憲法で取り上げている政府の仕組みについての哲学や動機を記したこの論文は、米国にとっては要するに国造りの根幹思想をまとめたものとも言えるが、ではそれを「ダーウィン化」するとはどういう意味だろうか。
ダーウィン はもちろん種の起源で進化論を唱えた人物であり、ここでも当然ながら進化論を視野に置いているはずだが、この文章ではフェデラリスト・ペーパーの成立後、ダーウィンの死後も含めた「200年以上に及ぶ科学的に洗練された考え」を付け加えるとしている。要はダーウィン個人というより、彼以降も含めた進化論的な発想によってフェデラリスト・ペーパーをアップデートする、という内容だ。
まずこの文章ではいわゆる社会ダーウィニズムは進化論の誤った解釈であり、それが登場する前の19世紀後半にはむしろダーウィニズムは社会主義者たちにもてはやされていた、と指摘している。ダーウィニスト左翼とも呼ばれる人々がいて、むしろ進化によってヒトはモラルや共感、協力的な行動といったものを作り上げていったと解釈していたらしい。彼らは既存の体制を変化させるうえで、ダーウィンの「進化」という概念が利用できると考えた人々だったと思われる。
続いてフェデラリスト・ペーパーが作り上げようとしていた「ユニオン」、つまり米連邦政府に引っ掛けて、この世界のユニオン(結合体・融合物)を作るうえで何が必要かを生物学的視点から論じている。分かりやすいのは多細胞生物で、個々の細胞が全体として機能できなくなった状態は即ち死んだ状態だと指摘。集合的な利益のためにはより低いレベルでの破滅的な(一部は得をするが全体は被害を受ける)利益を抑制する必要があると指摘。ただし、がん細胞を免疫細胞が殺すような「ダークサイド」を避けながらこれを人間社会で実現するには、利益とコストを公正に分配する必要があるとしている。
そのためにヒトが進化させたのが「道徳観」だ、とダーウィンは述べている。またダーウィンの述べる生存競争(存在するための闘争struggle for existence)という言葉は一種の比喩であり、そこには個体間の協力的な共生、個体間の競争、そして厳しい環境に直面した時に適応度を拡大するための戦略、という意味が含まれている、とこの文章では指摘。そのうえで利己心はより高い共通善に向けられなければ、つまり十分に啓蒙された利己心でなければ病的な結果を生み出すとしている。
続いてこの文章ではこれまでの社会主義と資本主義が失敗する理由について解説。共通善を目指すという意味で前者の方向性は正しいが、そのために中央集権的な体制を敷いたのが間違いだとする一方、後者については利己心が物事を動かす強力なエンジンになることを認めつつも、「見えざる手」に任せれば共通善が達成されるという見方に異論を唱えている。資本主義を既存の道徳と入れ替えるのではなく、既存の道徳の重要な要素をスケールアップさせなければならない、というのがこの文章の主張だ。
そして最後にこの文章は、人々がみな「社会主義者」「グローバリスト」「民主主義者」「資本主義者」「環境主義者」「テクノロジスト」そして「科学者」になる必要があると宣言している。社会主義者として共通善のため、「すべての人の利益のため」に働く社会を作り、資本主義者として活力ある起業家精神を活用しつつ共通の利益のために市場を管理する。民主主義者として
収奪的な社会ではなく「包摂的な社会」のために あらゆるレベルで民主的なガバナンスを取り入れる。
さらにはグローバリストとして世界的な「ユニオン」のため、より下位レベルの利益を廃止はしないまでも調整し、また環境主義者として持続可能な経済を創造して地球上の生命の管理者として行動する。そのためにはテクノロジストとしてグローバルな共通善を前提としたコミュニケーションを構築し、科学者として遺伝的に進化した知覚能力を超えるレベルでの現実理解を行ない、そのうえで共通の利益のために行動する。こうした200年を超える知見を導入することで、フェデラリスト・ペーパーの理念をさらにアップデートできる、というのがこの文章の主張だ。
この文章が書かれたのは
2019年の独立記念日(7月4日) 。トランプ政権下で米国の分断がさらに進展している中で、改めて建国の理念である世俗的啓蒙を見直し、それを科学的に裏付けのある格好に組み直すことで、再び米国民が一致できる理想を描こうとしたのだろう。敢えて社会主義と資本主義双方の「失敗」に言及しているのも、左右に引き裂かれている米国をまとめなおすにはどちらか一方に寄せた主張では難しい、という判断があるのだと思われる。
そのうえで、さてここで主張されている議論はどのくらい正確なのだろうか。エピローグの部分には色々な論拠が示されているのだが、例えば進化論についてはDavid Sloan Wilsonの
マルチレベル選択 にかなりの部分を負っていることがはっきり記されており、この時点で個人的には警戒信号が灯る。たとえマルチレベル選択を受け入れるとしても、利他的なメンバーで構成されるグループが生き残るのは利己的グループ間での競争が動因になっていることが多い。それこそ
Turchinらの研究 で触れられている通りであり、だとするとこうした方法でグローバルな「ユニオン」を作ることは難しいはずだ。この文章は別の場所でTurchinの
Ultrasociety を参考文献に挙げているのだが、Turchin自身がYoutubeのインタビューで世界的なユニオンの成立可能性について
「道徳的に期待する」 と述べていることを踏まえても、これは現実味のある主張というよりもあくまで理想像の提示にとどまっていると思われる。
ダーウィンの「生存競争」に関する理解については違和感はない。だがこの文章でも説明しているように、この生存競争には「共生」と並んでやはり「競争」も含まれているし、同じニッチを巡る競争の果てに一方が絶滅する事例も生物の世界では事欠かない。最も分かりやすい事例の一つがネアンデルタール人だろう。ホモ・サピエンスは同じニッチを巡る争いで彼らを絶滅させ、そのうえでさらに繁栄を遂げた。
我々の体内に僅かに残っている彼らのDNAも次第にヒトのゲノムから取り除かれつつある そうで、共生と同じくらい排除の論理も進化の中に含まれていると考えておかしくはないだろう。
経済関連の議論としては
Evonomics で取り上げられている話や、
ピケティの21世紀の資本 などが論拠として紹介されている。確かにそういう主張があるのは否定しないが、経済学に詳しい人が見たらかなり偏った見解と見られそうな気がするラインアップではある。個人的にはScheidelの言う通り経済活動は格差の拡大に帰結すると思っているし、その意味で利己心の追求が社会的に公正な配分をもたらすのは幻想ではないかとも考えているが、一方でこれまたScheidelの言う通り格差を縮めるのは暴力のみかもしれないとも感じている。要するに道徳を経済活動に組み入れたところで効果は限定的もしくはゼロ、になるんじゃないかというのが私個人の感想だ。
つまり、全体としてこの文章で主張されている「フェデラリスト・ペーパーに科学の装いを与えて説得力を増す」という取り組みは、実際には口実として使われているだけに思える。本当の目標は新しい理念とか道徳として世俗的啓蒙を再生させることにあるのであって、真に科学的な説得力を持つ主張に切り替えようとしているわけではない、ように見えてならない。左右の極論に振られてしまうよりは、まだこうした「科学的装いをした世俗的啓蒙」に米国人を結集させる方がマシ、という作成者の意図が透けて見える文章、というのが私の感想だ。
本当にマシなのだろうか。集団的な利益と個体の包括適応度の一致率を高めるうえでは、集団内で個々の利益とコストを公正に配分させるというやり方は確かに妥当に思える。特に短期利益と長期利益のバランスを上手く取って、
「囚人のジレンマ」 において裏切りより協調を選ぶことにメリットを感じさせる人を増やすのは、確かにトータルの利益を増やすための真っ当な方法だろう。
しかしそれは、協調すればトータルの利益が最大化するという条件が成立する場合だ。前に
「マルサスの帰還」 でも書いたが、産業革命後の高度成長の時代においては人口増よりもパイの拡大が先行するため、協調によって利益の最大化が実現できるのだろう。だが産業革命というイノベーションの効果が一巡し、
成長が鈍った ところで、なお囚人のジレンマ的な状況が継続すると言えるだろうか。むしろ協力しようが裏切ろうが全体の利得は常に同じ、という時代が来てしまう可能性はないのだろうか。
成長をもたらす発見や発明が低調になり 、特に
先進国で収穫逓減が起きている 現状においては、たとえフェデラリスト・ペーパーをダーウィン化した新たな理念に人々を結集させたとしても、彼らの期待に応えるようなリターンを提供できないのではなかろうか。そうなれば人々は世俗的啓蒙自体に落胆し、より過激な方向へと走る可能性もある。まして世俗的啓蒙によってグローバルなユニオンを作り上げようとするのは、そうとう難度の高い試みだろう。掲げるべき理念として間違っているというつもりはないが、さて果たしてうまく行くだろうか。
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