William Wayne Farrisの
Japan to 1600 の続き。前回は主にFarrisが想定する人口推移を紹介した。縄文時代のピークの後、農業開始後の増加は奈良時代にピークを迎え、それから500年ほどに及ぶ実質的な横ばいの後、鎌倉末期から次第に拡大を始めて江戸時代半ばまでには奈良時代の5倍くらいまで膨らんだ、というのがその流れだ。
鬼頭宏が説明した推移 と、細かいところはともかく大雑把に言えばそれほど大きく異なっているわけではない。
人口の論拠としてFarrisがしばしば説明に持ち出すのは、死亡率への影響が大きい疫病と飢饉。このあたりは前回も色々と説明した通りであり、奈良時代から平安末期までは疫病への集団免疫を身に着けるための時間となり、その後に天候不順による飢餓の訪れがあって鎌倉末期まではなかなか成長軌道に乗らなかった。つまりFarrisは割と外在的な要因が人口に影響を及ぼすと見ているわけで、このあたりは
TurchinよりもGoldstoneの見方に近い 。
西欧の黒死病の事例などに比べて集団免疫獲得に時間がかかった理由は、大陸との距離に加えて列島の大半が都市ではなく地方だったことにある。例えば天然痘は平安前期におよそ30年ごとに流行しており、免疫を持っていない30歳以下の住民をそのたびに一掃したという。人口が密集していれば風土病として残り続ける一方で集団免疫も働くようになるのだろうが、これだけ間をあけての襲来だとそのたびに大流行に見舞われ、それが人口に下押し圧力を加えたのも不思議はない。平安後期になってようやく天然痘の風土病化が進み、流行の頻度が上がる一方で人口へのマイナス圧力は減っていったようだ。
飢餓の原因となった天候という点では、所謂
「中世の温暖期」 は日本ではむしろマイナスに働いたもよう。この時期は気温が低下したようで、農業生産にそれだけダメージがもたらされた。加えて都での建設ブームが樹木を減らし土壌浸食を招いた。鎌倉時代の途中までは火山の影響もあって気候が厳しく、そうした問題が緩和されるまでは人口の成長にはなかなかつながらなかった様子が窺える。
そうした自然環境以外に日本の人口に影響を及ぼしたのは海外からもたらされた様々な要因だ。初期に決定的なインパクトをもたらしたのは移住。最初にやってきた旧石器時代人を始め、列島には多くの人が移住してきた。特に中国が分裂していた200~600年頃までは列島にとっては大移住期だったようで、人口が最初のピークを迎えた奈良時代について、Farrisは少なくともその3分の1は朝鮮半島経由で流れ込んできた人々だと推測している。現代の米国の人口動態を見るうえで移民を外した議論はあり得ないが、それと同じ事態が昔の日本でも起きていたと思われる。
しかしこの大規模な移住の流れは、隋唐帝国による統一以降衰えを見せる。自国が平和な状態であれば敢えて他地域へ逃げる必要もない。朝鮮半島も7世紀後半には新羅が統一しており、直接の流入は日本の人口がピークを迎える直前から弱まっていたと思われる。以後、大陸が再び戦乱に見舞われる時代が訪れても、その期間はそれほど長いわけではなく、列島への大陸からの長期的人口流入が見られることはほとんどなくなった。
直接の移住以外にも大陸の影響はある。Farrisは日本に大規模な鉄の鉱脈がなく、実は朝鮮半島からの鉄素材の輸入が重要だったと指摘している。鉄器は特に農作業には欠かせないが、大陸から素材が来なければ農作業にもマイナスの影響が出る。そして実際にそうしたマイナスが存在したのが、奈良時代のピークから平安前期にかけての時代だ。それまでは移住者が持ち込んだものも含めて多くの鉄器が入ってきていたが、日本と敵対的だった新羅による半島統一の影響で鉄が止まり、それが農業生産力の低迷と人口減につながったという。中大兄皇子の失敗(白村江)は、かなり長期にわたって悪影響を及ぼしたようだ。
逆に新羅が倒れて高麗になると、再び鉄の流入が復活したという。平安後期になるとその影響が次第に広まり、人口も底打ちした。だが農業における改革が広まっていくには時間を要したようだ。鎌倉時代に入ったところでようやく厩肥や家畜を使った農作業が広まり、二毛作も拡大した。だが農業がより本格的に変わり、農村の姿も変化していったのは鎌倉末期以降。その時期にはチャンパ米の導入といった形で大陸からの影響が列島の人口にインパクトをもたらした。
対外交易は平安後期の人口復活のきっかけともなったようだ。10世紀に成立した北宋は中国の歴史上でも極めて経済活動の活発だった時代として知られており、日本にも中国からの船が何度も訪れてきていた。平安末期の平氏政権による日宋貿易の話は有名だ。それに高麗の成立は鉄以外の交易にも影響を及ぼしていた。輸入品は国内での商業にも一定のインパクトを与え、一度は人口減ですたれた貨幣流通も復活をしてきた。
こうした一連の流れを見ていると、商業活動が花開くためにはまず食糧生産の安定が必要だったのだろうと思わされる。人口減に見舞われていた時代はもとより、横ばい圏から抜け出すまではなかなか商業の拡大も思うように進んでいないし、交易も限定的だった。鎌倉末期になって農業生産が安定し、人口の急増がスタートしたところから、様々な他の生業にも加速がかかるようになり、都市人口が増えていった。平安前期は京都以外に都市と呼べるような場所はなかったが、1450~1600年には新たに150もの都市が誕生し、少なくとも75万~85万人が人口5000人以上の都市部に住むようになったという。
農業生産が安定しないと困るのは他の商売人たちだけでなく、エリートにとっても同じだ。奈良時代、社会階層のトップにいた貴族たちの数はおよそ150人ほどだった。今と家族制度が違うことは承知のうえで当時の人口(600万人)から世帯数を150万ほどと乱暴に計算するなら、エリートになれるのは1万世帯に1人くらいの割合となる。確かにエリート感あふれる数字になるし、このくらいの割合なら当時の生産技術でも支えられそうに見える数字だ。
ところがその後、全人口が減ったにもかかわらず貴族の数は1000年頃には300人かそれ以上と、奈良時代の倍以上に増えた。まさに
エリート過剰生産 である。一方で労働人口は減り、いかに労働力を使わない形での生産を進めるか(例えば天日干しの塩田などが広まったのはこの頃)といった工夫が採用される一方、余剰生産物に群がる人の数はむしろ増えていたわけで、当然ながらエリート内競争は激化していただろう。
その後、人口は底を打つものの、一方で都の貴族以外に寺社と武士という新たなエリートの登場もあり、エリートの過剰生産は続く。Farrisはこの3者を三脚にたとえ、しばらくはこの3者が互いに支え合うような状況が続いた。だが再び成長が始まった鎌倉末期以降、その恩恵をほぼ一手に収めることができたのは武士であり、貴族は没落、寺社も武士と手を組む動き(五山など)はあったが、位置づけとしてはあくまで武士の後塵を拝していたように見える。
ところがその後、人口がさして増えないのにエリートが増える時代がおよそ500年も続いているうちに、日本のエリートの在り様が変わった可能性がありそう。多すぎるエリートが内紛を繰り広げていても、社会を脅かすほどの本格的な外敵の襲来がない状態が継続。結果として日本のエリートたちは他国から見れば過剰に見えるエリートの状態に「慣れて」しまったのかもしれない。敵対するライバルを徹底的に潰すところまで行かないような政治が定着するようになったのは、この「憲章国家」時代に身に就いた習性、なのかもしれない。
一方、一時は労働省略型の生産にシフトする動きもあった日本で、しかし結果的には
勤勉革命 と呼ばれるほど労働集約的な生産活動が中心になっていったのはなぜか。いやもちろんそうしないと人口増が達成できないという面があったのは確かだが、人口増はあくまで結果だろう。個々の労働者が勤労にいそしむ過程では彼らに何らかのインセンティブが働いたと考える方が納得がいく。
Farrisの本では室町時代から散在して住んでいた農民たちが集住を始め、村が「企業体」になっていったと指摘している。農民たちはこの新しいスタートアップに参加している経営者兼労働者で、そこで自律的に自らの利益を手に入れるための行動を決めていくようになったのだそうだ。逆にここにジョインしない面々はどんどん社会の中で周辺化されやがては消えていったのだろう。もしかしたら日本人の勤勉さには、そういったかつての「
ベンチャー起業家 だけが生き残る社会」の残滓が残されている、のかもしれない。まあただの思い付きだけど。
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