1814年の
ランの戦い は、ブリュッヒャー率いるシュレジエン軍がナポレオンを撃ち破った戦いである。彼が他の軍と協力するのではなく、自分の軍だけでナポレオン相手に明白に勝利した唯一のものと言っていいだろう(他の軍と連携した事例ならライプツィヒ、ラ=ロティエール、ワーテルローと色々あるが)。またナポレオンと連合軍の戦力差がかなり大きかった戦いでもあり、差を小さく見ているBodartの
Militär-historisches Kriegs-Lexikon (1618-1905) でも連合軍の戦力(10万人)はフランス軍(5万人)の倍だ。
この戦いについて興味深い切り口から紹介しているのが
Revue d'Histoire rédigée à l'État-Major de l'Armée のp117-139とp296-317に掲載されているLes Deux Hourrahs de Laon et d'Athies (9 mars 1814)だ。そこでは戦いの全体ではなく、3月9日未明にフランス軍が、同日日没後にプロイセン軍が行った夜戦に焦点を当て、夜間の戦闘にどのような特徴が見られるかを分析するためのケーススタディとして活用している。なかなか面白い話なので紹介するとしよう。
記事では最初に1814年戦役の夜戦をいくつか紹介している。2月14日のエトージュ、同27日のバール=シュール=オーブ、3月20日のアルシなどがその例だが、それらについては文献が十分に残っていないという。いずれも命令は口頭で下され、戦闘は暗闇の中で終了した。分かるのは夜戦の決断がなされた時の状況と、翌朝の結果くらいである。その中で例外となったのが3月9日の戦闘だ。ナポレオンが仕掛けた戦闘については最初の命令が残っており、プロイセン軍の攻撃についてもヨルクの最初の命令と、参加した部隊の記録、そしてマルモンの報告とより公正な参謀長ファヴィエの戦闘日誌などが残されている。
3月8日、フランス軍は2つの部隊に分かれてランへと前進していた。7日のクラオンヌの戦いで連合軍を戦場から排除した皇帝は、自身が率いる2万7000人とともにソワソン方面からランへと向かった。彼らはシヴィとエトゥヴェユの湿地を通って移動することになった。一方、マルモンの部隊はランス方面から同じくランへと前進。部隊が完全に2つに分断されていたのは後にナポレオンが批判される理由となったが、早々にブリュッヒャーを追撃したいと考えていたナポレオンは部隊配置を調整する時間もなかったようだ。シャティヨン=シュールーセーヌで行われていた連合国との交渉を少しでも有利に進めるため、彼は早急な勝利を必要としていた。
こうした必要性に迫られていたため、ナポレオンは急遽8日から9日にかけての夜間に奇襲を試みることにした。9日にマルモン軍団がプロイセンの反撃で壊走した後も10日にナポレオンが戦場を維持し続けていたのも、彼が置かれていた政治的立場のためだ。彼がマルモン軍団をランスとランの間に配置したのは、ブリュッヒャーを脅かし、北東国境から来る守備隊に手を貸し、彼らを集めた後にシュヴァルツェンベルク率いるボヘミア軍へと転じるためだった。マルモンをラン近くに配置しつつ、しかしその後の行動を考えてはっきりランを目標としなかったために、ナポレオンは彼を危険にさらしたのだと筆者は指摘している。
当初マルモンの第6軍団は6000人ほどしかいなかったが、まずコルベニーにいたアリーギ師団とボルドスーユの騎兵計3000人と合流し、その数は9000人に増えた。さらにアルデンヌから引き揚げてくるジャンサンの部隊、またモーゼルとムーズからやってくるデュリュットの部隊とも一緒になることが想定されていたという。ナポレオンの命令ではナポレオンの背後を守って連絡を維持しつつ、ランスともやり取りをするよう求め、最後に前衛部隊をランへ推し進めるよう命じていた。さらに8日夕方の指示では同日中か翌日にはアルデンヌからの4000人と合流するはずであり、またデュリュットの部隊は1万2000人に達するだろうと記している。
一方、ランへと進んだ皇帝の部隊だが、8日の時点では期待したほど前進はできなかった。チェルニシェフが率いるヴィンツィンゲローデ部隊の後衛との交戦により、フランス騎兵はユルセルからマイイとヌヴィオンへ向かう道の両側で足止めされていた。ネイの歩兵はユルセルにおり、後方にいた主力はシャヴィニョンとマルメゾンにいて、司令部は前者の町に置かれた。マルモンはアリーギと合流してコルベニーにいたが、一方でコサックの襲撃によって輸送隊の1つを失っていた。
ナポレオンの正面、ランに向かう街道はエトゥヴェユ付近でアルドン川沿いの湿地のために隘路を形成していた。翌朝まで待つとここで敵の抵抗にあって多くの損害が出ると見たナポレオンは、夜のうちに前衛部隊歩兵による二重攻撃でここを突破し、さらに騎兵の大軍をその向こうにある平野に送り込むことを考えた。夜間に行なうこの攻撃は全てを一掃してランすら奪取できる、というのが彼の考えだった。
まずグールゴー率いる老親衛隊2個大隊、ポーランド兵300人、親衛猟騎兵及び竜騎兵、大砲2門と土木工兵2個中隊が午後11時に出発し、シヴィに向かい、敵の陣地を迂回してランへ進む。ネイは真夜中には出発してシヴィに布陣する。ベリアールの騎兵は午前1時半に路上を進み、駆け足でランへと向かい、町を迂回して街道を遮断したうえで町中に飛び込む。その際に彼は平野に砲兵2個中隊といくつかの騎兵大隊を残し、そちらへ退却できるようにする。以上が大雑把な計画だったという。
ベルティエが下した命令によればネイは0時半に出発することになっていた。彼が記した手紙は、この夜戦について残された唯一の史料だそうだが、部下に対してナポレオンのシェルヴォワ経由の迂回攻撃を支援するため、敵右翼への攻撃が始まるや正面を攻めるよう命じている。ネイはこの攻撃が2時に行なわれると想定し、部下には1時に出発するよう命令。さらに必要ならエトゥヴェユからシヴィへ進み、ランに向かうベリアール騎兵の前進を助けるよう指示している。また親衛隊の土木工兵がこの攻撃に参加し、路上にある橋が破壊されていた場合は早急にそれを再建することになっていた。
また後続部隊にも2時には出発するよう命令が出されており、ベリアールにはナポレオンの敵右翼に対する攻撃が成功したなら2時に出発することを伝えることになっていた。ネイの前衛はこの場合、シヴィの左にある高地に布陣して騎兵が無事に平野へ出撃できるようにする。騎兵が退却を強いられた場合、彼らはシヴィ方面ではなく左翼のクラシー方面をシェルヴォワまで引き下がるように指示されており、歩兵がそれを守ることになっていた。
ネイの士官の1人は午前1時に親衛隊によるシヴィ右側への攻撃を監視するため最前線に行き、その攻撃を確認したらすぐネイの前衛に前進を命じ、またモルティエとベリアールにもその事実を伝える。士官には工兵部隊も同行する。さらに敵がシヴィにいるかどうか農民に確認させ、敵が退却していた場合もその事実を伝える。加えて農民に同行する志願者を兵の中から選び、上手く任務を果たせば褒賞を渡すと伝える。各師団は大砲2門のみを伴い、残りは敵の退却が確実と分かるまでは渋滞を避けるため後方ユルセルにとどめておく。
以上のネイの命令には疑問点がある。この文章を読む限り、親衛隊の攻撃がシェルヴォワ経由で行われるのか、それともシヴィの右側面で実施されるのか、どちらとも取れる内容になっている。筆者は脚注でグールゴーの進路についてシャヴィニーからシェルヴォワを経てシヴィに向かう(p123n1)と記しており、シャヴィニーがシャヴィニョンのことだとしたら、グールゴーはアルドン川の対岸からシヴィに近づくことになっていたと想定しているようだ。さらに筆者は、監視を命じられた士官はマイイ城にいて音を頼りにグールゴーの動きを確認する一方、主要街道の東を通る陽動も組織したと記している。つまり2つの陽動が行われたというのが筆者の解釈だ。ただ個人的には、シヴィ右側(東側)への攻撃も帝国親衛隊によるものと書かれている以上、この解釈には無理があるような気もする。
またネイの文章を見ると、平野へ進出した後にベリアールの騎兵が退却を強いられた時にはクラシーからシェルヴォワ方面に後退するよう命じられていたように書かれている。一方で筆者は騎兵の後方においてネイとモルティエの歩兵がエトゥヴェユから出撃することになっており、ランに対する騎兵攻撃が失敗した場合は少なくとも歩兵が隘路から出てくるのをカバーするよう命じられたと記している。この主張の論拠も今一つはっきりしない。
いずれにせよこの攻撃に参加する兵力はそれほど多くはなかった。グールゴーが率いたのは多くて1000人ほど。ネイの師団は1つは1800人でもう1つは2500人にとどまり、一方で後から来て平野に進出することになっていた騎兵は合わせて5450騎に達していた。
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