ランの夜戦 5

 ランの戦いにおける夜戦について記したLes Deux Hourrahs de Laon et d'Athies(p117-139、p296-317)の続き。地図は同誌の巻末に載っているものを参照。プロイセン軍がマルモンを敗走させている間、連合軍の予備として展開していたランジェロン軍団の騎兵がブリュイエールまで、ベンケンドルフのコサックはコルベニー南方のラ・ヴィユ=オー=ボワまで進み、一方ザッケンの騎兵はショーフール農場より先には行かなかった。ただしこれらの移動は10日の午前遅くまで生じなかったと見られる。
 マルモンは午前2時にコルベニーで書いた報告で、数時間休んだ後にベリー=オー=バクでエーヌを渡ると伝えていた。彼はディジョン将軍をベリー=オー=バクへ先行させ、残った砲兵を再編させた。彼の第6軍団は混乱して軍務をこなせる状態になかったため、マルモン自身もベリー=オー=バクへ向かわざるを得なかったという。
 一方、ナポレオンの野営地ではランス街道方面で起きている事態についてほとんど疑うこともなく夜を過ごしていた。最初の知らせがヌヴィオンにあった騎兵の哨所から届いたのは午前2時半。ベリアールに届いた報告によると、マルモン軍団から来た第30竜騎兵連隊の士官が、9日午後7時に壊走したと知らせたという。他にも逃亡兵がこの地にやってきており、哨所の兵はエトゥヴェユへ撤退するつもりだと告げていた。この報告はおそらく3時半から4時の間にシャヴィニョンにある帝国司令部に届き、そのすぐあとにマルモンが午前2時に記した報告もやって来た。
 10日終日、マルモンはツィーテン、ランジェロン、ベンケンドルフの騎兵によって皇帝と分断され、引き続き皇帝からの連絡を受け取っていなかった。同日午後8時に彼がベルティエに書いた報告には、前日に帝国司令部の幕僚から受け取った情報についての言及がある。彼はその報告内で、皇帝と連絡を取れるようにするべくフィムへ向かうことなどを伝えた。この手紙を受け取った皇帝はマルモンに対し、ベリー=オー=バクへ戻り、ランスと軍の側面をカバーするよう命じた。
 ナポレオンはマルモンの敗北にかなり苛立っていたようだ。10日に書いた文章内で彼はマルモンの夜戦における敗北に触れ、彼の兵が「少しばかり混乱して数リュー後退し、少数の大砲を放棄した」としている。さらにまだ腹の虫がおさまらなかったのか、11日にはマルモンの小競り合いさえなければ敵は恐れてランを撤収していただろうとも記している。ブリュッヒャーをランから追い払えると期待した彼の計画は、2つの夜戦によって覆された。
 この夜襲によってプロイセン軍は2000人の捕虜、45門の大砲と131両の弾薬車を手に入れた。彼らの死傷者は300人にとどまった。ブリュッヒャーは「ヨルク軍団に頼れない時は、空が落ちてくるときだろう」とまで述べたという。一方、まるで空が頭上に落ちてきたような目に遭ったマルモンは、ナポレオンが方向を変えたことによって自分が孤立したことに不満を述べた。彼はこの敗走の際に大砲10門のみしか持ち帰れず、歩兵の弾薬車は全て失ったという。ファヴィエは損害を多くて1200人と大砲40門としているが、筆者はフランスとプロイセンのどちらの数字を支持するかについては言及を避けている。
 ただしこの敗北の責任を問われた者はいなかった。リュコットは4月2日に少将となっている。一方、マルモンの騎兵はこの敗北の衝撃から立ち直れなかったようで、3月25日には敵騎兵を前に真昼間にパニックに襲われて降伏した。

 最後に筆者はこの2つの戦いから夜襲に関する教訓を引き出している。夜戦は火力の価値を減らし士気要因を最大化する。砲兵は動かすのが大変で、少数なら役立つこともあるが移動は攻撃側にとっても防御側にとっても危険だ。
 歩兵はまさに夜戦用の兵科で、偵察隊を先行させた歩兵縦隊の戦線が使うのにふさわしい。ただし戦闘が長期化すると秩序の再建が難しくなるのは、アティー村攻撃後の混乱ぶりからも分かる。ヨルクの部隊は村と76メートルの丘を奪った後は麻痺し、クライスト軍団の大半は役に立たなかった。唯一、街道に沿って進んだブリュッヒャー大佐の歩兵3個大隊のみが追撃に役立った。
 少数の兵しか夜襲に使わなかったナポレオンと、大量の兵を投入したプロイセン軍との差から、夜襲において理論的な戦術に頼るのは不適切だと思われる。打ち鳴らされるドラム、本能が示すタイミングでの鬨の声、そして馬匹が立てる音などの方が、最良の戦術よりも効果を発揮するのが夜襲だ。
 ナポレオンもプロイセン軍も夜襲に際し騎兵の投入を躊躇わなかった。ベリアールの騎兵は悪路のせいとおそらく指揮官が成功を疑っていたせいで出撃が遅れ、一方プロイセンの騎兵は日中に地形を知っていた場所で、さらに天候的にも恵まれた状況で作戦を行った。中には溝に落ち、道を見失った部隊もあったが、全体として見れば彼らは追撃を行い、パニックを広め、多くの戦利品を集めた。逆に宿営地で奇襲を受けた騎兵は脆かった。
 攻撃側も混乱に陥ったのは間違いないが、攻撃の決意の方が重要だった。プロイセンは4個軍団で1個軍団を相手に夜襲を計画し、日中のうちに既に敵の状況を把握していた。彼らが夜間に本格的な攻撃を行ったのは、ナポレオンの介入を恐れたからだ。一方のナポレオンは困難な悪路と強力な陣地を攻撃した。確かに彼自身は恐れられていたが、自分が敵の士気に与える影響を過大評価していた。逆にプロイセンは大量の兵力を投入して力で押した。そういう意味で3月9日に行われたこの2つの夜襲は対照的な戦いであった。

 以上がランの戦いに関連した2つの夜戦について書かれた文章のまとめだ。1912年出版の雑誌に掲載された、つまり実際の戦闘から100年近くも後に書かれた文章だが、内容を見ると分かる通り歴史的な関心というより20世紀初頭の軍人たちが実践的な意味を持つと考えて記した文章である。彼らにとってナポレオン戦争はまだ実用的な戦訓を得られる研究対象だったわけで、まさに「将軍は一つ前の戦争を戦う」と言われている通りだ。
 こうした傾向はこの文章だけではなく、例えばこちらで紹介した同1912年出版の別の文章でも「騎兵には依然として未来がある」と書かれていた。本当に騎兵の行方を知りたいのならボーア戦争や日露戦争、少なくとも南北戦争の戦訓を調べ、騎兵の役割が縮小していたことに気づくべきだったのに、そうした変化についていけない者がいたわけで、同様に夜戦についても20世紀初頭の軍人たちは100年ほど前の戦争を調べれば十分だと思っていた節がうかがえる。
 ただし騎兵と異なり、夜襲の場合はまだナポレオン戦争も役に立った可能性はありそうだ。第一次大戦前時点では少なくとも夜の闇を見通す暗視装置のようなものはなかったし、砲兵もまだ自走砲や戦車は生まれていなかったわけで、この辺りの戦訓はもしかしたら使えたのかもしれない。ただしサーチライトの軍事利用は既に19世紀後半には始まっていたようだし、野戦築城が急速に広まっていたことを考えるのならランの戦いをそのまま活用できると考えるのはやはり想像力不足の面もあったんだろう。
 もちろん、現代に至るとナポレオン戦争期における夜襲の話はほぼ「歴史上の逸話」にしかならない。ウクライナ戦争ではロシアの暗視装置の数が限られているのに対してウクライナが多数を揃えているそうで、そうした差がロシア兵の多大な損失の一因にもなっているようだ。第二次大戦中のレーダーを備えた米軍とそれを持たない日本軍のようなもので、技術によって戦い方が大きく変わってしまえば「一つ前の戦争」の記録はアッと言う間に役に立たなくなってしまう。
 もちろんそれが行き過ぎると、来てもいない「未来の戦争」に備えることにばかり目が行って本当に必要な対応が抜け落ちてしまうという恐れもある。その意味では我々もナポレオン戦争に戦訓を求めた20世紀初頭の軍人たちを笑えない。「将軍は一つ前の戦争を戦う」という揶揄は、結局のところ後知恵に基づく批判でしかなく、そうした批判を口にする人間が本当の意味で次の戦争に備えているとは限らないことを、今回のウクライナでの戦争は白日の下に晒した。
 だがまあそういう反省は専門家に任せておけばいい。こちらはただのディレッタント。別に過去の戦争に戦訓を求めているわけではなく、単に何が起きたかを知りたいだけだ。ナポレオンによる夜襲の失敗とプロイセン軍によるそれの成功は、今や興味深い歴史の脚注という以上の意味はほとんどない。個人的には夜襲がなくても兵力差を考えれば連合軍が勝ったんじゃないかと思うが、どんな夜戦が行われていたかについて新たに知識を得ることができたのはよかった。
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