戦国日本の軍事革命 下

 「戦国日本の軍事革命」について、今回は単純に面白かったところを紹介しよう。まずは第1章で語られた日本における鉄砲と海外との関係だ。もちろん鉄砲は海外から伝わったものだが、ポルトガル人が種子島にもたらしたという鉄炮記の記録以外にも倭寇などがもたらした可能性についての研究が最近は進んでいる。その中で初期の需要が「海賊の拠点であった瀬戸内海」で見られたことが指摘されている。
 1550年に瀬戸内を旅した僧侶が残した「梅霖守龍周防下向日記」の中に、彼の乗った船が海賊と遭遇し、話し合いが決裂して海賊に向け鉄砲を放ったという記述があるそうだ。この時期の鉄砲使用例としては、同年に洛中で行われた戦闘で鉄砲による戦死者が出たという記録があるため、瀬戸内での記録が即ち海賊による火器の導入の証拠と言っていいのかどうかは不明。というか撃ったのは海賊ではなく僧侶を乗せていた船の側。話としては面白いが、筆者も書いている通り火器は陸戦だけでなく海戦でも有効であったことを示す例の1つくらいに捉えておいた方がよさそうだ。
 次に紹介されているのが、鉄砲を支えた「科学者」たち。日本ではごく限られた期間に鉄砲の国産化が実現したが、これは世界的に見れば珍しいケースだった。加えてその使い方に通暁した砲術師たちが使い方や火薬の調合法を伝え、さらに武器商人たちが必要な物資の供給を行なう形で、急速にその利用が広まったという。特に砲術師たちが伝えた技術には、具体的な火薬の量や弾丸のサイズ、飛距離といったデータが含まれており、筆者は彼らを技術者・科学者的存在だとしている。そして最も古い砲術書の一例として文礫2年(1593年)のものとされる文章を一部紹介している。
 こちらでもちょっと触れているが、欧州では1588年に死去した人物が既に要塞の構築について専門的な文書を書き残すなど、火薬兵器絡みで科学的な取り組みが広まる様子を見せていた。日本でもおそらく欧州ほど先端的ではなかったとしても、同じような流れが生まれていたというのは面白い話だ。

 続いてもしかしたらこの本の中でも最も面白い部分、つまり世界貿易システムと日本の火器との関係だ。前にも述べたが、日本国内での硝石入手法は戦国時代において基本的には古土法を使っていたと思われる。この本でも、一応五箇山の培養法について触れてはいるが、一般的には生産が始まったのは江戸時代になってからとしている。一方で火器の大量使用が戦争の在り方から社会、国家まで変えたとも記しているわけで、当然ながら国内では手に入らない硝石を輸入で補っていたことが推測できる。
 筆者によると硝石の産地は中国の山東省や四川省、さらにインドも推測できたという。これらの硝石を手に入れる際に信長が頼ったと思われるのがイエズス会。彼らはインドから、あるいは中国のマカオなどを経由する際に硝石を仕入れ、それを日本へ持ち込んでいたという。信長がイエズス会と親密な関係を結んでいたのは彼らから硝石を手に入れるためでもあり、代わりにキリスト教の保護を行っていた、というのが筆者の考えである。
 もっとはっきりと考古学的証拠によって裏付けられるのが、鉛の輸入。長篠の古戦場で見つかった鉛玉を調べると、十字架や指輪といったキリシタン遺物に使われているのと同じタイのソントー鉱山で産出したものだったそうだ。タイといえばこの時期にはタウングー朝との激しい戦争が行われていた時期であり、彼らもまた火薬兵器を使っていたため、軍事目的用の鉛の産出はかなり強化されていた可能性はある。これらの鉛はタイのアユタヤなどで積み込まれ、土佐沖を経由して紀淡海峡から信長が押さえている堺まで運ばれてきたのではないか、という。
 なぜ鉛が重要だったのかについても筆者は説明している。鉛に比べて鉄や銅は比重が低く軽いため、高速で撃ち出されても空気抵抗によって失速し、威力を失ってしまう。また鉛は柔らかいために着弾時につぶれ、敵兵に大きなダメージを与えることができる。輸入が難しかった東国の大名たち(北条氏、武田氏)は銅や鉄を鋳つぶして弾丸を作っていたが、高価な割に破壊力は弱かった。おまけに融点の低い鉛は現場で兵が弾丸をこさえることができるため、予め弾丸を作って持ち込む必要があった銅や鉄よりも利便性に勝っていた。
 このため鉛の輸入ルートを押さえることは戦争の行く末にも影響を与える重要事だった。信長と足利義昭を中心とした反信長同盟が争っている時に、鉛は2つのルートから入ってきていた。1つは朝鮮半島経由で、こちらは浅井・朝倉や毛利氏、そして紀州へと伝わっていた。いずれも反信長包囲網の関係者たちがいる地域だ。足利義昭は将軍として対東アジア外交権を握っていた可能性があり、それを使って東アジアから流れてきた鉛を自分の味方に送り込んでいたと見られる。
 信長がイエズス会と手を結び、タイ産の鉛を輸入していたのも、足利義昭への対抗策として行っていたのかもしれない。後に本能寺の変より後には紀州の雑賀勢もタイ産の鉛を手に入れるようになったそうで、秀吉が彼らを攻めた時には雑賀勢はタイ産の鉛玉で戦争をしている。戦略物資を巡る競争は、別に産業革命以降の特権的な出来事というわけでもないのだろう。
 雑賀の名前が出てきたが、それ以外にも根来、甲賀、伊賀といった、現代では忍者の里として知られている地域の名前がこの本には頻出する。実はこれらの地域はいずれも足軽を大勢輩出していた地域であり、また鉄砲の利用でも知られていた。この時期の畿内近国では相次ぐ戦争を受けて傭兵集団を数多く輩出する地域が増えていたようで、戦働きで勢力を蓄えたものの中にはこの地域で城館を作る動きが増えたほどだという。ローカルな権力が力を増すという意味では時代の流れに反していたとも言えるが、一方で山中のあまり豊かと思われない地域の者たちが傭兵になるという流れは中世末期から近代初期のスイスを思わせる面もある。
 もう一つ面白いのは安宅船の話。信長が大きな船に鉄の板を貼ったという話はよく語られているが、それよりもこの船の効果は高い位置から鉄砲や大砲を撃つことで高い攻撃能力を発揮した点にある、というのが著者の考えだ。逆にこの船は航行能力はかなり低く、速度も遅かったようで、欧州の同時期の帆船のような使い方は難しかったのだろう。でも輸送能力は高かったので、兵站を支える点ではもしかしたら役に立ったのかもしれない。本の中では平和が訪れた後の使用例が主に紹介されているけど。

 それにしてもこの本を読むと、改めて火薬兵器が各地にもたらした影響は千差万別だと思わされる。例えばポルトガルは16世紀の時点ではあまりアフリカに火器を供給していなかったと言われている。彼ら自身、オランダやドイツからの火器輸入に頼っていたためだそうだ。一方、インドのゴアではかなりの銃を製造していたという話もあるが、アフリカへの輸出量がすぐには増えなかったところを見ると生産量はそこまで多かったわけではないのかもしれない。
 そのポルトガルとの接触が銃を手に入れる最初の機会の1つとなった日本では、しかし銃そのものはすぐ自前で作るようになったため、供給不足に悩む必要はなかった。代わりに日本は高い金を払って硝石や鉛を手に入れる方に力を入れることになり、それがもしかしたら戦国時代のキリシタン増加につながった可能性もある。もちろん銃そのものに比べれば鉛玉や硝石の方がおそらくは手に入れやすかったのだろう。日本が半世紀ほどの間に銃大国となり、外国へ20万人もの兵力で攻め込むに至るほど国力を高めたのも、国産化によって銃を大量に備えることができたのが一因だったんじゃなかろうか。
 もう一つ、日本の軍事革命において気になるのは、他国軍や他国人傭兵の姿が見当たらないことだ。インド洋沿岸だけでなく中国沿岸でもポルトガル軍は姿を見せたし、東南アジアではポルトガル人傭兵が活躍した。だが日本では、少なくともその大半では、戦国時代に多くの外国傭兵を雇ったり、あるいは外国軍が首を突っ込んできて戦争になったという話は聞かない。あれだけ世界の果てまで出かけていった西欧列強が、バテレンを除いて日本に深く関与しなかったのはなぜだろうか。
 1つにはもちろん距離の問題がある。西欧にとって日本はまさに最果ての地であり、たどり着くのが大変な上に住民が好戦的過ぎて戦争をする際のデメリットも大きい。とはいえ16世紀末から17世紀前半にかけては世界最大級の銀の生産国でもあったわけで、どこかの国が狙ってもおかしくなかった気もする。それともこの著者も書いている当時の海防体制が、実はとても強固なものだったのだろうか。とまあ色々なことを考えさせられる本だった。
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