ランの夜戦 4

 ランの戦いにおける夜戦について記したLes Deux Hourrahs de Laon et d'Athies(p117-139、p296-317)の続き。地図は同誌の巻末に載っているものを参照。フランス軍が退却に向けて取り組んでいる間に、プロイセン側では新しい部隊が戦場に到着した。ツィーテンの騎兵が92メートル高地にたどり着いたのだ。
 カッツラーの騎兵旅団はアティーとバラントン川の間を砲兵よりは容易に通過し、村から逃げ出してきたフランス兵200人ほどを捕虜にした。さらに追撃していたユサールはボルドスーユの野営地左翼にいたフランスの胸甲騎兵を発見。だが彼らがその場に動かずに布陣しているのを見たプロイセン軍は、彼らが突撃準備をしているのだと判断。そこでピストルなどで攻撃を仕掛けたところ、フランス騎兵が大混乱に陥ったのを見て突撃を行い、勝利した。
 またプロイセン騎兵は槍騎兵が支援している5門の大砲とも遭遇。うち2門は反撃してきたが、残りは奪われ、槍騎兵も逃げ出した。ヴィルヘルム親王師団の幕僚は、92メートル丘とバラントンの間でカッツラー旅団と合流しようと戦場を行き当たりばったりに動いていたところ、突然馬がいななき、目の前にフランス軍胸甲騎兵中隊がいるのに気づいた。慌てて馬首を転じたところ、今度は20歩ほどのところで味方のユサールと会った。さらに後には気が付くと皇帝万歳と叫ぶ騎兵のただなかに入り込んでしまったそうで、戦場の混乱ぶりが分かる。
 92メートル丘の周辺では混乱がピークに達していた。フランス騎兵は優勢な敵騎兵に包囲され、一部は味方の歩兵方陣に突っ込み、歩兵から射撃を浴びていた。両軍の騎兵は道沿いの溝に落ちていた。騎兵だけでなくヨルクの歩兵もアティーと92メートル丘の間で方向を見失い、多くの兵が街道の方へと向かっていた。
 ヨルク軍団に比べ、クライスト軍団は街道という機動しやすいルート上に位置していた。にもかかわらず彼らはヨルク軍団の後を追う形で行動していた。前にも記した通りヨルクの方が年上だったことと、この夜襲がアティー村を巡る午後からの戦闘の継続だったことなどが理由で、クライストはこの夜襲における自分の立場を教導役ではなく補助的だなものだと考えていた。またクライストはラヴェルニーの森に入るのを避け、ヨルクの攻撃に予備としてついていくことを選んだ。ブリュッヒャー大佐の指揮する前衛部隊のみがヨルク軍団と並び、6時にソーヴォワール農場東方から街道沿いにラヴェルニーの森まで前進した。
 彼の部隊では選抜された60騎が騎兵1個大隊に支援されながら先行し、その後を歩兵3個大隊が続いた。騎兵の指揮官には抵抗する誰が相手でも鬨の声を上げるよう命令が下され、続く歩兵は街道の北、街道上、南をそれぞれ移動した。一番背後には予備として騎兵2個連隊が追随。歩兵の偵察隊がラヴェルニーの森に先行し、無事に歩兵を通過させた後で1個中隊が側面をカバーするためそこに残った。
 ただ中央と左翼の2個大隊はそう簡単には前進できなかった。街道の北側の大隊はホーン師団の右翼にいて76メートルの丘への攻撃に参加。街道上の大隊も道に迷ったフランス騎兵と遭遇した。彼らはその騎兵を射撃して追い払い、その後で大砲や弾薬車が溝に落ち込み、彼らの手に入った。予備の騎兵2個連隊はアティーと76メートルの丘を奪った後で街道から離れ、戦場を横切っていったが、彼らに関する記録は残されていないため、どのような戦果を挙げたかは不明だ。
 クライスト軍団の大半を構成していたアウグスト親王師団のうち、ピルヒ旅団は攻撃開始時に街道北方、ショーフール農場の背後に、クリュクス旅団は街道南方のソーヴォワール農場の背後にいた。このうち街道北方の部隊はホーン師団と同じ高地に80メートル離れた2つの縦隊で前進し、前方40メートルのところに散兵が展開した。だがホーン師団が76メートルの高地を攻撃した際には、街道北側のスペースがなくなったためピルヒ旅団は街道南方へ押しやられ、おそらく隊列の秩序は破壊された。旅団砲兵は混乱の最中に追随するつもりはなかったようで、後方に残った。クリュクス旅団はピルヒの背後に続き、騎兵は隊列を離れて街道上の戦利品を奪いに行った。既にヨルクとブリュッヒャー大佐の兵1万3000人がバラントンとラヴェルニーの間で交戦している状況下で、さらにクライスト軍団が入り込む余地はなかった。
 クライストとは逆にヨルクの左翼で行動していたツィーテンの2個騎兵旅団は、サムシー付近でバラントンを渡河した後にエッペとラ=ムイエー農場の間から出撃した。彼はユルガス旅団を右翼に2列に展開させ、レーダー旅団はその背後に続いた。敵が来ると思っていなかったラ=ムイエー農場のフランス軍番兵はあっさりと武装解除された。プロイセン側の記録によるとユルガス旅団の第1線は静かに前進し、ユルガスの合図で全力疾走を始めた。彼らはフランス胸甲騎兵を蹴散らし、さらに左に転じてランス街道へと向かった。
 この説明のうち、筆者はツィーテンの騎兵が背後に回り込み、ラ=ムイエー農場を奇襲したことまでは事実と認めている。だが夜闇の中で92メートルの丘に対し全力疾走で騎兵が突撃したことについては「事実かもしれないがそうは思えない」と疑問を呈している。またユルガス旅団第1線が街道に転じたのは意図的ではなく、後続の第2線は彼らについていく代わりにフランス騎兵がいると伝えられたアティー村へと向かった。とにかくこの周辺が敵味方入り乱れた大混乱状態だったのは確かだろう。プロイセン騎兵は互いを確認しないまま叫び、真っすぐに突っ込んでいた。

 一方、フランス軍ではマルモンが必死に残されたラグランジュ師団とリカール師団の秩序を回復させていた。兵たちは街道に沿って退却すべく身を寄せ合い、何とか抵抗の手段を確保した。マルモンは10日午前2時に書いた報告書の中で、敵歩兵が接近してきたこと、敵騎兵が味方の騎兵を圧倒し、逃げ出した味方騎兵は味方の歩兵からも敵と勘違いされたこと、そして敵騎兵が側面に迫って街道に乗り入れてきたことなどを記している。フランス軍は側面や正面の敵を斉射や銃剣で追い払い、退却を続けた。しかし彼らより先に後退していた砲兵は敵騎兵に切り裂かれ、いくつかの大砲がその手に落ちていた。一部は取り返すことができたが、敵歩兵が接近していたため多くはそのまま連合軍の手に残ったという。
 その後でマルモンは損害は大したことはなく、捕虜も少なかったはずだと記しているが、著者はこの部分についてはあり得ないと指摘している。だがそれを除けば混乱したその戦況はプロイセン側の記述とも共通している。一方、同じマルモンの文章でも、回想録になると彼が最後尾の中隊と一緒に退路を切り開いたり、騎兵が街道と平行に移動したりといった秩序だった表現が増える。さらにはプロイセン側がラッパの音に合わせて射撃を行うといった記述も登場している。逆にプロイセン側の記録によるとフランス軍の後衛部隊が冷静にドラムに合わせて行軍し、時々足を止めて斉射を浴びせてきたことになるそうだ。特にヴェリュ付近ではファヴィエの分遣隊が溝や暗闇を利用して十分に長く追撃を足止めしたという。
 追撃を諦めなかったプロイセン軍は街道上にいた部隊、つまりブリュッヒャー大佐の部隊と、第2線と途中で分かれてしまった騎兵予備のユルガス旅団第1線だった。ヴィルヘルム親王師団は92メートルの丘で完全に方向を見失ってしまい、彼らがホーン師団を引き連れて移動を再開したのはようやくクライストの主力が到着した時だった。ヨルクは彼らに対し、92メートルの丘とエッペの間で停止命令を出した。エッペにいたカッツラー旅団もそこで躊躇い、クライスト軍団の大半もランス街道上のエッペとヴェリュの間で足を止めた。これらの部隊のうちカッツラー旅団以外はその後、アティー南東に引き上げた。
 ユルガス旅団の第1線はランス街道に沿って進み、15門の大砲を奪った。エッペとラ=ムイエーの間にいたレーダー旅団はフェスティウー方面に向かい、追撃に参加した。彼らは時に騎兵、時に歩兵に遭遇し、ある時は背後に向き直り、ある時は2列に陣を敷くなど、暗闇の中で苦労しながら追撃を続けた。最終的に彼らはユルガス旅団の第1線と一緒にスタート地点から8~10キロも離れたフェスティウーの正面まで到達した。
 彼らの後に続いたのがクライスト軍団の前衛(ブリュッヒャー大佐)。彼らは街道とその両側に沿って前進したが、こちらも混沌とした追撃戦だった。右翼の大隊はファヴィエの後衛部隊を溝から追い払い、左翼大隊は突然フランス騎兵に取り囲まれたために方陣を敷いた。街道上では大砲、弾薬車、そして捕虜の群れが集められ、ある騎兵連隊などはフェスティウー到着前に800人の捕虜を得た。このフェスティウーの隘路はフランス軍にとって救済の扉であり、マルモンはここで騎兵の逃走を止めた。砲兵車両はエーヌ河のベリー=オー=バクに向かい、騎兵はナポレオンの野営地の方向へとさまよっていたが、歩兵はより容易に集められたという。
 輸送隊を指揮していた60歳の親衛猟兵がフェスティウー村の入り口に布陣し、2門の大砲を使って騎兵しかいなかったプロイセン軍を牽制した。だがブリュッヒャー大佐の歩兵が到着すると、地形を知っていたその部隊の中佐が北方と東西の両翼から攻撃し、フランス軍の陣地と2門の大砲を奪った。しかしこの時間稼ぎによって退却は危険性が減ったまま続けられ、11時にはメゾン・ルージュで追撃が止まった。かくして9日未明のナポレオンの夜襲とはことなり、この9日日没後のプロイセン軍による夜襲は成功裏に終わった。
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