襲撃マニュアル

 ここまでかなり長期にわたって延々と戦闘が続いていたバフムートだが、そろそろ終わるかもしれない。ウクライナ軍がバフムートで踏みとどまることを肯定的に評価していたISWが、3日の報告で彼らがバフムートの一部から撤収する可能性について言及。さらに5日の報告ではバフムート東部からの限定的な撤退についても述べている。ただし完全に町から引き上げるかどうかについて判断するのは尚早だともしており、不確定要素は残っている。
 一方でISWはロシア軍にウクライナの退路を断つ能力はないと推測している。彼らが取り組んでいる旋回運動の目的はウクライナに準備した防衛陣地を放棄させることであり、そしてウクライナは包囲されるより前に撤退するだろうというのがISWの見方。ロシア側はバフムートを占領できるとしてもその攻勢は限界に達しており、そこからさらに進むには人員と装備の制約が問題になる。一方ウクライナにとっては、ロシア側のバフムートでの損害、ヴフレダールでの失敗、そしてルハンスクでの停滞もあって、将来の反攻の条件が強固になっているとの分析だ。
 既にwikipediaにも載っているこの戦いは、昨年8月1日から始まっていた。つまり半年以上にわたってこの人口7万人ほどの小さな町をロシア軍はひたすら攻撃し続けていたことになる。損害は1月に報じられた数字だとロシア側が1万~2万人に達したそうで、ウクライナ側の数字ははっきりしていないがかなりの損害と見られている。ただし、バフムートを落としてもドンバス方面の戦線が少し移動する程度で、そこから例えばドネツク州全土を取るまでにはまだずっと長い距離がある。
 ロシア側が勝利した戦いというと思い出すのは昨年5~6月に行われたセベロドネツクの戦いだが、人口10万人弱のこの町よりさらに町のサイズとしてはバフムートの方が小さかった。ただ(ウクライナ側の主張によると)ロシアが多くの損害を受けたのはセベロドネツクの時も同じで、この時は1万~1万1000人が戦死したという。つまりロシアは神奈川県伊勢原市と佐賀県鳥栖市程度の町2つを落とすのに2万人以上の死者を積み上げたことになる。事実だとしたらあまりに効率が悪いんじゃなかろうか。
 それでも過ちに学んで戦闘の進め方を改善しているのなら、まだ言い訳も立つかもしれない(個人的にはそうは思わないが)。失敗を糧としてこれから強くなるためのやむを得ない犠牲だったと主張する者も出てくるだろうし、前にも述べた通りロシア軍が短期間で戦闘効率を向上させる可能性に言及していた人もいる。だが開戦から1年が経過した今もなお、全体としてロシア側の戦い方が実際に改善したと評価している専門家はほとんど見当たらない。むしろ彼らは未だに学んでいる様子がないという指摘の方が目立つ。
 その一例が、ヴフレダールでの戦闘でロシアが少なくとも130両の戦車や装甲車を失ったという話。ウクライナがロシア軍をキルゾーンにおびき寄せ、地雷でルートを制限したうえで、砲兵とHIMARSを使ってロシア軍を叩きのめしたという。ISWはこの戦いについて、ロシアが被った人員と装備の喪失という問題をいまだに解決できていない例と見ており、つまり事態を改善したくともできていない可能性がうかがえる。
 この戦いで大きな損害を受けた第155海軍歩兵旅団については、損耗を埋め合わせるために艦艇を下ろされた水兵が編入されていたそうで、「末期戦好きのハートが高鳴る」などと言われてしまっている。開戦からほんの1年ほどでドイツ軍の末期と引き比べられてしまうのはいかがなものかとも思うが、これだけ兵に信頼されていない指揮官の率いる軍であれば想定すべき事態かもしれない。末期戦というか末期ブラック企業というか。

 ロシア側の適応能力不足といった問題を象徴するのが、彼らのマニュアルに関する話だ。ウクライナ軍が手に入れたと言われているロシア軍のマニュアルについてISWが紹介している文章を見ると、要塞化された地域に対する正面からの強襲を行なう大隊サイズの「襲撃分遣隊」の戦術について詳細が載っているという。
 この分遣隊は6両のT-72戦車、12両の歩兵戦闘車、携帯用のロケットランチャー、対戦車ミサイルシステム、牽引砲、自走迫撃砲などの装備を持ち、3つの突撃中隊と1つの戦車班で構成されている。中隊は司令部、2つの突撃小隊、ドローンチーム、装甲戦闘車グループ、射撃支援小隊、砲兵支援小隊、予備班、救護班で構成されており、戦車1両と歩兵戦闘車4両、対戦車ランチャー、重機関銃、迫撃砲を装備している。12~15人で構成される突撃小隊は3人ごとの戦術グループに分かれ、砲撃を始めてから1分以内に襲撃を始めるそうだ。
 このマニュアルについてウクライナ側は、BTG(大隊戦術グループ)に代わってより小型で機敏な作戦編成をロシア側が採用したのではないかと分析しているようだ。といっても彼らは戦車を、各種の兵科を組み合わせた部隊の一翼として使うのではなく、後方からの直接射撃支援にとどめているもよう。つまり襲撃に際しては歩兵が真っ先に突っ込む戦術を採用していると思われる。ISWは、ロシアが歩兵より戦車を守ることを優先しており、報じられているロシアの戦車装備の高い喪失と平仄が合っている、と分析している。
 なぜこんな戦術を彼らは採用したのか。マンパワーと装備能力の低下に合わせ、より簡単な諸兵科連合戦術を使う必要があるためで、この戦術の方が経験が浅く訓練を受けていない動員兵にとって使いやすい、というのがISWの指摘だ。さらにこの方法は、ワグナーがバフムートで採用した戦術を制度化しようとしている試みではないかとも記している。ワグナーは以前から小規模な分隊サイズの正面突撃を採用していると言われており、囚人を使っていた彼らの戦術がにわか仕込みの兵にも使える、という判断かもしれない。
 もちろん、こうした戦い方は兵員の損耗コストが極めて大きく、その割に得られる成果は限定的だ。ロシアが大して広くもないバフムートを取るのに半年以上もかけていたように、このマニュアルに沿った戦い方は動員兵を簡単に投入できるかもしれないが、規模が小さく消耗的な戦術であるため短期間でその勢いを失いかねない。「ロシア軍がこの編成で作戦上重要な突破を素早く行うことはまずない」というのがISWの結論だ。

 そもそもロシアの正規軍は伝統的に志願兵動員に苦戦しており、動員兵に頼ることが多かったとISWは指摘している。足元でも軍に不満を持つ兵がワグナー加入を申し出たという報道があった。結果として志願兵はワグナーのような極右グループから動員する他になく、当初動員を避けようとしていたプーチンは彼らに活躍の余地を与えていた。だがそれでは足りないことが昨年のウクライナ軍によるハルキウの反撃などで判明。結果、動員兵が揃ってきた時点でワグナーに頼る度合いも低下していった、というのがISWの見立てだ。
 問題はロシア軍が頼ることのできる動員兵の余力も決して無限ではないこと。プーチンが若者の動員率を高めて戦争を続けようとした場合でも、毎年18歳に達する若者が80万人しかいない中、そのうち26万人は既に徴兵している状態で、さらに動員割合を高めるのは相当に困難だ。無理にやろうとしても肉体的に軍務に向かない若者を引きずり込むことになるうえに、より多くの人間が経済活動に参加できなくなるわけで、こんどはそちらの方で戦争を支える基盤が弱体化していく。
 というか既に武器の不足が何度も報じられるようになっている。先だってはイランから輸入している自爆ドローンが不足しているという話が出ていたし、ロシア軍の巡航ミサイルが枯渇しているという報道もあった。こちらではロシアが製造や修復できる戦車の車両が、ウクライナで失っている数に追いついていないという話が書かれている。彼らが戦車を歩兵の背後に引っ込めてしまうのも、失ったら穴埋めできないからだろう(その割に上にも述べた通りヴフレダールで派手に損耗したりしているが)。
 素人的に考えるなら、本気でロシア軍を立て直すためにはいったん戦争をやめ、軍を根こそぎ改革しなければならないように思える。また動員兵がまともに戦えるようになるまでにきちんと訓練をする時間が必要だし、そもそも装備を揃え直さなければジリ貧だ。要するに今戦争をやるメリットはどこにもないようにしか見えない。威勢のいいことを言っているのは陰謀論者をはじめとした親ロシア派くらいであり、前にも書いた通り陰謀論と政治が結びつくとろくなことにならない証左にしかなっていない。
 もちろん、ロシア側だけでなくウクライナ側からも胡散臭い情報はかなり出てきていると思う。政治の腐敗っぷりで言えばウクライナもロシアに負けず劣らず酷い国だという話もあるし、その意味では特にSNSの情報などは全部、留保しながら見るくらいでいいんだろう。ロシア側に比べてウクライナ側のそういう問題が目立たないのは、単に日本人にとって遠い国だからではなかろうか。ロシアという名前で飛びつく人はいても、ウクライナという名前で反応する人はずっと少ない。ただの承認欲求モンスターが多い陰謀論者にとっては、ウクライナ側の陰謀論を唱えても注目を集められないため、あまりメリットがないのだと思う。
 とはいえまともな情報を知りたければ、ロシアだけでなくウクライナからの情報操作にも気を付けなければならないのは確かだ。こちらのツイートでは鵜呑みにしない方がいい情報源がいくつか紹介されているので、これらを参考に判断するのもいいだろう。慌てて結論に飛びつくのではなく、せめてISW程度の慎重さ(それが十分かどうかは分からないが)を持ちながら情報に接するようにすべき。こうした難しさは、まさに現代史ならではの問題だと思う。

 最後にイランで起きている女子学生の毒ガス被害。包括適応度的観点で言うと意味が分からない(自国の若い女性を攻撃するメリットは誰にもないように見える)が、女子教育をやめさせる狙いかもしれないとの見方がある。イランでエリート過剰生産が生じており、それが先進国同様に女性を巻き込んでいるのだとしたら、エリート内競争がこういう形で表に出ているのかもしれない。こちらで枢軸宗教を掲げている地域がこれから世俗的啓蒙化していくのではと予想したが、それに対する反動が出てきている、のだろうか。
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