戦国日本の軍事革命 上

 「戦国日本の軍事革命」読了。題名を見ても分かる通り、日本の戦国時代と軍事革命について論じたもので、こちらの著者インタビューにも書かれている通り、戦国時代に「鉄炮」がもたらしたインパクトについて記した本だ。戦国大名が進めようとしていた分権化を逆の統一へと向け直したのが鉄砲に代表される軍事革命であり、それを進めたのが信長による税制と軍事動員にかかわる改革だったという理屈のようだ。
 信長については最近は普通の大名だった点を強調する論考が増えているようだが、筆者は「大規模な鉄炮や大砲の活用と火薬や玉の確保」という点で彼は卓越していたと指摘。また大砲の使用も増えてきたのに伴い、より科学的な能力が重視されるようになったとも述べている。だがそういった信長の評価よりも、火薬技術が社会を変えたという切り口は、まさにロバーツやパーカー以来の軍事革命論の系譜に沿ったものと言える。軍事革命論については以前からそれに対する反論の方が目立っていたが、最近は反論に対する反論も出てきているのかもしれない。

 内容は4つの章に分かれており、最初は国際関係と絡めた日本の火器の位置づけから入り、続いて戦場で起きた変化、その軍事力を支えた経済と軍政、そして最後に火薬兵器を通じて日本に生まれた近世的な軍隊についての説明を行っている。トータルとして見れば西欧で起きたほどの極端な社会変化には至らなかったという結論については、こちらで紹介した本と似ており、軍事革命論否定の論拠として日本を持ち出したこちらの説からは遠い。江戸時代は確かに封建制かもしれないが、軍事革命を通じて中世までの封建制とは質的に異なる「近世国家」になったというのがその評価だ。
 まず筆者は鉄砲伝来前の戦い方においては長柄が主力になっていたと指摘。また騎馬武者の存在も含め白兵戦の役割が一定程度あったことを認めている。この時点では飛び道具は槍の支援を主務としていたようで、鉄砲の到着後もしばらくはそうだったのではないかとの見方を示している。このあたりは以前紹介したスイスの事例と似ているし、朝鮮王朝実録に載っている日本軍捕虜が伝えた戦術とも整合的だ。
 だが筆者自身は鉄砲がもっと決定的な役割を果たしていたと見ている。少なくとも長篠の戦いについては鉄砲が重要だったという主張については、前にこちらで書いたことと平仄が合っている。実際には火器の重要度は時間とともに増していったという考えで、第1段階は16世紀半ばのまだ珍しい兵器だった時代、第2段階は信長をはじめとして主に西日本で大量使用が広まっていった時代、そして第3段階は関ヶ原以降に大砲の使用が広まっていった時代という理屈だ。家康の大砲利用については海外から購入した話として、こちらで紹介したコックスの手紙を採録している。
 新兵器の登場は戦場も変えた。著者がまず指摘しているのは城攻めの変化で、特に信長の時代に増えたのが「付城戦」だ。簡単に言えば敵の拠点をこちらの野戦築城で取り囲んでこれを落とす、のみならず拠点を脅かすことで敵の野戦軍を引き寄せるという狙いも含めた戦いで、まさに欧州近代がルネサンス式要塞を落とすために使った正攻法の攻城戦とそっくりである。日本では欧州のような巨大要塞は生まれなかったし、それが雪玉効果と統一をもたらしたとされているが、要塞がまったくなかったわけでも、攻城戦と無縁だったわけでもないのは確かだろう。
 社会の変化という意味では、他の戦国本でも指摘していた「上級家臣が在地領主としての性格を失っていった」点も、ここで指摘されている。地域に根を張っておらず、容易に国替えができる大名という意味で「鉢植え大名」と呼んでいるが、大名たちを積極的に鉢植え化していったのはまずは信長、それから秀吉だったという。こういった中間団体的な存在を排除することで政治体の効率性を増すという取り組みが極端に進むと中国になるのだが、そこまでは行かずとも諸侯の廷臣化や官僚化という意味では欧州と似た社会の変化が起きていたとは言える。
 そうした変化を主導したのが軍事であることも、この本には指摘されている。鉢植え大名たちは天下の代理人たる信長や秀吉から一定の収穫量を持つ領国を預かるわけだが、代わりに彼らはその収穫量に応じた兵力や物資の供給を求められた。提供する軍事力については陣立てや軍役によって定められ、また供給された兵たちは軍法に従うことが求められた。もちろん実態としては引き続き個人事業主である傭兵たちが数多く参加していたわけで、彼らをそうした「公儀の軍隊」に変化させるのは容易ではなかったのだが、建前的にはそうした変化も起きていたことになる。
 軍事力を支える経済力確保のために採用されたのが石高制と信長検地だ。歴史的には太閤検地の方が有名だが、著者によるとそちらは信長が始めた取り組みをいわば完成させたものだそうで、信長がそれ以前とは異なる社会を作り上げようとしていた様子がうかがえる。彼の取り組みは、中世の荘園のような重複した権利関係を整理し、それをそのまま軍役と直結させたもので、この方法を通じて大量の軍隊を確実に効率的に集めようとしたのだろう。またその際に採用した石高制が、この後江戸時代まで使われることになった。本来なら穀物ではなく通貨を使った方が利便性が高いはずだが、中国製の貨幣にまだ頼っていた当時の日本においては、不足気味の貨幣を使うよりコメを使った方が効率的だったのだと思う。このあたりは歴史の経路依存性を示す事例なんだろう。
 同時に信長が取り組んだのは、軍事を支える経済に関する政策だ。といっても振興策というよりは規制緩和に近いもので、つまるところ通行税やみかじめ料をなくすことで経済活動を活発化させるという方法だ。また経済活動に加わるエリアが広いほど経済力が高まるという面もあるんだろう。そのうえで広大な直轄地からの収入を使って兵站を支える仕組みを作ったわけだが、その仕組みを動かすために官僚的な家臣が増えていったという。テクノクラートの増加はこれまた西欧でも進んだ現象だし、これまた極端に進めば中国になるが、効率的な社会や国家が作られる過程ではこうした現象が起きるのだろう。
 もし日本の社会の変化がさらに進んでいれば、エリートの動員が進んだところで次は大衆を(傭兵という形ではなく公儀の兵として)どう動員していくかという話になったのかもしれない。だがそこまで至る前に戦争は終わり、その必要性はあまりなくなってしまった。結果として武士たちは領地、領民、城郭を持たないサラリーマンとなったものの、百姓たちは「天下の百姓」と呼ばれつつ地元にとどまり、武士との間に隔絶が生じた。ころころと国替えされる大名は、領民から見れば天下りでやってくる落下傘経営者みたいなもので、それほどの愛着は持てないだろう。幕末の会津藩の領民たちが見せた行動などもその一例かもしれない。
 ただし平和になったから戦争への動員が消えてなくなったかというと、そういうわけでもないところが興味深い。著者によるとむしろ戦国時代の終わりは「武装国家の創出」だったという。幕府は鎖国体制を敷いた一方で沿岸部を守る海防体制を築き上げ、足軽たちには武器や武具を貸し出し、また建前上は破却したとされている城の中にも「古城」と呼ばれるちょっと修繕すれば使える防衛施設を残していた。特に興味深いのは農兵の活用で、建前上は「天下の百姓」であった者たちを軍事力として使う動きが、特に長い海岸線を持つ西国諸藩で見られたという。これらの訓練を受けた兵がそのまま幕末に兵士となったとは限らないのだろうが、そうした慣習が残っていたことが次に戦乱の時代が訪れた時に大衆まで動員する体制を敷く上でのレールになったのかもしれない。

 以上、この本における軍事革命、つまり軍事技術が社会や国家の変化にどのくらい影響を及ぼしたかという観点で見た感想を並べた。火薬革命についてまとめた文章の中で、日本を含むユーラシアの辺境にどんな影響が及んだかについて書いたことがあるが、日本社会にもまた火薬技術の影響が及んでいたのはおそらく事実なんだろう。ただし、くり返しになるが、西欧ほど極端な変化を経験したようには見えない。封建制が残り、財政=軍事国家や国民の総動員といった形での効率性向上もなかった。何より戦場での火器の普及度やその規格化が、西欧に比べるとずっと立ち遅れていた。
 その意味ではこの本を読んで軍事革命の歴史における日本の立ち位置が変わるとは思わなかった。でもそれ以外に面白いところもたくさんある本だったのは確かだ。そのあたりは長くなったので次回に。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント