ヴァルミーまで 16

 間接アプローチを唱えたリデル・ハートはナポレオン戦争以前の18世紀的な戦争を割と高く評価していたらしい。確かに位置取りを重視し、会戦をほとんど行わなかった(The Ghost of Napoleon, p20)当時の戦い方は間接アプローチ的だっただろう。そしてデュムリエらの同時代人たちも18世紀人であり、こうした発想には親和性を持っていたと思われる。彼のベルギー侵攻も、あるいはセルヴァンやリュクネルらが連合軍の連絡線への攻撃に何度も言及していた点も、そうした間接アプローチ的な発想が背景にあったのかもしれない。
 だがLa Manoeuvre de Valmy、第3部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p16-58)で言及されているラ=クロワ=オー=ボワの突破まで、ヴァルミー戦役で実際に間接アプローチが取られる場面はなかった。いやむしろデュムリエは、直接的に連合軍の正面に立つことを何度も要求され、それに応じていた。本来なら時間稼ぎをやってくれるはずのロンウィやヴェルダンといった要塞が、あっという間に門を開いてしまったため、間接アプローチをやりたくともできない状況にあったのが理由だろう。加えてパリの政情という要因もあった。パリ市民の不安をかき立てるような事態が起きると、それだけで革命が危機に陥りかねないという懸念を抱いていた政治家たちが、何としても連合軍とパリの間に自軍を配置したがった様子は、セルヴァンの手紙からも窺える。
 ところがデュムリエは14日になってセルヴァンの要望に反するような行動を取る決断をした。彼は同日夜の間に退却を始め、15日の夜明け前にはモンシュータン(グラン=プレ南西)まで下がり、そこからさらに南方のヴィエンヌ=ラ=ヴィユ(サント=ムヌー北方)とベルジュー(ヴィエンヌ西方)へ後退。さらに2日目にはサント=ムヌー近くでディロンの部隊と合流する考えだった。今回も地図はTopographic map of France (1836)を参照のこと。
 彼はまた、ラ=クロワ=オー=ボワ攻撃に失敗したシャゾとの合流も考えており、彼に対して夜のうちにヴージエからモンシュータンに行軍するよう命じた。また1万人とともにルテルに到着したブールノンヴィユに対してはすぐサン=ティレール=ル=プティ(オーヴィネ南西)を経由してサント=ムヌーへ進むよう伝えた。
 一昨日時点でケレルマンがアリアンセル(バール=ル=デュークとヴィトリ=ル=フランソワの間)に向かうことを知っていたデュムリエは、両軍が1日の行軍で合流できるはずだと期待していた。そうやって5万人の兵力をまとめることができれば、前進して連合軍と遭遇を試みるのも可能になる。逆にもしケレルマンの動向がつかめない場合、デュムリエはオーヴ経由でシャロンへの退却が可能になる。アルゴンヌの隘路が突破された時点で彼はこの防衛線を使った機動ではなく、ケレルマンとの合流を最優先に考えた。ケレルマンのところに送り出された副官は15日夜、ヴィトリ=ル=フランソワで彼を見つけてデュムリエの意図を説明した。
 一方、14日夕方から始まったグラン=プレの撤収では、まず装備と砲廠がオートリー(モンシュータン南方)へ向けて出発した。歩兵6個大隊と騎兵6個大隊がテルム(エール河畔)、ボールペール(グラン=プレ西)、オリジー(そのさらに西)に布陣し、ロンウェまで前進した300人の猟兵がラ=クロワ=オー=ボワを支配しているオーストリア軍を偵察した。彼らはプロイセン軍同様に無為にとどまっていたそうで、また悪天候もデュムリエの計画に寄与した。少なくとも日中において、特に前衛では明らかな出発の準備を見せないよう、彼は気を使った。
 夜になると前衛部隊は3つの縦隊でマルク、シェヴィエール、グラン=プレの3ヶ所でエール左岸へ後退し、橋を破壊して主力部隊に近づいた。軍主力は午前3時に出発し、スニュク(エールとエーヌの合流点)とグラン=ダム(スニュ東方)でエーヌの橋を渡り、敵の攻撃に備えて8時頃にオートリーの高地に布陣した。攻撃はなかったため軍は移動を再開し、デュヴァルとシュテンゲルの後衛部隊に守られながらセルネ=アン=ドルモワ(オートリー南西)へ向かった。デュムリエは15日夕に宿営する予定のドンマルタン=スー=ザン(サント=ムヌー北西)に先行した。彼によればこの退却は賢明かつ大胆だったという。
 一方、配下の兵が極めて困憊していたシャゾは、命令通りの夜間ではなく夜明けになってようやくヴージエを出発した。そのためモンシュータンへの到着もかなり遅れ、全軍は既に出発していた。彼は兵をモンシュータン南方に並べ、右翼をオートリー森に拠った。ユサール2個連隊、銃兵2個大隊、猟兵すべてと騎馬砲兵1個中隊でデュムリエを追撃していたホーエンローエ=インゲルフィンゲンは、シャゾの部隊がオートリー森に入った時に彼らを攻撃した。フランス兵はパニックに陥り、森とその先へ逃げ出し、主力部隊まで混乱に陥れてその一部も散り散りになった。1万人の兵が1500人の敵を前に逃げ出した格好だが、デュヴァルとシュテンゲルが大隊をプロイセン騎兵の前に率いてその追撃を止め、後者は突撃をせずグラン=プレへ後退した。
 再集結した軍が夕方6時頃、ドンマルタン=スー=ザンに宿営した時、2度目の騒ぎが起きた。前衛部隊は冷静だったが、他の者は悲鳴を上げて逃げ出し、砲兵はビオンヌ川(ドンマルタンからヴィエンヌ=ラ=ヴィユへと流れる川)の背後まで下がろうとした。入り乱れ混乱している兵たちを前にデュムリエは幕僚及び護衛とともに乗馬し、慌てているものたちを鼓舞し、逃げ出した者たちをサーベルの平で叩いて秩序を回復させた。
 この2つのパニックは不運な結果を引き起こした。2000人以上があらゆる方面に逃げ出し、ルテル、ランス、シャロン、ヴィトリまで到達した。彼らは軍が裏切られ、全滅し、デュムリエと将軍たち全員が敵に寝返ったとの噂をばら撒いた。彼らはリュクネルが送った増援(ロンバルディア大隊と義勇兵中隊)と遭遇し、恐れをなしたこの増援たちはシャロンへと引き返した。だがビヨー=ヴァレンヌらの力強い宣言などもあって兵たちは気力を取り戻した。
 デュムリエは国民議会の議長に対し、グラン=プレの宿営地放棄を伝えた。パニックは起きたが損失は50人を超えることはなく、後はいくらかの荷物が失われた。事態は改善したと彼は伝えたものの、このパニックは兵たちが信頼できないことを改めてデュムリエに思い知らせた。セルヴァンも基本的には同意見で、彼は改めて会戦や大きな戦闘は避けるよう指摘。「常に拠点を守り、後衛部隊や装備、輸送隊を襲撃するように」と告げている。
 16日朝、秩序を回復したデュムリエはドンマルタン=スー=ザンを発し、サント=ムヌーへ向かった。行軍は秩序をもって2個縦隊で行われ、2万5000人の軍はブロー=サント=コイエール(サント=ムヌーの西)に布陣した。彼は1万人を連れてくるはずのブールノンヴィユの到着と、ケレルマンの中央軍との合流を待っていた。また引き続きレ=ジズレットとラシャラードを保持しているディロンからの支援も必要なら受けられた。リュクネルはこの2つの隘路についてはできる限り防御するようデュムリエに助言していた。

 15日、グラン=プレとスニュクの間にある高地まで進出していたプロイセン王とブラウンシュヴァイクは、フランス軍のサント=ムヌーへの退却をその目で確認した。司令官はすぐソムランスのホーエンローエ部隊に対してグラン=プレへの移動を命じた。同日夕、彼らは右翼をボールペールに、左翼をエール河畔に拠った布陣を行ない、北方のカルクロイトと連結するとともに、いくつかの大隊が支援する騎兵にテルム村とスニュク村を占拠させた。
 ただ連合軍側の動きは引き続き鈍かった。同日、カルクロイト自身はロンウェ近くに陣を敷いた。右翼はラ=クロワ=オー=ボワに、左翼はオリジーにあり、分遣隊をプリマとボールペール方面に出してホーエンローエとの連絡を確保した。彼は18日までこの地にとどまった。クレルフェはアルゴンヌ森東のブール=オー=ボワの宿営地に15日から17日までとどまっていた。
 だがプロイセン軍主力は15日から17日までグラン=プレ東方のランドルに無為にとどまり、ラ=クロワ=オー=ボワとモンシュータンで得た優位を利用しようとはしなかった。ブラウンシュヴァイク公は行軍と病気で困憊していた兵たちを休ませようとしており、またヴェルダンから来るパンの荷車を待っていた。さらにオーストリアのホーエンローエ部隊とヘッセン軍とがレ=ジズレットを奪うとの期待と、またフランス兵はマルヌ南方の高地まで後退するだろうとの推測を、彼は抱いていた。ブラウンシュヴァイクの機動の成功と、皮肉にも「フランスのレオニダス」と呼ばれていたデュムリエの退却もあって、連合軍側の自信は膨れ上がっていた。
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