Japan to 1600 読了。以前、
こちら でも言及した、日本の人口動態に関する研究者William Wayne Farrisが記した日本史の本(といっても題名にある通り1600年まで、つまり江戸時代の直前までが対象)である。外国人が書いた日本史の本の中には時には
トンデモ本 もあったりするのだが、この本は読んだ限りはかなり真っ当な本であるし、その視点もかなり面白かった。
唯一気になる点は、脚注が極めて少ないことだろう。筆者はこの本を英語話者向けの教科書的に書いたようで、そのためあまり多数の脚注を並べるのはよくないと判断したらしい。もちろん脚注が皆無というわけではないし、また巻末にはさらに関心を持った読者向けに英語の関連文献を多く紹介しているので、勉強の役に立たないというわけではないんだが、細かい案件について突っ込んで調べたいという場合には、少し手間をかける必要があるかもしれない。
カバーしている時期が1600年までという点をどう見るかには色々な見解もあるだろう。個人的には江戸時代以降の人口動態はかなりはっきりしているため、データを追うのはそれほど苦労しない。だが古い話になるとやはり情報が十分とはいえず、そのあたりを研究者がどう考えているのか知ることができる文献の存在はありがたい。もちろん1600年以降もカバーしてもらっていたならさらに感謝したいところだが、こちらが知りたい部分までは押さえてあるので不満はない。
副題にA Social and Economic Historyとある通り、この本の主題は政治史ではなく社会経済史の方だ。従って教科書的な本ではあるが、ありがちな政治史に基づく歴史記述にはなっていない。そのため、わざわざ序文のところに一般的な年表(古墳時代とか平安時代といったやつ)と、この本における章立てを比較した表を載せ、どこが違っているかを説明している。政治史で記述すると細かい年代(例えば鎌倉時代の始まりは1185年となっている)が区切りになるが、社会経済史ではそのあたりはもっとざっくりとした切り方になっているのが特徴だ。
もちろんFarrisによる時代区分は人口が基準となっている。と言っても前に紹介した
「4つの波」 、つまり縄文時代、農業化、経済社会化、工業化という区分を採用しているわけでもない。詳しく取り上げている期間は律令制が固まりつつあった600年以降であり、縄文時代や弥生以降の農業の拡大といった部分については、いわば序章でまとめて言及するにとどめている。
それによると縄文時代のピークは今から6300年ほど前で、人口は東日本を中心に26万~35万人ほどまで達したという。だが3300年ほど前にはその数は16万人に、2900年前にはたった7万6000人にまで減少したそうで、この辺りは前に紹介した鬼頭宏の指摘と基本的に同じだ。続いて農業や金属器が伝わった弥生時代になると今度は西日本を中心に人口が急増したのだがその数字については、弥生後期の250年頃に60万~300万人とかなり幅のある数字が記されている。古墳時代が終わる600年頃までには、この人口は500万人前後に達していたという。Farrisによれば弥生末期より「2~3倍に拡大した」そうなので、彼が想定している弥生末期の人口は200万人前後なのだろう。文字資料のない時代であり、推計は難しい。
古墳時代までの推移を第1章でまとめたうえで、Farrisはいよいよ人口動態に合わせた時代区分に基づく記述を第2章から始める。ここから後はまず政治的な流れを紹介し、次に人口と経済を取り上げ、最後に社会(階層や家族、女性など)について言及するというスタイルをずっと続けており、このあたりもなかなか教科書的な書き方となっている。まずは日本の人口動態についての彼の見解を確認したいので、特に人口部分の動きを見ていこう。
紀元600~800年をFarrisは成長の終わりとしている。農業の導入によって進んできた人口増がこの時期にピークを迎えたという認識で、具体的には730年頃(天平文化の時代)に640万人に達し、中国やインドと並んで世界でも人口が密集している地域の一つになったそうだ。この時期には奈良の他に難波や大宰府が規模の大きな都市になっていたもよう。しかし、弥生時代から続いていた大陸からの人口流入がこの頃には止まり、一方で疫病が本格的に列島に上陸してきたこともあり、日本の人口動態はここで1つの屈折点を迎えた。
続く800~1050年、つまり平安遷都から摂関政治の全盛期に至る時代は、Farrisによれば人口減の時代だそうだ。950年頃の人口は440万~560万人にとどまっており、ピークから比べ16~20%ほど落ち込んでいたという。その後も人口はゆっくりと右肩下がりが続いたようで、都市と言える地域は京都以外には存在しなくなっていた。気候がよくなかったうえに、くり返し疫病が訪れて人口にダメージを与えていたのがこの時代であり、華やかな王朝絵巻とは真逆の、むしろ衰退していた時代だったのかもしれない。
しかし平安時代の後半である1050~1180年になると、僅かではあるが人口は上向いた。1150年時点の人口は550万~630万人にまで戻り、950年と比べると15~20%ほど増えている。といっても奈良時代のピークから比べれば基本的に膠着状態であることには変わりない。平安時代を通じてわずかではあったが人口減が底打ちしたのは、列島の住民が様々な疫病に晒されて免疫を獲得したため。
欧州の黒死病は到来して1世紀もすれば人口の底打ちをもたらした が、より「守られている」日本の場合、免疫獲得までにも相当の時間を要したのかもしれない。
また人口構造も少し変化した。この時期は東日本の人口増ペースが西日本を上回っていた時期であり、また大都市として大宰府から博多に人口がシフトしている。それ以外に大津、淀、兵庫、若狭、平泉など、奈良時代とは異なる場所に都市が生まれているのも特徴的だ。トータルとして見れば停滞期ではあるが、細部を見ると色々な変化が起きているのが分かる。
続く1180~1280年まで、つまり鎌倉時代の途中までは「欠乏の時代」と呼ばれている。つまり、この時期まではまだ停滞が続いていたわけだ。この100年ほど、人口は570万~620万人の水準で、つまりほぼ横ばいで推移していたが、人口構造はまた変化した。今度は東日本が低迷し、西日本が上向いたという。こうした変化をもたらしたのは、どうやらこの時期に多かった火山の噴火の影響で気候が寒冷化したのが理由だそうで、そうした気候の影響を受けやすい東日本が大きなダメージを受けた。
この時期に生じた飢餓はかなりのものだったようで、
鎌倉武士の蛮族モードな動き も彼らを取り囲む環境を考えるなら別に異常でも不思議でもなかったのかもしれない。せっかく時間をかけてユーラシアの疫病に慣れてきた日本だったが、悪天候という追加トラブルのために人口停滞がさらに伸びたわけで、
攻められにくいというメリットを享受 する一方で世界の動きから取り残されがちなこの列島の特徴が現れた時代とも言えそう。
だがここまで長々と続いた人口停滞は、続く1280~1450年の「成長の復活」によってついに突破される。この期間に日本の人口は600万人前後から1000万人へと67%も急増。京都は20万都市にまで膨れ上がり、他にも博多、天王寺(大阪)、大津、安濃津、奈良などがそこそこの人口を抱えていた。以前
こちら で「戦国時代の日本には京都を含め畿内に大都市が集中していた」と書いたが、Farrisの本でも確かにそういう認識が書かれている。
天候が回復し、免疫も引き続き機能したことなどが人口増の要因であるが、それに加えて社会的な価値観自体がこの頃に大きく変わったようだ。それ以前の時代、列島では飢えに苦しむと山野に逃れ、昔ながらの狩猟採集に生きる術を見つけようとするのが人々の中心的な行動だったのだが、この頃からむしろ人々は大都市に流れ込んで施しを受けることに期待するようになり始めた。実際、政府や寺社仏閣だけでなく商人たちも含め、チャリティーを提供できる組織の能力が高まっており、それだけ時間を経て組織文化が列島に広まっていたのだと思われる。
そして1450~1600年は「風土的な戦争の時代」だ。戦争による破壊がある一方、戦国大名らによる富国強兵策で経済が成長もした結果、1600年頃の人口は1500万~1700万人にまで増加した。次々と町が生まれ、都市人口の割合も増えた。特に戦国大名の数が減った後半になるほど成長の速度が増したようで、Farrisによると1550年までの100年間は年率0.2%の人口増にすぎなかったのが、それからの50年間は成長率が2.5倍に膨らんだという。この数字を信じるのなら1550年時点の人口は1220万人ほどになる。
江戸時代に入るとさらに人口増は続き、1720年には3100万人にまで人口が増えた。停滞が続いていた時期の5倍にまで膨らんだわけで、それだけこの社会が大きく変質したと考えられる。そして実際、この本にはそうした変質についても色々と書かれている。というわけで次回はそうした社会の変質をもたらした背景について紹介しよう。
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