技術者ではなくそういう
組織を動かしたビュロー兄弟のような人物 。というわけで英語wikipediaに出てくるSamuel J. Beshなる砲兵技師は存在しないと見なした方が、現時点では安全だろう。
ここから先は想像だが、それにしてもこのwikipediaの筆者は一体何を考えてこの論拠不明な個人名をいきなり登場させたのだろうか。何の目的があってこうした嘘をついたのか。
恒常的に嘘をつく人間はいるし、そうした人間が歴史の分野に見かけられるのも事実だ。前に紹介している
Gachot のように、フランス革命戦争やナポレオン戦争について、おそらく史料そのものをでっち上げていると思われる人物がいる。あるいは最近だと
こういう例 もある。言った本人が嘘と認めているので、これも歴史に絡むデマと言えるだろう。
この手の嘘をばら撒く人間はなぜそんなことをするのだろうか。簡単に想像できる理由が、歪んだ自己承認欲求だ。嘘だろうが何だろうが注目さえ集められればいいという感情に駆られる人間はいつの時代もいただろうし、最近でこそネットのおかげでそうした人間が可視化されやすくなっているが過去にいなかったわけでもない。Gachotなどは実際に嘘によって知名度を上げることができた(それによっていくつも本を出版できた)のだから、見事に目的を達したと言える。SNSだともっと手っ取り早く注目を集められるのだから、この手の輩が消えることはあるまい。
ただしwikipediaで嘘をつく理由は自己承認欲求だけで説明できるかどうか微妙なところはある。Gachotと違って自分の名前を売り出すことはできないし、SNSと違ってすぐに反応が得られるわけでもない。実際、今回の嘘は4年も前に書かれたものなのに、反応としては微々たるものであり、おそらく大多数の人間は聞いたこともないだろう。自己承認欲求を満たしたければ、もっと他の手段を使う方が手っ取り早い。
もしこの嘘を記した人物が自己承認欲求に基づいて行動していたのなら、このBeshなる名前こそ犯人の実名かもしれない、とも考えられる。ただし本当にそうなのかどうかは不明。むしろ自己承認欲求ではなく、万引きの常習犯が利益ではなく犯罪行為そのものの依存症に陥っているのと同様、とにかく嘘をつくこと自体が目的と化している人物による行動、と考えた方がよさそうにも思える。だとするとこの嘘をついた犯人を見つけるのは容易ではなかろう。そうした嘘の被害を避けるためにも、wikipediaは原則信用しないくらいがちょうどいいんだろう。
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