12日、プロイセン軍はランドル=エ=サン=ジョルジュ(グラン=プレ東方)へと移動した。この移動はブリクネーとブール=オー=ボワの間に布陣しているクレルフェとカルクロイトを支援するためか、あるいはフレヴィユ(グラン=プレ南東)へ向かうホーエンローエを支援することを意図していたのだろうと、La Manoeuvre de Valmyの筆者は書いているが、単にヴァレンヌからまっすぐ北上していればもっと短時間で到着できた場所に大回りして2日がかりでたどり着いただけにしか見えない。ブリクネーではプロイセンの騎兵とフランス軍の間で小競り合いが行われた。
12日の移動(グラン=プレへ接近した日)、プロイセン軍は敵がマルク、サン=ジュヴァン、グラン=プレ、ブリクネーにいるのを見た。あらゆる方面で偵察と示威行動が行われ、フランス軍の注意を引き付けて本当の目的地であるラ=クロワ=オー=ボワから逸らそうとした。だがこうした試みはもっと小規模に短時間に行なった場合でも効果は変わらず、ラ=クロワ=オー=ボワでの成功に対して効果をもたらすのは無理だったのではないか、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は書いている。むしろこの無意味なほどのゆっくりとした遠回りの機動は貴重な時間を失わしめ、積極的に動いていれば9月1日にはレ=ジズレットを奪えたはずの彼らは、12日にようやくランドルに到着し、さらにそこから17日までをほぼ無意味に過ごした。デュムリエがベルギー侵攻を諦めて素早くアルゴンヌの森を押さえたのに比べると、後者の有能さが際立つ、というのがその結論だ。
ここからLa Manoeuvre de ValmyはRevue d'histoireの新しい号に移る(p16-58)。まず言及されるのは、連合軍が時間を費やし遠回りを繰り返している間、アルゴンヌの防衛線にいたデュムリエはどのような作戦を考えていたのかだ。9月4日、デュムリエは主力をグラン=プレ南東に布陣させ、左翼ではシェーヌ=ポピュルーとラ=クロワ=オー=ボワ、右翼はラシャラードとレ=ジズレットの隘路を塞いだ。果たして3万5000人の兵を50キロに及ぶ地域に展開させ、そこで敵を待ち構えるのが彼の意図だったのだろうか?
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