実際、論文では比較的容易にPSIまで算出している、ように見える。まずは冒頭に1820年時点で中国が世界のGDPの3分の1弱を占めていたと指摘。これが1870年には西欧の半分にまで減ってしまった理由を説明する理論としてSDTが使えるとしたうえで、SDTの説明(大衆の困窮化、エリート過剰生産とエリート内競争、政府の財政悪化)を行い、それから具体例としての清の歴史に踏み込んでいる。
まずはGDPの推移だ(Figure 1)。17世紀に明清移行で右肩下がりとなったGDPは18世紀から19世紀前半にかけて上昇し、その後で低下に向かった。一方、1人当たりGDPは17世紀末までは底堅く、時に上昇していたものの、18世紀に入ると次第に下がっていき、19世紀には明末よりもさらに低い水準にまで落ち込んでいる。明清移行を経て17世紀後半から18世紀一杯まで清の統合フェーズが続き、その後は解体フェーズに入った、というのがこの論文の解釈だ。
次に大衆の困窮化のデータとして出てくるのが人口の推移(Figure 2)と耕作地の対比だ。清の人口は150年で3倍以上に急拡大したが、もちろん耕作地はそんなに急に増えるわけもなく、結果として1人当たりの耕作地面積は1600年の7.87畝から1887年には2.78畝へと大幅に落ち込んだ(Table 1)。中国人口のうち85%は農民だったため、この典型的なマルサスの罠こそ潜在大衆動員力(MMP)の計算にふさわしいと論文は結論づけている(実際には1人当たり耕作地面積の逆数を使っている)。
その次はエリート過剰生産。通常の社会だとこの計算は色々と面倒なのだが、中国の場合は科挙という非常に分かりやすい制度の存在からこのデータを調べるごとが可能になる。Table 2は科挙への合格率を時代ごとに並べているが、18世紀前半に6.4%あった合格率は19世紀半ばには半分近くの3.5%まで低下している。実は清の時代に進士に合格した者の数は、ずっと人口が少なかった明の時代と比べてもさして増えておらず、エリート志望者の増加が人口増に比例していたとしても、エリート間競争はかなり激化していた様子がうかがえる。おまけに清は建国の経緯から満州族や蒙古族を優遇しており、また後半になると財政悪化への対応として官職の売却が増えたこともあり、いよいよエリート間競争が激しくなる要素が揃っていた。
もちろん論文では太平天国の乱を起こした洪秀全にも言及している(そういえば
こちらのゲーム のデフォルト名が洪秀全らしい)。彼に限らず、役職にありつけなかったエリート志望者たちは、勉強の過程で手に入れた組織指導能力を使って反乱軍を率いていたわけで、科挙制度は実際には対抗エリートを育てる仕組みにもなっていた、というのがこの論文の解釈だ。というわけで潜在エリート動員力の計算には人口に占める進士合格者の比率(の逆数)を使っている。
そして政府の財政難だが、これまたかなりきちんとデータが揃っているようだ。Figure 3を見ると歳入と歳出、そして収支バランスがある程度は追跡できる。18世紀半ばあたりまでは黒字幅が大きく出ていたが、19世紀前半に次第に歳入が減り、途中から急激な歳出増が進んで赤字が急速に膨らんだ様子が分かる。これに対し清政府は売官制を活用して歳入を増やそうとしたが、なかなか追いつけなかったのが実態。20世紀に入ったあたりで少し改善する動きは出ているが、基本的にはずっと赤字体質が続いている。
以上をまとめたPSIのグラフが載っているのがFigure 4だ。見ての通り、清の場合はまずEMPが、続いてMMPが急増し、最後にSFDが悪化したところでPSIの爆発的上昇が起きている。時期はまさに19世紀の前半であり、そして太平天国の乱が起きていたあたりだ。といってもこのあたりは想定の範囲。面白いのは19世紀後半に清のPSIがじわじわと低下している点だ。驚いたことに清は政治ストレスの急増を何とか1回は乗り切ったことになる。ただしそこから復活することはできなかった格好だ。さらにFigure 5を見ると内戦の発生頻度とPSIとが見事に相関している。一番相関度が高いのは10年前のPSIと内戦の頻度だそうで、つまり構造的なストレスが高まった10年後にはそれが爆発した、という関係が見られるわけだ。
一方、外部要因と内乱の増加は必ずしも高い相関を示していない。例えばFigure 6には干ばつや飢餓の発生度合いも一緒にプロットされているが、それらは清の統治の前半にも後半と同じくらいの度合いで発生していたが、それが内乱につながった様子はない。これは対外戦争を見ても同じで、Figure 7を見るとやはり前半に高い時期があったのが分かる。外生的要因は個別のトラブルのきっかけにはなり得ると思うが、それがどれだけの社会政治的不安定性につながるかはむしろ構造的要因の方を見た方が推測しやすい、というところだろう。
全体として予想通りの分析だが、面白いのは上にも指摘した通り、19世紀後半のPSIがピークを付けた後の過程でも清はとりあえず持ちこたえていた点だ。これだけの高いストレスを相手にしばらく耐えしのいだという点は、むしろ感心できるレベルの強靭性なんだろうが、でも結局数十年後にはそのストレス相手に持ちこたえられずに帝国滅亡に至った。気になるのは、彼らがなぜ数十年滅亡を遅らせられたのか、一方でなぜ再復活できなかったのか、という点だ。
PSIのピークに合わせて破綻に見舞われるのは分かりやすい。内乱にせよ革命にせよ、それまでの体制ではこなせないほどのストレスがかかったと考えればいいからだ。またこのストレスを超えて体制の立て直しに成功する事例もある。19世紀から20世紀初頭の米国はおそらくそうだし、人口の推移から推測するならおそらく17世紀の李氏朝鮮もそうだったんだろう(
Atlas of World Population History , p176-177)。PSIがピークを越えて低下すれば、体制にとっては立て直しやすい環境が訪れることになるわけで、危機を乗り越えられた体制が長続きするのも不思議ではない。
ストレスのピークで倒れるのではなく、しかしその後もう1回サイクルを回すだけの余力はなくなって最後は崩壊した体制というのは、過去にどのくらいあったんだろうか。そういうのが珍しいのだとすれば、清の体制におけるどのような特徴がそれをもたらしたのかが気になるし、他にも事例があるのならそれと清との共通点が何なのか知りたくなる。今回の清の研究はTurchinらのグループが進めている
「危機の結果」に関する研究 の一環と思われるが、そこではそうした体制崩壊のタイミングについても調べているんだろうか。
一応、この論文では清と似た事例としてロマノフ朝を取り上げている。ただロマノフ朝は清と異なり、
19世紀の危機はかなり穏便に乗り切っている 。最終的な破綻の時期は確かに似ているが、両者を似た事例というカテゴリーに入れていいのかどうかは分からない。それも含めて、まだまだ調べる余地は多くあるんだろう。
それにしても2000万人から3000万人が死んだと言われる
太平天国の乱 は、19世紀の内戦としてはけた違いの死者を出した凄まじい戦争である。江戸時代の日本の人口が3000万人くらいだったということを考えると、いかにとんでもない出来事だったか想像がつく。この危機をいったんは乗り越えたのだから、清は意外に打たれ強い国家だったんじゃなかろうか。
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