ヴァルミーまで 14

 La Manoeuvre de Valmyも第3部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p16-58)に入った。前回も述べた通り、アルゴンヌに布陣したデュムリエはそこの隘路を守ることだけを考えていたわけではない、というのがこの文章の主張である。その論拠を見るとしよう。なお今回も地図はTopographic map of France (1836)を参照のこと。
 9月1日にベルギーでの陽動を諦めると伝えたセルヴァンへの手紙の中で、デュムリエはまず戦力をオートリーに集め、そこで増援の到着とケレルマンの合流を待つ方針を示していた。続く2日の報告では、自分たちがアルゴンヌに布陣した結果、敵がパリに向かいたいのならスダンとメジエール方面に下るか、あるいはバール=ル=デュークへ遡ってサン=ディジェからシャロンへ行かねばならないと指摘。後者の道を選ぶ場合は自分とケレルマンの間に挟まれるし、敵よりも先にパリへの進路を塞ぐこともできると述べている。
 つまりデュムリエは連合軍がアルゴンヌの隘路を本気で攻撃するとは思っていなかった、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は見ている。アルゴンヌへの移動中にヴェルダンの過早な陥落を知った彼は、隘路を先にプロイセン軍に押さえられるのを恐れたそうだが、プロイセン王はシヴリーの宿営地にとどまっており、シャンパーニュへ先んじる機会を逃した。9日にデュヴァルがシェーヌ=ポピュルーに到着すれば扉が閉ざされ、それでもパリへ向かいたければ「スダンとメジエールを通る」大回りの道しか残っていない、というのがデュムリエの指摘だった。
 融通の利かない機動をするプロイセン軍にとってアルゴンヌの隘路は障害となるため、十分な障壁を築いておけば彼らは攻めてこない。しかも障壁は少数の分遣隊で作れるため、残る兵力の大半は他の用途に活用できる。ブラウンシュヴァイクが北と南のどちらを迂回するつもりにせよ、デュムリエは彼らとパリの間に腰を据えるだけでとどめるつもりはなかった。2日の手紙で彼は、増援のうち一部はクレルモンに向かわせるが、残りはヴージエに進めると述べている。十分な兵力が集まり次第、攻勢に出てプロイセン軍を追い払う、というのが彼の意図だった。
 この時点で彼の手元にあったのは2万人。パリやソワソン、ランスからの増援到着に時間がかかると見た彼は、ブールノンヴィユに増援に来るよう訴えた。14日にはルテル、そして遅くとも18日にはヴージエにこの増援が到着すれば、デュムリエは歩兵48個大隊と、ユサール4個連隊、猟騎兵6個連隊、竜騎兵6個連隊、騎兵7個大隊の計騎兵48個大隊及び軽騎兵1500騎兵を手元に揃えることになり、総兵力は3万5000人になると計算していた。
 彼が考えていたのは、アルゴンヌの森をマスクとして使いつつ、連合軍の動きに合わせて戦力の大半を機動させる作戦だ。グラン=プレとヴージエ間に待機させたこの機動予備を、状況に応じて敵と平行に北または南へと移動させ、側面を晒すであろう敵に向かって隠れ場所(アルゴンヌの森)から飛び出して襲い掛かる。十分な兵力が整い、彼が言うところの「悲しむべき防勢」を終わらせられる時が来たら、そのように行動するのが彼の狙いだったそうだ。
 問題はブラウンシュヴァイクが北のスダンとメジエール、それとも南のバール=ル=デュークとサン=ディジェのどちらを選んで迂回するかにあった。5日時点でデュムリエは後者の可能性に傾いていた。カール5世からルイ14世に至るあらゆる戦争においてサン=ディジェこそフランスへの侵攻ルートであった、というのがその論拠だ。リュクネルに対してもシャロン、ソワソン、ランスからの増援をヴージエに送るよう伝えているものの、一方でもし敵がサン=ディジェ経由でシャンパーニュへと進む場合などはヴージエに送っても無駄になる可能性があるとも述べている。
 セルヴァンもデュムリエに対し、敵はムーズを下るのではなくサン=ミエル(ポン=タ=ムソン西方)へと遡り、そこからバール=ル=デューク、サン=ディジェ、シャロンへと至ると言われているとの見解を示していた。その場合は敵の動きに追随してそれを遮断するのがデュムリエの役目だった。この手紙を受け取る前の7日、デュムリエもプロイセン軍がサン=ミエルに向かっているであろうことや、クレルモンの隘路には向かわないだろうとの見方を伝えている。そのためディロンはパッサヴァンとフーコークール=シュール=タバへ騎兵を押し出し、ヴェルダンからバール=ル=デュークへの街道を偵察するよう命じられた。彼らの退路を確保するため猟兵1個大隊、常備兵1個大隊、連盟兵6個中隊と大砲3~4門がディロンによって配置された。
 だがヴェルダン陥落後の連合軍の無為により、デュムリエは彼らがメスとナンシーを奪ったあとでロレーヌと三司教区で冬営をするつもりではないかと疑い始めた。その場合、彼はアルゴンヌ森の右翼に進み、ヴェルダンに接近するとともに可能な限りサン=ディジェをカバーするつもりだったそうだ。しかし軍の再編に時間がかかり、またブールノンヴィユがそこに到達できるのは早くて22日か23日だと予想されたため、デュムリエがこの方面で敵と戦うかケレルマンと合流できるのは早くて24日か25日の可能性があった。それでもデュムリエはのんびり待つつもりはなく、15日にはパッサヴァンとフーコークールに移動するためパリからシャロンへ6000人の兵を送るよう求めていた。
 デュムリエがそうした意図を抱いて準備を始めたのは9日からだったが、この行動に反対したのはセルヴァンだった。アルゴンヌの森をマスクとして使うデュムリエの計画をよく理解したうえで、セルヴァンは彼に対し重要な条件を忘れないよう圧力をかけた。アルゴンヌの隘路をきちんと塞いでおかなければ、自分たちの機動を危険なしに敵から隠しながら実行することはできないと、セルヴァンは改めて書き送っている。
 同じ9日、亡命貴族がヴァレンヌへ、プロイセン軍がクレルモンへ向かっているとの情報をデュムリエは得た。歩兵8個大隊と、シャロン及びランスから到着した5000人の志願兵を持つディロンが、レ=ジズレットとラシャラードを塞いでおり、敵の侵入を防ぐと考えていたからだ。またラ=ブルドネが1万2000人と多くの砲兵とともにシャロンに、ケレルマンがバール=ル=デュークに到着したことも知らされた。14日には彼らが合流するのに加え、ブールノンヴィユもルテルに、そして18日にはヴィレ=アン=アルゴンヌ(パッサヴァン西)にやってくる。そうすれば6万人以上でプロイセン軍と対峙できるというというのがデュムリエの考えだった。
 以上のようなデュムリエの書簡を踏まえたうえで、La Manoeuvre de Valmyの筆者はデュムリエがアルゴンヌの森を防衛線ではなく、その背後で安全に機動できる防壁のようなものだと考えていたと指摘している。そのうえで彼こそ「真の軍人」であり、士気などに与える防御の悪影響を知りつつも十分な戦力を集めるまではその態勢を取り、最小限の戦力でアルゴンヌの隘路を守りつつ攻勢に出るため大半を予備としてとどめおいたと書いている。基本的にこの筆者はデュムリエの軍事能力を高く評価していることが分かる。

 連合軍の意図についてはセルヴァンもデュムリエと似た想定をした。つまり最初はサン=ディジェ経由の進軍、次いはメス攻囲とロレーヌでの冬営だ。ケレルマンが7日にヴォワ(ナンシー西方)に到着し、そこから西のリニー(リニー=アン=バロワ)へ行軍するつもりだと知ったセルヴァンは、連合軍の目的が分かるまでそこにとどまるよう助言した。シャロンへ向かうにも、ムーズを下る連合軍を追うにも、メスに戻るにもいい場所だったためだ。ケレルマン自身、この時点でプロイセン軍がパリへ移動するとは思っていなかった。
 しかし8日以降、デュムリエは連合軍がパリへ向かうと見方を変えた。そこで彼はリュクネルに対し、後方すぎるソワソンの兵をシャロンに進ませ、4日以内にマルヌを守るために3万人から4万人をそこに集めるよう主張した。もし敵がバール=ル=デュークに向かうなら、ケレルマンがその背後から迫る一方、デュムリエはその右側面を攻撃するつもりだった。この策は上に紹介されている機動と同じだ。
 ところが10日、デュムリエはもっと大胆な策を思いついた。その前日に連合軍はサン=ジュヴァンにいるシュテンゲルを攻撃するかのようにそちらへと進んできたのだが、デュムリエはこの動きについて、南方へ向かう機動を隠すためのフェイントだと判断した。実際、連合軍の前衛はパッサヴァンやシャトリス(ヴィレ=アン=アルゴンヌの北)方面でフランス軽騎兵と小競り合いをしており、アルゴンヌの南方を迂回してヴィトリ=ル=フランソワからシャロンへの街道上まで進むのがブラウンシュヴァイクの本当の計画であるかのように見えた。一方、ケレルマン指揮下のデプレ=クラシエ師団が9日にバール=ル=デューク到着し、ケレルマン自身も10日にはそこにたどり着くとの情報も届いた。
 これらの情報を知ったデュムリエはブールノンヴィユらの到着を待たず、すぐに1万人で攻撃をしようと決断した。「幸運の女神に後ろ髪はない」というのが、セルヴァンへの手紙で彼が記した言葉だった。
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