研究者と流行り言葉

 ウクライナでの戦争は、引き続き動きが少ない。ワグナーがバフムートの東半分を占領したと主張したという話が伝えられ、またNATO幹部が近くバフムートが陥落する可能性に言及したそうだが、前回も述べたようにバフムートを落としても戦況が大きく動くわけでない。要するに全体として見れば相変わらず膠着状態が続いているわけだ。

 その中で面白い指摘だったのが、こちらのツイート。最近書かれた論文を紹介し、「ハイブリッド戦争」という概念に対する疑問を提示している。この言葉は2014年以降にブームを巻き起こしたのだが、それが本当に研究を達成するうえで有効な概念であるかどうかについて批判的に検討する必要があるという話だ。
 その論文は‘Hybrid warfare’ as an academic fashion。その中ではハイブリッド戦争という概念について、一過性のファッションであり既に現時点でその「力と魅力」の大半を失っていると述べているのみならず、「間違いなく欠陥のあるコンセプト」とまで指摘。2014年にNATOがロシアの行動を説明するためにこの概念を使用したことがきっかけになって、この言葉が急に人気を博するようになっていった経緯について述べている。
 確かにgoogle ngramで調べてみても、2014年頃までは低位横ばいだったのがその翌年から急増しているのが分かる。アカデミア内部だけでなく、書籍の分野でもこの言葉が急に流行り言葉と化した様子が窺えるのだが、さて、こうした流行と実際にこの概念が特に学問分野で役に立ったかどうかは、また別の問題だ。
 論文によると最初にこの概念を広く提唱した研究者は、米軍に柔軟な思考を促すための方策として通常戦と非正規戦とをまとめて把握する必要がある、という狙いでハイブリッド戦争という概念を打ち出したそうだ。だが2014年にロシアのウクライナへの侵略行為が始まった時点で、NATOの関係者がこの言葉を広く使うようになると、すぐその概念がずれていった。焦点を当てられたのは奇襲要素とか、手段や目的の曖昧さ、国際法の無視といった新しい要素にかかわる部分だった。
 NATOの実務家にとってハイブリッド戦争という新たな概念は役に立った。政治家や国民の関心を呼び起こす効果があり、何より予算確保のツールとして有用だったためだそうだ。さらには明白な軍事手段ではなく、グレーゾーンに当てはまるような非軍事的手段に焦点を当て、そこからロシアの脅威論に結び付ける動きもあったようだ。実際にNATOの安全保障担当者にとっては、こうした物言いが世論や政治家を動かすうえで大いに役立つ概念だったんだろう。
 問題はこうした使い方に学者が引きずられたこと。2014年以降に急速にハイブリッド戦争に言及した論文が増え(Figure 1)、その中には軍関係でないアカデミアの筆者も大勢いた(Figure 2)ところを見ても、実務家ではない研究者がこのファッション(流行)に便乗した様子が分かる。彼らは提唱者であるホフマンではなくNATO的な定義に従ってハイブリッド戦争を論じ、実際にはロシアの事例ばかりを紹介しているにもかかわらず、あたかもハイブリッド戦争という強力な手段が存在してそれをロシアがうまく利用したかのように語ったという。
 でも彼らのうち本当にハイブリッド戦争という概念がロシアの行動を分析するうえで役立つ枠組みになるかどうかを調べたものはいなかったようだ。そもそも言葉の使い方も曖昧で、warもwarfareも同じ意味で使われていた。さらに実務家に引きずられるかのように非軍事的手段の方に関心が集中し、用語としては昔から存在したグレーゾーンという概念とほとんど同じになっていった。実務家たちが使っている概念に同調することが促された一方で、より深い考察はむしろ妨げられた、というのが筆者の見方だ。
 結局のところハイブリッド戦争という概念は、ファッションと化すことでバンドワゴン効果を引き起こし、そして流行となった概念への同調が強まった結果として実際の研究にはむしろ悪影響を及ぼしたと考えられるそうだ。ロシアの行動を理解するうえで本当に新しい概念が必要だったのか。単に新しいレッテルを貼っただけで理解したような気になって、本当にきちんとした考察はむしろないがしろにされていたのではないか。今回のウクライナ侵攻によってハイブリッドではない単なる通常戦が分かりやすく目に見えるようになったところで、改めてこれまで「ハイブリッド戦狂騒曲」について疑いの目を向ける人が増えてきたのだろう。
 最初に紹介したツイートでは、軍事研究は政策志向が強いだけに、流行り言葉が研究にもたらす悪影響が懸念されると書いている。また論文生産圧力に晒される研究者(publish or perish)にとっては「独自性、新規性がある議論」は魅力的で、既存の概念の範囲で取り扱えるとしてもファッショナブルな概念に引き寄せられるのではないか、との感想も記している。
 これについては同感だ。前に書いたpolycrisisの話でも、この用語に飛びついている研究者たちがこの概念で「数十年とは言わないまでも数年でも食っていけるのなら御の字」と考えているのではないか、と指摘した。論文に異論があるとしたら、単に軍事研究の分野だけでなく、今やアカデミアのかなり幅広い分野で同じ懸念があると思われる点。過剰生産されたエリートたちにとってアカデミアはレッドオーシャンと化した過酷な生き残り競争の土俵だ。分析に際して何のメリットもないような概念であっても、それが流行であれば皆の注目を集め、予算を分捕ってくる材料になる。であればそれを使うことを躊躇わない研究者も出てくるだろう。
 また実務家と研究者との関係とか、その概念が本当に研究に役立っているのかといった疑問点についても、横に広げることが可能に思える。それこそ軍事分野であれば、いまだにクラウゼヴィッツやジョミニの唱えた概念を無批判に使っている研究者がいるが、彼らは研究者であるとともに実務家でもあった。当時の実務家としては使える概念だったとしても、それを後の時代の研究者がそのまま使って問題ないのかどうかは、もっときちんと考える必要がある。
 軍事分野以外でも、例えばプロテスタンティズムと資本主義について、それが本当に役立つ概念であるかを見直す流れが出てくるにはかなり時間がかかった。最近でこそデータに基づいて宗教と経済成長の関係を調べる研究者が出てきているが、プロテスタンティズムと資本主義をつなげる発想はかなり長期にわたって残っていた。マルクス主義などはもっと長く枠組みとしての妥当性を問われないまま残っていた。政治化した議論が研究をいかにゆがめるか、といった事例は、軍事関連にとどまらず数多くあるだろう。

 研究者にとっての概念は事実を正確に把握するための道具だが、実務家にとっては目的達成のためのツールだ。もちろん実務家にも有能な者と無能な者がおり、後者はツールというか道具をまともに使えないケースがある。最近になってまたロシアがウクライナのインフラに対するミサイル攻撃を仕掛けたが、相変わらず軍事的効果よりもプロパガンダ目的のようで、在庫が枯渇しつつある貴重な兵器だというのになぜこういう使い方をするのかと疑問を感じざるを得ない。
 実際、この攻撃は2月中旬以来のものであり、必要なミサイルの在庫が回復するまでにこれだけの時間を要したと考えれば、この後もまたしばらくミサイルを使った攻撃は難しくなりかねない。それにこちらの記事でも指摘されている通り、ミサイルを使った戦略爆撃は、核兵器でも使わない限り成功しない。高額なミサイルは用意できる数に限度があり、そしてその程度の数では「人の抗戦意思を砕き心を折る」には不十分、という理屈だ。
 ロシアにとって不足している兵器はミサイルだけではない。最近では精鋭部隊にも損耗した戦車の穴埋めとして60年も前のT-62が投入されているという。もちろんこちらもろくな戦果が望めるような兵器とは言い難いが、数少ない戦闘車両を守るためにバフムートでの損耗比率が5対1になるような非合理な戦いまでやっているわけで、貧すれば鈍するという言葉通りの展開と言える。
 さらに、前回も記した志願兵不足の問題もある。こちらについてはロシア軍に対して不満の多いプリゴジンのワグナーではなく、新たにガスプロムに傭兵部隊を作らせようとしているとの話もある。といっても大きな目的はこの国営企業に戦争の経費を負担させることにあるようで、要するにこちらもまた苦し紛れな対応のようだ。
 これまでのところ、たとえ近いうちにバフムートが陥落したとしても、ロシア側の度を越した不手際、下手くそすぎる道具の使い方に変化が生じているようには見えない。西側の援助があるとはいえ国力でこれだけの差があるウクライナを相手に一向に勝てないのも、彼ら自身の不手際があればこそ。彼らの国力が取り返しのつかない損害を受ける前に、ロシアがこの不手際を辞められるかどうか、現状では見えてこない。
 ただその国力自体はそこそこあることは忘れるべきでない。購買力平価で見たGDPはドイツに次ぐ6位だし、彼らの事実上の同盟国と見られる中国は実は米国より大きい。もちろんこのGDPがどこまで実態を表しているかは分からないし、購買力平価でGDPを比べる意味はないとの指摘もあるが、ウクライナよりずっと国力が大きいのは確かだ。
 それに日本にとっては、韓国との関係改善が進んでいるように見えるのがかえって不吉だという意見もある。それだけ両国の政府当局が国際関係のヤバさを認識している証左だとしたら、暗い気持ちになってしまいそうな解釈である。
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