周辺に多くの湿地を抱えていたこの小川は、サムシーとアティーの橋の間では騎兵にとって通行不能な障害となっていた。両軍騎兵はこの谷間を挟んでその両側に展開していたが、ボルドスーユがその位置を安全だと思っていたのに対し、ツィーテンは夜の間にサムシー付近で小川を渡り、眠りこけている敵に対して背後から襲い掛かる計画を立てていた。彼は日誌にもそう書いているし、8個連隊で夜の間に行なったサムシー付近での迂回行動を行なうには日中に地形を偵察している必要があったため、実際に彼がこの計画を抱いていたのは事実だろうと筆者は想像している。
ランス街道の両側でプロイセン軍の戦線を形成していたのはソーヴォワール、ショーフール、マヌスという3つの農場だった。この戦線からフランス軍のアリーギ師団の戦線までは1~2キロの距離があり、この戦場の空白は76メートルの丘を占領している防御側の用心の欠如を示していると筆者は評価している。プロイセンの右翼ではクライスト軍団の3個大隊がソーヴォワール農場に隣接する森の端を保持し、左翼ではヨルク軍団の2個大隊がマヌス農場に隣接する森を保持し、アティー北西端の部隊から500メートルの距離にいた。実はこの方面ではまだ交戦が続いており、日没5時45分の時点でいまだに射撃が行われていた。
午後2時にマルモン軍団が到着した時に連合軍に引き起こされた恐怖は、騎兵から、アティーで交戦しているヨルク軍団から、そしてランの高地から監視している兵たちからもたらされた「フランス第6軍団は孤立している」という情報によって雲散霧消していた。ブリュッヒャーの幕僚たちは捕虜からマルモンの指揮する兵たちの質についてもおそらく正確な情報を得ていたという。
そこでプロイセン軍はマルモンを奇襲することで前夜のナポレオンによる夜襲に報復しようと考えた、と筆者は指摘している。そう思ったのは幕僚だけでなく平野で戦っていた者たちも同じだった。どうやら最初に夜襲を示唆したのはヨルクであり、ツィーテンも同じことを主張した。クライストもそれを支持し、ヨルクはブリュッヒャーにその考えを伝えるべく部下をランに送り出した。この士官は途中で、夜襲をかけよというブリュッヒャーの命令を伝えにきた幕僚と出会った。慎重だったのはザッケンくらいで、彼はヨルクの予備として行動することを拒否したが、ヨルクはザッケンなしでも攻撃を行なうつもりだった。そもそも暗闇の中でこの狭い地域で戦うことができる数には限度があった。
ヨルクはクライストより年上だったため、命令は彼が記した。日没とともにヴィルヘルム親王師団がアティーを攻撃し、ホーン師団は村を左翼に置いて前進する。どちらも密集した大隊縦隊でできるだけ静かに進み、銃は使わず銃剣で攻撃を行なう。第1軍団(ヨルク)がアティーとその近くを通って敵を押し込んでいる間に、第2軍団(クライスト)は街道沿いに前進し、ツィーテンは騎兵を使って敵の背後を突く、といのがヨルクの記した文章だ。
午後6時、日が没して空には星が出た。地面を覆う薄い雪のせいで明るさが増していた。暦によれば9時半に月が上ったはずだが、それに言及した記録はなく、プロイセン軍は星にしか触れていない。また晴天と寒気を伴う北と東の風が北フランスでは見られたことになっているが、ルイイ、エトゥヴェユ、ヌヴィオンに野営していたフランス側は、マルモンの戦線で起きていた音について何も聞いていないとしている。一方、プロイセン側は晴天のおかげで行軍がやりやすかったと記しているそうだ。
朝のうちに立ち込めていた霧が晴れたことから、風が吹いていたのは間違いない。地面を覆う雪とラヴェルニーの森がアティーでの戦闘の音を吸収した可能性はあるが、ブルイユ農場へ向かっていたファヴィエの部隊が騒音を聞いて戻ってきたこともまた事実。さらに晴天でなければプロイセンの騎兵が大軍で機動することはできなかっただろうから、要するに皇帝の野営地もマルモンの部隊と同様に眠りこけていたと推測するのが妥当だろう、と筆者はこの夜の状況をまとめている。
マルモンの記録だとフランス軍はアティーから撤収を始めていたが、アリーギ師団がそれを安全に実行できず、敵は気づかれずにすぐ近くを追ってきていた、ということになる。ただし筆者はこの主張は信じていないようだ。彼らが夜間の陣地につこうと準備をしている時、少なくとも1万2000人の敵が全騎兵とともにフランス軍に色々なところから襲い掛かり、歩兵の一部は背後に回り込んだ。フランス軍の退却があまりに速かったためマルモンは彼らが攻撃されていることにすら気づかず、その大急ぎの退却は混乱をもたらした、と彼は記している。
プロイセン側の記録はかなり異なっているようだ。76メートルの丘ではあちこちで野営の火がたかれており、戦列に残っていた大砲点火用の火縄の火がはっきり見えた、と彼らは主張している。こちらについても筆者は疑問視しており、大砲が残っていたとしても警戒して火縄に火をともしていたとは考えられないと指摘している。むしろこれはプロイセン側が散弾を警戒していたことを示しているのかもしれない。アティー北西では300メートルしか離れていないマヌスの森にいるヨルクの軍勢に対抗して射撃が続けられていた。また6時頃にはアリーギの兵の注意を引き付けるため、ツィーテンがバラントンの対岸からアティーを砲撃している。おそらくその効果はあったのだろう、ヨルクの部隊がアティーに侵入すると、いったん陽動に引き付けられたフランス軍がまたそちらに戻ってきた。
ここからLes Deux Hourrahs de Laon et d'Athiesの文章は後半に入る。プロイセン軍は6時半、ヨルク軍団のヴィルヘルム親王師団を先頭にアティー村に侵入した。日中にこの村を守っていた彼らはその道筋についてよく知っており、マヌスの森にいた2個大隊を始めプロイセン軍はすばやく村を通り過ぎてその南端に達したようだ。戦闘の音が激しくなったのはこの村の南端だった。この時プロイセン軍を迎撃したのはおそらく村の背後に集まっていたリュコット旅団だろうと筆者は推測している。
反撃を受けたプロイセン軍は、命令にもかかわらず一部の兵が射撃を始めた。「撃つな、あれはロシア軍だ。いや撃て、フランス軍だ」といった混乱の叫びが起き、攻撃側が防御側と同じくらい混乱したこの時、ヴィルヘルム親王師団の軍楽隊がドラムやトランペットを鳴らし、続いてフラーという鬨の声が上がった。同師団の2個旅団はアティー村から出撃し、さらに砲兵2個中隊が村を迂回しようとしたが、後者は動きが取れなくなった。北方の端にたどり着いた大砲3門のみが76メートルの丘を砲撃することができたという。夜間における大砲の移動が危険に満ちている証拠だと筆者は書いている。
それでも76メートルの高地とメゾン・ブルーはホーン師団の手に落ちた。彼らはヴィルヘルム親王師団と街道沿いの攻撃の間を進み、うち1個旅団はヴィルヘルム親王師団の背後からアティーを通り抜けたように思われる。もう1つの旅団はフランス軍の見張りに遭遇することなく76メートルの高地にあるフランス軍の大砲に接近。ホーンとヨルクの間では「大砲を奪おうか?」「行こう、神の思し召しだ」といった会話がなされたようだ。プロイセン側の記録によるとこの大砲は散弾を撃ち出したが、近すぎたために兵の頭上を飛び越えていったという。ホーン師団はフランス軍を敗走させ、76メートルの丘の反対斜面にたどりつくと、そこで隊列を組み直そうとした。彼らの前にいたヴィルヘルム親王師団も隊列が大混乱に陥っていたという。
ここでヨルク軍団の歩兵の活動はいったん停止した。彼らは砲撃や射撃を浴びせてくる92メートルの丘の方角に向けてゆっくりと移動を再開。彼らの耳には砲兵が主要街道へと駆け下る音が聞こえてきた。時間が何時頃であったかを確認する手段はないが、ファヴィエやマルモンの記録によるとこの92メートルの丘ではかなり激しい抵抗が行われた。大砲が慌てて逃げ出そうとした結果、街道沿いの溝に嵌るといったトラブルも起きた。マルモンはその責任が水兵にあると批判しており、だとすればこの大砲は76メートルの丘に配置されていたアリーギ師団のものだろう。丘の上に残されたいくつかの大砲はすぐに奪われ、いくらか後方に引き下げられた大砲は大急ぎで馬に引かれ道路へ向かったと見られる。
92メートルの丘にいた砲兵部隊でも、おそらく混乱の最中に同じように慌てて大砲を馬に引かせたようだ。街道上では「逃げろ」という声も聞こえた。「混乱と夜の闇のせいで道沿いにある溝に嵌って多くの大砲が失われた」とファヴィエは記しているが、一方でマルモンは92メートルの丘で敵が激しく迎撃され、砲撃によりしばらくは撃退されたと書いている。マルモンは破壊されなかった大砲を救い出すだけの時間をそこで稼ぎ、歩兵は秩序を持ってフェスティウーへと向かった。
マルモンは皇帝に対して言い訳しなければならない立場だったため、その証言にバイアスがかかっているのは確かだろう。一方で夜襲に伴う混乱の中では誰一人として正確な状況を把握できなかったとも考えられる。どちらの言い分が正しいかというより、どちらもある程度は実態を示しているのだと思った方がよさそうだ。
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