ヴァルミーまで 19

 La Manoeuvre de Valmy、第3部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p16-58)の続き。ヴァルミーの砲撃戦前日、フランス軍が集結を終える一方、連合軍はどんな動きを見せていたのか。今回もTopographic map of France (1836)を参照しながら話を進める。
 19日朝、ブラウンシュヴァイクはデュムリエにその陣地を放棄させるための機動を始めた。ヴォー=レ=ムーロンにいた連合軍は2つの縦隊でマシージュ(トゥルブ左岸)へと行軍を実施。騎兵2個連隊とロンベルク及びボルヒの各歩兵旅団で構成され、騎兵1個連隊と騎馬砲兵から成る強力な前衛部隊が先行した第1縦隊は、セショー(ヴォー=レ=ムーロン南西)、フォンテーヌ=アン=ドルモワ、ルヴロワ、メゾン=ド=シャンパーニュを経てマシージュに向かった。騎兵2個連隊と歩兵2個旅団で構成された第2縦隊はブーコンヴィユ(セショー南東すぐ)、セルネー=アン=ドルモワ、ショーソンを経由した。
 マルヴォー(セショー北西)を午前3時に出発したカルクロイトの部隊は、マンル、グラルイユ、リポンを経由して(つまり主力より西側を通って)マシージュに進み、前衛部隊は午前9時にはそこに到着した。主力が到着した時にはカルクロイトは1個大隊のみをマシージュに残し、兵をリポンへと後退させた。クレルフェはスミードからタユールとソンム=ピ間の高地へ(つまりカルクロイトのさらに西へ)移動した。
 同時にホーエンローエ=インゲルフィンゲン公はユサール1個大隊、砲兵1個中隊、銃兵2個大隊、及び猟兵とともにエーヌ右岸の偵察を実施した。彼は午前10時にセルヴォンを発し、いくつかのフランス軍部隊をヴィエンヌ=ル=シャトーへと押し戻し、この村の向こう側にある高地に布陣し、ラシャラードとレ=ジズレットの防衛部隊の背後を取ってその向こうにいるオーストリア=ヘッセン軍と合流しようとした。
 だが主力がマシージュに到着した正午頃、フランス軍がサント=ムヌーの宿営地を撤収してシャロンへ後退しているというケーラーからの不正確な報告が届いた。4日前のグラン=プレのようにまたデュムリエに逃げられるのを恐れた国王は、ブラウンシュヴァイクと相談することすらせず、フランス軍の通過を阻止するため即座に軍をソンム=トゥルブ(ヴァルミーとシュイップの間)方面へ行軍させると決断した。ブラウンシュヴァイクは国王の判断に従い、ホーエンローエの部隊はソンム=ビオンヌへ、カルクロイトはソンム=シュイップへ移動するよう命令を受けた。荷物は銃兵1個大隊と騎兵300騎に護衛されてメゾン=ド=シャンパーニュに向かい、全軍は野営することとなった。
 ホーエンローエは午後9時、ソンム=ビオンヌから半リュー西方[ママ]に到着した。主力はミノークール、ワルジュムーラン、ラヴァル、サン=ジャン=シュール=トゥルブ、ソンム=トゥルブとトゥルブ川に沿って遡り、村の東方に布陣した。皇太子旅団と合流したカルクロイトはペルテとヒュルルを経てソンム=シュイップへ午後3時に到着した。司令部はソンム=トゥルブにきた。
 クレルフェは19日にマンルからソンム=シュイップへ向かうよう命じられたが、サン=テティエンヌ=ア=アルヌ(ソンム=ピ北西)に敵の重要な宿営地があるとの知らせを受けたためこの移動を実施しなかった。夜になって情報が正しくないことを知った彼は翌朝7時の出発を命じた。亡命貴族部隊も19日にヴージエからソンム=シュイップへと向かったが、道を間違えサン=スーレ(ソンム=ピ西方)に到着してそこで宿営した。一部のみがソンム=シュイップに到着できた。
 翌20日、ブラウンシュヴァイク公はフランス軍の連絡線であるシャロン街道に到達し、稜線に沿って進むよう提案した。この時点で両軍の戦力はほぼ同数だった。プロイセン軍は歩兵45個大隊(それぞれマスケット銃兵800人)、騎兵70個大隊(140騎)で、砲兵を含まずに4万6000人。デュムリエの軍は歩兵54個大隊、騎兵53個大隊の約4万1000人だが、そこからディロンの9000人を差し引く必要があり、ケレルマンの軍は擲弾兵5個大隊を含む歩兵17個大隊と騎兵30個大隊、大砲40門の1万6000人がいた。合計でフランスの2つの軍は4万8000人だった。
 プロイセン軍は組織、訓練、同質性、規律の面ではるかに優れていた。フランス軍は愛国心と自由への愛によって奮い立たせられていた士気の力では勝っていた。

 以上でヴァルミーまでの機動を描いたLa Manoeuvre de Valmyの記述は終わりだ。20日の砲撃戦についてはこちらこちらで当時の史料を紹介しているし、その後のプロイセンとの休戦及び彼らの退却についてはChuquetの書いたLa retraite de Brunswickが詳細に記述している。ヴァルミーは歴史の教科書に名を残し、戦争はそれから四半世紀近くも続くことになった。
 デュムリエは当初の予定通りに北方軍へ取って返し、ジュマップの戦いで「年内にベルギー侵攻を行なう」という約束を果たした。だが翌年には連合軍の反撃を前に敗北し、ラファイエットのように逃亡する。プロイセン軍の攻撃を受け止める格好になったケレルマンはアルプス方面軍に転じたが、貴族出身ということで疑われるようになった。後に彼はナポレオン帝政下でヴァルミーの名を冠した称号を手に入れ、息子は騎兵指揮官として大活躍した。
 パリ進軍に乗り気でなかったブラウンシュヴァイク公はこの後もしばらく革命戦争にかかわるが、プロイセンがフランスと講和した後はしばらく戦場から離れる。次に彼が戦場に現れたのは1806年のイエナ戦役で、彼はこの戦いで戦死する。プロイセン軍と一緒に行動していたゲーテは、数十年後になってヴァルミーに関するいささか論拠の怪し気な言葉を残す。
 La Manoeuvre de Valmyでは主役に相当するデュムリエをかなり褒め称えている。確かにこの時期の指揮官として彼はかなり特異な判断と行動をする人物だったのは間違いないし、主導権を握るために攻勢にこだわる点や、決断してからの動きの早さなどはナポレオンと比較してもよさそうに見えるくらいだ。連合軍側だけでなくフランス側の他の司令官と比べても、彼の機動力がこの時代においては突出して高いことは認めざるを得ない。
 一方で彼の振る舞いが極めて政治的である点も目立つ。ラファイエットやリュクネルに対して従おうとせず、自分の手元の兵力を残したがった部分などは、他の将軍たちにも多かれ少なかれ似た傾向があるとはいえ、その中でも特徴的だったように見える。さらにこの後には遠慮なく政治的な動きをする将軍が増え、究極的には自らクーデターを起こすボナパルト将軍までが登場するようになる。革命は軍人の政治化をより推進したのだろう。
 そういう将軍も出てきてはいたが、この時点で軍人をプロフェッショナルとして尊重する動きがあったのは間違いない。陸軍大臣が現場の将軍に対し、軍事については彼らの判断を尊重すると告げていた話などは、戦争に素人が口出ししすぎるのは拙いという価値観が存在していたためだろう。一方でセルヴァンがくり返し、パリと敵軍の間に布陣しろと要求してきた件など、革命期に増える軍事への政治の介入がこの頃から強まっていた印象もある。
 デュムリエに代表される間接アプローチと、パリの民衆を見た政治家たちの求める直接アプローチとの相克も目立っていた。前者はベルギー侵攻やサント=ムヌーの保持など、パリへ進軍する連合軍を間接的に脅かす作戦を何度も提案している。一方、八月十日事件で民衆こそが圧倒的な力を持ったという認識にあるパリの政治家たちは、とにかく民衆の不安をなだめるための直接アプローチに強くこだわる傾向を見せている。この時代が18世紀的な位置取り戦争から直接ぶつかる会戦を中心としたナポレオン戦争への移行期であることを窺わせる状況だ。
 つまりこの時代は政治がそうであったように、色々な意味で戦争も変わりつつあった時なのだろう。ヴァルミーまでの一連の流れにおいて、そうした変化に最も適応できていたのがデュムリエであり、一方でプロイセン軍をはじめとした連合軍はおそらく最も変化していない軍だった。そしてその後も、フランス側が変化に先んじる流れがしばらく続く。ナポレオンが欧州各地を荒らしまわり、各国が生死の境まで追いつめられた後になって、ようやく連合国側もフランスに追いつくことになるが、そうした一連の変化が生じる始まりの時期がこの「ヴァルミーまで」の機動に表れていると思う。
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