ヴァルミーまで 15

 La Manoeuvre de Valmy、第3部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p16-58)の続き。連合軍がアルゴンヌの南方を迂回すると判断したデュムリエは、10日午前6時にすぐ一連の命令を出した。実際の連合軍はラ=クロワ=オー=ボワの隘路突破に向けてゆっくりと部隊をシフトしていたため、デュムリエのこの動きはもし実行されたなら大きな影響を及ぼしただろう。なお今回も地図はTopographic map of France (1836)を参照のこと。
 まず彼はシェーヌ=ポピュルーのデュヴァルに対し、歩兵7個大隊と騎兵6個大隊とともに宿営地を発し、アルゴンヌ東側をグランド=アモワス、ブリウル、オート、オートリュシュ、ジェルモン、ブリクネーを経て南下し、ベフュの高地へ行軍するよう命令が出された。デュムリエは午後3時には彼らがここに到着するものと期待していた。シェーヌ=ポピュルーの隘路にはセーヌ=エ=オワーズの4個中隊とアルデンヌ大隊が残る。デュヴァルは最終的にサン=ジュヴァンでシュテンゲルのユサール6個大隊と歩兵4個大隊と合流し、またデュムリエもシュテンゲルに騎兵6個大隊の増援を送る。
 ディロンはレ=ジズレットに2000人を残し、できる限りの歩兵を連れてアルゴンヌの南端、シャトリス、パッサヴァン、ヴィレ=アン=アルゴンヌへと向かう。彼はそこで騎兵14個大隊と合流し、サント=ムヌーを守る。グラン=プレの宿営地は引き続き歩兵16個大隊と騎兵7個大隊が占拠し、真夜中にデュムリエは擲弾兵4個大隊と騎兵8個大隊の強力な予備とともにサン=ジュヴァンでシュテンゲルと合流し、そこにデュヴァルも加わる。そのままアルゴンヌ森に沿ってヴァレンヌとクレルモンを通り過ぎ、敵の背後または右側面に襲い掛かるか、あるいは敵より先にヴィレ=アン=アルゴンヌにたどり着く、というのが彼の意図だった。彼はデュヴァルに対し、かき集められたプロイセン軍を押しつぶすことが重要だと述べている。
 バール=ル=デュークに向かうケレルマンに対してもこの作戦内容が知らされた。プロイセン軍を1ヶ所にとどめ、彼らの荷物や砲兵に襲い掛かる。プロイセン軍はおそらく後退するだろうが、ヴェルダンまでの森の中でそれを実行するのは簡単ではない、とデュムリエは見ていた。スダンとメジエールについては補給をしたうえで守備隊に防衛を任せる考えだったようで、たとえこれらの地が奪われても奪回は可能だとしていた。幹に集中すべき時には枝葉を無視せよ、というのが彼の発言だ。
 だがこの大胆な計画は実行されなかった。いったんは奔放な想像力に身を任せた彼だったが、より冷静に考えた結果として数的不利な状態では命令を取り消す方が望ましいと判断した。ただデュヴァルはグラン=プレにとどまり、シェーヌ=ポピュルーの指揮はデュブーケ将軍の歩兵4個大隊と騎兵2個大隊に任せられた。リュクネルへの手紙でデュムリエは、やはり十分な増援を待つべきだと記している。その条件が適うのは20日前後になる見通しだった。
 デュムリエはアルゴンヌの防衛線に対して疑いを持っていなかったようだ。彼はグラン=プレからサント=ムヌーへ移動し、そこからビーム河畔とレ=ジズレットの防衛線を尋ね、閲兵を行ないディロンと話し合うことすら考えていた。だが翌9月12日、デュムリエは計画を根底から覆す知らせを受け取った。オーストリア軍がほとんど一発も撃つことなくラ=クロワ=オー=ボワの隘路を奪ったのだ。

 ラ=クロワ=オー=ボワの隘路には1792年当時は荷車用の簡単な道がブリクネーから通じていた。コロン大佐がこの地点を自身の第2竜騎兵連隊の1個大隊、銃兵1200人、4ポンド砲4門で守っていた。彼は塹壕を掘り、逆茂木を設置し、ブリクネーへの街道を遮断した。11日、彼はこの拠点は難攻不落だとデュムリエに伝え、ヴージエにいるアルデンヌの志願兵大隊(ロンウィ守備隊だった)にここの守備を任せれば騎兵は不要だと告げて彼らをグラン=プレの宿営地に戻す許可を求めた。
 デュムリエは隘路を調べることもなく、このアメリカ独立戦争にも参加した古参大佐の報告を「許しがたい軽率さで」信用した。そしてコロンに対し塹壕に100人を残して引き上げるよう伝えた。いなくなった兵の分は砲廠の指揮官から武器を受け取ったアルデンヌ大隊が増援として穴埋めすることになっていた。ところが砲廠指揮官は武器を配布せず、アルデンヌ大隊はヴージエにとどまり、結果として12日朝にこの隘路にはコロンが残した100人の兵しかいなかった。
 これはデュムリエがこの戦役で犯した最大の失敗であり、彼自身もそれを認めていた。さらにLa Manoeuvre de Valmyの筆者は、これが彼特有の失敗ではなかったと書いている。デュムリエはビロンやキュスティーヌ、ディロンなどの旧制度下の将軍たち同様、時に考えなしに行動した。彼らは七年戦争やアメリカ独立戦争で経験を積んだのだが、これらの戦争は将軍を鍛えるうえであまりいい教室ではなかったようだ。彼らには危険が迫った際の冷静さこそあったものの、一貫性や真剣みには欠けていた。ブラウンシュヴァイクにフランスの将軍たちのような大胆さが欠落していたのと同様、デュムリエらにはブラウンシュヴァイクの堅実な資質が備わっていなかった。
 12日にブリクネーとブール=オー=ボワの間に宿営すべくやって来たクレルフェは、状況に気づくや否や急いでその日のうちにいくつかの猟兵中隊を隘路へと押し出した。彼らはフランスの分遣隊を容易に駆逐し、ラ=クロワ=オー=ボワ村を占拠した。つまりアルゴンヌの森は連合軍の機動によってではなく、単にフランス軍のミスによって突破されたわけだ。前にブラウンシュヴァイクの複雑な機動が無意味だと指摘したのは、こうした経緯があったからだ。
 村から逃げてきた兵が到着した時、デュムリエはグラン=プレの宿営地にいた。当初、彼はこの攻撃が僅かな前衛部隊によるもので、まだ隘路を取り返すため攻撃を行なう時間はあると考えていた。彼はシャゾ将軍に歩兵8個大隊、騎兵5個大隊、大砲12門の計5000人を預け、敵縦隊の先頭に襲い掛かるよう命じた。同時に彼はブールノンヴィユに対して行軍を急ぐよう、またディロンにもクレルモンの道を空けないようにしつつ救援を送るよう求めた。レ=ジズレットに対する敵の示威行動に躊躇しながらも、ディロンは13日にグラン=プレへ歩兵3個大隊、騎兵5個大隊と軽砲兵半個中隊を送った。
 道の状態が悪かったため、シャゾは13日朝になるまでヴージエに到着できなかった。12時間にわたる行軍で兵は疲れ切っており、彼は攻撃を翌日まで延期した。14日午前6時、彼はオーストリア軍を襲撃してラ=クロワ=オー=ボワ村から追い払った。彼はそこに1時間ほどいたが、防御を固める前に歩兵3個大隊、騎兵2個大隊と砲兵の増援を受けた敵に反撃を受けた。右側面を迂回されたフランス軍は午前10時にはファレーズ(ヴージエ南東)へ後退を強いられ、そこからさらにサヴィニー(ヴージエ南方)とヴージエへ退いた。退却は秩序をもって行われ、シャゾはエーヌに架かる橋を切り落として追撃を防ぐ余裕があった。損害は騎兵と歩兵それぞれ数人、及び負傷者20人ほどだった。
 デュムリエの命令に従い、ラ=クロワ=オー=ボワに対するシャゾの攻撃は、シェーヌ=ポピュルーの分遣隊を指揮するデュブーケ少将の攻撃的な移動によって支援されることになっていた。だが15日夕方になってシャゾのヴージエへの退却を知らされたデュブーケは、ルテルへの退却以外に手がないと判断。17日にはそこまで後退した。アランクール(ルテル南方)、オーヴィネ(アルヌ川とシュイップ川の合流点近く)、サン=ティレール(おそらくシュイップ河畔のサン=ティレール=ル=グラン)、シュイップ(サント=ムヌーとランスの間)を経て主力軍と合流するのが、彼の狙いだった。

 ラ=クロワ=オー=ボワを取り返せなかったと知った数時間後、デュムリエはリュクネルに向けて「正面に敵の大半がおり、グラン=プレの高地でほとんど包囲されかかっている」と書き記した。もはや無為にそこにとどまることはできず、すぐに退却するのが唯一の道であることは明らかだった。問題は、どこへ退却するかだった。
 西もしくは南西へと退却すれば、デュムリエがパリとブラウンシュヴァイクの間の位置を確保することはできるが、ケレルマンとの合流は遅れる。加えてシャンパーニュには防衛に向いた地域がなく、マルヌ左岸まで引き下がることを余儀なくされるだろう。逆に南方へ退却すれば、確かにシャロンからパリへの直接の道を明け渡すことになるが、彼らの左翼に日々増援を受け取り、すぐケレルマンとも合流するであろうフランス軍部隊が残っている限り、その道を進むことはないと彼は確信していた。また南方へと移動すればディロンがまだ保持しているレ=ジズレットとラシャラードを確保し続けられるため、連合軍のヴェルダンからシャロンへの連絡線をグラン=プレ経由で大きく迂回させることもできた。
 La Manoeuvre de Valmyの筆者はこのデュムリエの判断について、彼が初めて意図的に「間接的なカバー作戦」を行なったものだと指摘。ジョミニの「彼の判断力にとって名誉となる大胆な決断だった」との言葉を紹介している。ここまでずっと言葉の上では言及されてきた間接アプローチが、予想外だったこの局面でついに採用されることになったわけだ。
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