親切の人類史

 親切の人類史読了。題名から想像がつくかもしれないが、ヒトの見せる利他的な行動がどのように発展してきたかについてまとめた本だ。内容についてはこちらで(原著の)書評が読めるので、そちらを参照してもらうのが手っ取り早いだろう。なおこちらのblogは邦訳についても簡単なエントリーをあげている。そこで書かれている通り、この本の前半は基本的に利他性に関する理論的な説明、後半は歴史的な経緯の紹介に充てられており、前半は進化論の本、後半は歴史の本と言ってもいいかもしれない。
 著者の言い方だとヒトの利他性に及ぼす影響としてハミルトン的な包括適応度(血縁選択)が寄与している部分はあまりないようだ。これはマルチレベル選択についても同じで、マルチレベル選択を表すプライス方程式が実際にはハミルトン則と等価であるなら、そういう結論になるしかない。またプライス方程式ではないナイーブな群選択については「複数の科学的説明が対立する場合、一般的に、よりシンプルな方が優れているとされる」とばっさり切り捨てているし、要するにそういう視点でヒトの親切心を説明するのは無駄な作業という指摘だろう。なおこの原則はオッカムの剃刀として知られているが、最近は「アインシュタインの言葉」(実際に彼が言ったとされる言葉とは微妙に違っているらしい)に言及する例も目立つ。
 話を戻すが、いずれにせよヒトの利他性をここまで成長させ大規模にしてきたのは包括適応度ではなく互恵性だというのが、筆者の考えのようだ。ただし互恵性といってもトリヴァースが最初に唱えた単純なものだけでなく、むしろアレクサンダーが後に唱えた「間接互恵性」の方が重要だと見ているもよう。トリヴァースの考えた互恵性は、チスイコウモリの事例でよく知られるように親切にされた相手に直接お返しをするというものだが、間接互恵性はむしろ他人に親切にすることによって自身の評判を高めることに力点を置いている。
 言い方を変えるなら、顕示的消費ならぬ「顕示的親切心」といったところか。この本では「情けは人のためならず」という側面についても説明しているのだが、そういう親切心が持つ利己的な側面を間接互恵性がうまく説明している、という認識なのだろう。援助者の行動を目撃した第三者が、間接互恵性を実践して援助者を援助する確率に援助者の利益を掛けた値が援助者のコストを上回れば、赤の他人に親切にする行動が個体間に広まっていく。この場合、確率を上げて自身の利益につなげるためには自分が他人に親切にしているところをできるだけ派手にPRした方がいい。顕示的消費も消費そのものよりそれを「見せびらかす」ことに力点が置かれているわけで、両者は実は似たような目的を持つ行動なのかもしれない。どちらも自身の評判を引き上げ、最終的には適応度の向上につなげる効果を期待して行われている。

 続いて後半の歴史部分だが、こちらは昔ながらの伝統的な歴史叙述が使われている。つまり定性的なエピソードを並べることでそこから歴史の傾向を読み取ろうとするような書き方だ。こういったビッグヒストリーについて書く場合、データや統計を使って裏付けながら記す方がいいのではないかと個人的には思っているが、この本ではそうした方法は採用していない。代わりに「七つの大いなる苦難との遭遇」という切り口で親切心に基づく行動がどのような動機付けで行われていたかの変化をたどっているわけだが、その切り口は妥当なのか、それぞれどのくらいヒトの行動変化へのインパクトを及ぼしたのか、そもそも7つでいいのか、といった疑問に対する回答はこの本にはない。
 統計に基づく話がまったく出てこないわけではない。例えば枢軸時代にもそういった思いやりの広がりがあった点について、物質的豊かさと政治的成功度を調べたデータを基に背景には経済成長があったのではないかという論文を紹介している。経済成長が親切心を高める傾向は現代でも見られるそうで、そういう意味ではやはり親切心には顕示的消費と似た側面があるようにも見える。
 しかし同じ枢軸時代についての分析でも、Turchinらのようにデータに基づいた考察に力点を置いているわけではない。経済的な豊かさが親切心とつながっている可能性については言及しているし、また前半部分で限界効用逓減の話を持ち出し、多く持つ者がほとんど持たない者に施すことで援助者にとっては僅かなコストで多くのベネフィットを得る可能性があることも指摘している。であれば経済成長によって富める者が増える局面こそ親切心の発揮が増えるという関係が観測されてもおかしくなさそうだし、Turchinならおそらく喜んでそうしたモデルを構築してデータを揃えようとするだろうが、この本ではそうした取り組みをしていない。あくまで心理学の教授が書いた本なので、歴史的データについてはあまり詳しくないのかもしれない。
 ただ著者のスタンスが割と科学的合理性を重視している様子は窺える。進化論に関連する指摘もそうだが、例えばロンボルクらが指摘している効率的な開発目標などを紹介しているあたりもそうした合理性に基づくのだろう。ロンボルクらは国連のSDGsのうち、児童婚の撲滅、完全雇用の実現、生活満足度の向上、温暖化の抑制はコストに見合う効果がなく、逆に貿易障壁の削減や化石燃料への補助金の段階的廃止といったものは投資に対するリターンがかなり大きいと指摘している。著者自身も最終章で自由貿易を高く評価している。
 でもそれは一つ、問題を引き起こす。他人に施す親切の背景にそうした合理的計算がある場合、条件次第では「合理的に考えて他人に親切にしない方がいい」場面が生じかねないのではないか、という懸念だ。それに著者自身も否定していないのだが、利他性は他者を救済する形でのみ発揮されるのではない。敵の攻撃に身を投じるという形で結果的に仲間のための利他性を発揮することだって起こり得る。しかもこれまた著者自身が書いているのだが、そうした利他性は、戦いに生き延びて敵の集落を襲撃できるようになった場合は大きなリターンをもたらす。敵の財産と女性を手に入れるという形で。
 経済成長を背景に他者に施すことで自身の評判を高めることが適応度の向上につながるのだとしたら、部族のために命がけで戦い、敵を殺し、その集落を焼いて女や財物を奪うこともやはり適応度の向上につながる可能性がある。そして、施しではなくこちらの方がもし適応度が高くなるような環境条件が揃ってしまえば、その中で自然選択によって生き残るのは寛大な援助者ではなく、戦争と略奪とレイプに邁進する殺戮者になる、かもしれない。
 確かに著者の言う通り、歴史的には親切心を広げる方向にヒトは進化してきたように見える。それには互恵性や評判といった進化的な背景があり、また豊かさの増大がそれを支えてきた。農業社会であっても国家の規模が大きくなればその範囲内では全体の富は膨らんだだろうし、産業革命以後はイノベーションの力もあってさらに豊かさが増したのは間違いない。さらには市場が世界中に広がり、とんでもないレベルの金持ちが現れ、彼らの中には財産の半分を慈善目的に拠出するという公約に署名する者も出てきている。世界はどんどん利他主義的に、「思いやりの黄金時代」へと進んでいる。
 でもその背景にある経済成長が止まったらどうなるだろうか。何度も書いている通り、足元では成長の淵源となる発見や発明が低迷している。市場の拡大自体も既にグローバル化が唱えられた時代に世界の大半が市場に含まれるようになっており、範囲を広げることで成長を達成する余地もほとんどない。そして一方ではウクライナ侵攻のように、いまだに殺戮者的な利他性を発揮してしまう事例が生じている。
 著者はヒトの親切が拡大してきた要因として、互恵性、評判と並べて理性を挙げている。これはおそらくその通りで、他者に親切にするメリットを理性的に把握できればヒトは実際に慈善家的な行動に出るのだろう。だから「情けは人のためならず」という条件さえ成立していれば、理性は親切の味方だ。でも成長が止まり、他人への親切がコストに比べあまり利益のない行為になったら、もしくは親切より攻撃の方が適応度にもたらすメリットが大きくなってしまったら、ヒトは「理性的」に考えた末に親切にしなくなるのではなかろうか。
 実際、ヒトの親切心が消えうせた「思いやりの枯渇時代」と思われるものもあった。著者によると農業が始まった直後の、家族単位で農業がおこなわれていた時期がそれで、この時期は血縁選択のみが大きく働いて社会は無関心から不平等へ、そして抑圧へとシフトしていった。Turchin的に言うなら人身御供が普通に行われていたアルカイックな社会だ。当時はおそらく互恵性や評判がもたらすメリットが小さく、だから親切心の発露もほとんどなかったのだろう。そして過去に実際にそういう環境があったとすれば、今後も似た条件が整う可能性はゼロではない。すぐにそんな時代が来るとは思わないが、そうした可能性まで考えさせられた読書体験だった。
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