東南アジアの軍事革命

 火薬史についてまとめた際に、西欧から火薬革命が広がった流れとしてユーラシアの中核(火薬帝国)と周辺部を分けて論じた。その方が火薬革命の影響を論じやすいと思ったからだが、もちろんもっと細かく分けるとそれぞれの地域内でも場所によってさらに独特の影響を受けていると言える。日本は西欧から技術だけを受け入れたのに対して政治的な影響はほとんど及ばなかったし、逆にシベリアのように完全に欧州勢力の支配下に置かれたうえに後にそこからの植民を受けた例もある。そしてその両者の中間的な事例も当然ある。
 分かりやすい例が東南アジアの大陸部だろう。世界史上では東南アジア地域も単に西欧に植民地化された場所の1つという認識で見られることが多いが、知っての通りタイは最後まで一度も植民地化されたことはないし、他の地域もその大半が植民地となったのは19世紀に入ってから、つまり産業革命によって大分岐が始まった後だ。例えばインドネシアはオランダ領という認識があるかもしれないが、こちらの地図を見ても、18世紀以前にオランダ領となっていたのはほんの一部だったことが分かる。
 逆に言うなら19世紀の途中までは地元の政権がこれらの地域で覇権を争っていたことになる。そしてそれらの政権は日本と同様、西欧から伝わった火薬兵器を使っていた。そうした初期の事例を紹介している一例が、Thai-Burmese Warfare during the Sixteenth Century and the Growth of the First Toungoo Empireという文章。基本は題名にある通り、15世紀後半から16世紀末まで存在した第1次タウングー王朝の歴史を記しているが、その中に火薬についての言及がある。
 この王朝は特に16世紀後半に急激に勢力を広げたことで知られており、その勢力範囲はベトナムとカンボジアを除く東南アジア大陸部のほぼ全域に及んだ。といってもタウングーの王が実際に統治していたのはこれらの地域のうちペグを中心としたミャンマーの沿岸部周辺に限られており、大半の地域はタウングー王と封建的な主従関係を結んだ地元勢力を通じての間接統治にすぎなかったようだ(p96)。しかもこの関係はかなり属人的なものであり、王が死去すれば改めてゼロから関係を作り直す必要があった。王朝が短期でその勢力を失ったのもそれが一因のようだ。

 このタウングーが行った戦争には3つの特徴があった。1つは地域を超える戦争を行ったこと。Liebermanが指摘した通り、答案アジア大陸部はビルマ、シャム、ベトナム3地域に分かれて政治体の統合が進んだのが特徴だが、タウングーはビルマの勢力として初めてその枠を超えた戦争を行った。2つ目は大規模で多民族的な兵の構成、そして3つ目がポルトガルの傭兵と武器を使ったことだ(p78)。
 彼らの戦力は記録によると10万人超、いや時には100万人近くに達したとあるが、おそらくこれらの数値は過大なものと思われる(p84)。ただその兵がイラワジ流域を中心としたビルマから集められた兵だけにとどまらず、メコン上流域やチャオプラヤ峡谷からも集められたのは事実のようで、そういった多様で大量の兵の存在によって彼らはそれ以前まで東南アジア大陸部で最強と見られていたアユタヤまで屈服させることができたという(p84-85)。
 そして火薬兵器だ。この時期のビルマの歴史については18世紀初頭の人物であるU Kalaが記した年代記Mahayazawingyiが基本資料となるようで、この文章中でもその中に記述がよく紹介されている。それによるとインドから火薬兵器がこの地に伝わったのが14世紀後半からとあるそうだが(p85)、こちらは個人的にはちょっと疑問。西欧からの火器の伝播はマムルーク朝がようやく14世紀後半、オスマン帝国でも同世紀末になってからであり、インドには15世紀半ばにようやく伝わったとされている。東南アジアへの伝播は早くで15世紀半ば以降ではなかろうか。言及されている兵器は小火器(銃)、旋回砲、大砲となっているが、旋回砲が広まったのはやはり15世紀以降だ。
 閑話休題。16世紀前半にタウングーの王であったタビンシュエーティーの時代にポルトガル傭兵700人が雇われていたという話がまず紹介されているが、これはやはり過大だと言われている。上に紹介したU Kalaの年代記によれば15世紀半ばのアユタヤ攻撃時には100人のポルトガル銃兵が含まれていたとあるほか、ポルトガル傭兵180人がタウングー側に、別の傭兵50人がアユタヤ側についたという話もある。そしてこの戦いでは180人のポルトガル傭兵が戦死したそうだ。
 16世紀後半のバインナウン王の時代になると、ポルトガルの火縄銃兵400人が王を護衛したとの話があるし、16世紀末の戦争ではアユタヤの側についたポルトガル傭兵の銃撃でタウングー側の司令官が射殺されたという話もある(p86)。またタウングーは大砲も使っており、城壁破壊よりも高い丘や塔の上にそれらを配置して攻囲した町を撃ち下ろすのに使っていたという話もある。数などははっきりしないが、かなり激しい砲撃が行われたようだ(p86-87)。他にタウングーの西側にあり、沿岸での交易で栄えていたアラカンでも、西方の武器やポルトガル傭兵を手に入れていたという話も紹介されている(p90)。

 タウングーと争ったアユタヤとポルトガルとの関係についてはEarly Portuguese Accounts of Thailandにいくつか言及されている。この本では例えば中国が最初に銃砲を使ったのは永楽帝の時代(p16)などと書かれており、正直1980年代に書かれた本と考えるとあまりにアナクロなので信用できないと思えてしまう部分もあるのだが、一応この本では東南アジア大陸部に本格的に火器が普及したのはポルトガル勢がやってきてからだとしている。ポルトガル人がシャムやビルマに到着した16世紀初頭の時点では、大砲の鋳造も火器も存在していなかったそうだ(p15)。
 ポルトガル勢と手を組んだアユタヤは、すぐにその火力を生かした北方のチェンマイ国を相手に戦いを優位に進めるようになった(p14)。彼らが接触した16世紀初頭の時点ではまだタウングーはそれほど強大化しておらず(タウングーが沿岸部のペグに首都を移したのはやっと1540年のことだった)、また直前まで交易で大きな富を蓄えていたと思われるマラッカ王国はポルトガル軍を率いるアルブケルケの手によって陥落したばかりだった。
 上の文献で紹介されていたタウングーとアユタヤ双方にポルトガル傭兵がいた点については、こちらの文献にも書かれている(p30)。アユタヤの周囲にある砦に据え付けられた大砲は60人のポルトガル兵が扱っていたそうで、16世紀半ばの戦争以降、アユタヤの王は周囲の泥の壁をレンガの壁に変更し、また大砲を据え付けた堡塁も築いたそうだ。またタウングーの司令官が撃たれた話についても言及しているが、司令官を殺したのはダーツとなっている(p31-32)。

 これら東南アジアにおける初期の記録を見ると、何より興味深いのは西欧人を傭兵として雇い、彼らに火器の扱いを任せていた部分だろう。実は火器に関連して西欧人にその武器使用まで委ねる事例は、歴史を見ると珍しくない。ソンガイ王国を征服したモロッコ軍も傭兵を雇っていたし、サファヴィー朝は常に欧州の軍事専門家を呼び寄せることに注力していた
 このあたりは、そういう話がほとんど存在しない日本の方が珍しいのかもしれない。戦国時代にやって来た西欧人の中心は宣教師とされており、軍事専門家や傭兵を戦国大名が雇い入れたという話は(疑わしい事例はともかくとして)ほとんどない。さすがに産業革命後は「お雇い外国人」として多くの欧米専門家を呼び寄せているが、大航海時代にそうした取り組みがほとんど見られない国はそう多くはないんじゃなかろうか。
 逆に言うなら、その時点で既に西欧人は火器の専門家というポジションを広い地域で認められていたのだろう。最終的には火薬の故地である中国でもお雇い西欧人が大砲作りに邁進する有様だったのを踏まえても、西欧こそ軍事技術の最先端と思われていたのはおそらく間違いない。また、ある意味で西欧では昔から「組織人としてではなく知識を生かして仕事をする専門家階級」が存在していた証拠とも言える。なかなか興味深い話だった。
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