ヴァルミーまで 13

 La Manoeuvre de Valmyの第2部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p406-447)の続き。連合軍右翼がラ=クロワ=オー=ボワ正面に展開した一方、ブラウンシュヴァイク公も北方のグラン=プレ方面へ迂回を行なっていた。10日夜7時、プロイセン軍は翌日の行軍に関する命令を受け取った。4つの縦列に分かれて行われる移動は、土砂降りの雨の中で実施された。もちろん今回も地図はTopographic map of France (1836)を参照のこと。
 歩兵の第1梯団、騎兵1個連隊で構成される第1縦隊は、前衛を先行させ、ヴァレンヌから東のエーヌに戻り、北に転じてマランクール近くに宿営した。騎兵4個連隊と第2梯団で形成された第2縦隊も同じ道を進み、やはりマランクール付近に宿営した。荷駄隊で構成された第3縦隊はマール、シャタンクール、ベタンクールと道を進み、最後に第4縦隊(装備と重砲兵)はセプトサルジュ(モンフォーコンのすぐ東)に布陣した。プロイセン王の司令部はマランクールに移り、荷物も最初の2個縦隊に従っている。
 つまり彼らはいったんアルゴンヌ森から東へ遠ざかるように動き、しかもその際にヴァレンヌから直接モンフォーコンへ動くのではなくわざわざ遠回りするように移動したことになる。狙いは不明だが、この移動によってプロイセン軍はマランクールからモンフォーコン付近までに広がって布陣した。またホーエンローエの部隊はシヴリー=ラ=ペルシュからイヴォワリー(モンフォーコンのすぐ西)まで進み、ずっと南方のケレルマン監視に派遣されていたケーラーの部隊もこれに合流した。この移動もやはり狙いがよく分からない。
 この日、クレルモンの庭園にいたユサール80騎、第6歩兵連隊の兵100人、そして擲弾兵1個中隊が、霧の中でプロイセンのユサール分遣隊に包囲され、捕虜となった。またヴェルダンでムーズを渡ったヘッセン軍が、その西方のフロムレヴィユ近くに宿営した。
 12日、プロイセン軍はランドル=エ=サン=ジョルジュ(グラン=プレ東方)へと移動した。この移動はブリクネーとブール=オー=ボワの間に布陣しているクレルフェとカルクロイトを支援するためか、あるいはフレヴィユ(グラン=プレ南東)へ向かうホーエンローエを支援することを意図していたのだろうと、La Manoeuvre de Valmyの筆者は書いているが、単にヴァレンヌからまっすぐ北上していればもっと短時間で到着できた場所に大回りして2日がかりでたどり着いただけにしか見えない。ブリクネーではプロイセンの騎兵とフランス軍の間で小競り合いが行われた。
 プロイセン軍はこの移動を3つの縦隊で行った。第1梯団(18個大隊)から成る第1縦隊は、イヴォワリー、エピノンヴィユ、ロマーニュ、コート=ド=シャティヨン(ランドル南東)を経て移動した。騎兵全部と装備、そして背後から皇太子連隊とパンの荷車が続いた第2縦隊はモンフォーコン、シエルジュ、ロマーニュ、バントヴィユを経由した。最後に荷駄隊を含む第3縦隊は一部はナンティヨワ、一部はセプトサルジュを経て、ロマーニュで第2縦隊と合流した。
 これらの移動も相変わらず激しい雨の中で実施された。道は酷く荒れ、住民はほとんどが逃げ出していたという。プロイセン軍の移動はかなりの時間を要し、最初の者でもようやく午後7時に、最後の者は真夜中になってようやく目的地に到着した。テントや装備の到着を待つ間に焚火がつけられたが、1連隊あたりの病人が300人に達するなど兵の疲労はかなり限界に達していた。ようやくテントが到着した時には恐ろしい嵐のために設営ができなくなった。迫撃砲と大型の荷車は翌朝まで到着できなかった。
 バーデン公の旅団はモンフォーコンを経由してホーエンローエ=インゲルフィンゲンの部隊と合流した。かくしてこの部隊は歩兵14個大隊、騎兵13個大隊と大規模な砲兵で構成されるようになり、12日にはフレヴィユからソムランス(フレヴィユ北東)に宿営した。彼の任務はまずデュムリエの注意をクレルフェから逸らし、北方での機動がフランス兵に退却を余儀なくさせた時に、アルゴンヌ森を通る主要街道をサント=ムヌーまで奪うことにあった。
 13日、ヘッセン部隊はシヴリー=ラ=ペルシュにおり、ティオンヴィルから来た亡命貴族部隊はデュンに到着した。ホーエンローエ=キルヒベルクはクレルモンでヘッセン軍と合流するよう命令を受けた。彼はそこでレ=ジズレットとビソン運河の背後にいる敵(ディロンの部隊)を監視し、それを牽制するが、自身の兵を危険には晒さないよう求められた。彼は13日にヴェルダンでムーズを渡り、14日にはエール右岸のブルイユ、ヌヴィイー、オブレヴィユまで広がる広範囲に宿営した。彼の左翼のヘッセン軍はヴレンクールまで展開し、歩兵4個大隊と砲兵1個中隊の前衛分遣隊がクレルモンに布陣した。
 12日の移動(グラン=プレへ接近した日)、プロイセン軍は敵がマルク、サン=ジュヴァン、グラン=プレ、ブリクネーにいるのを見た。あらゆる方面で偵察と示威行動が行われ、フランス軍の注意を引き付けて本当の目的地であるラ=クロワ=オー=ボワから逸らそうとした。だがこうした試みはもっと小規模に短時間に行なった場合でも効果は変わらず、ラ=クロワ=オー=ボワでの成功に対して効果をもたらすのは無理だったのではないか、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は書いている。むしろこの無意味なほどのゆっくりとした遠回りの機動は貴重な時間を失わしめ、積極的に動いていれば9月1日にはレ=ジズレットを奪えたはずの彼らは、12日にようやくランドルに到着し、さらにそこから17日までをほぼ無意味に過ごした。デュムリエがベルギー侵攻を諦めて素早くアルゴンヌの森を押さえたのに比べると、後者の有能さが際立つ、というのがその結論だ。
 正直、これに異論を唱えるのは難しいだろう。連合軍のこの時期の移動は複雑怪奇な割に効果があったとも思えず、時間と同時に兵の疲労を積み重ねるだけだったのではないかと見られる。ブラウンシュヴァイクがやりたくない計画を強いられていたのは分かるが、それにしても連合軍による一連の行動はフランス側の動きに比べて理解しがたいのは事実だ。

 ここからLa Manoeuvre de ValmyはRevue d'histoireの新しい号に移る(p16-58)。まず言及されるのは、連合軍が時間を費やし遠回りを繰り返している間、アルゴンヌの防衛線にいたデュムリエはどのような作戦を考えていたのかだ。9月4日、デュムリエは主力をグラン=プレ南東に布陣させ、左翼ではシェーヌ=ポピュルーとラ=クロワ=オー=ボワ、右翼はラシャラードとレ=ジズレットの隘路を塞いだ。果たして3万5000人の兵を50キロに及ぶ地域に展開させ、そこで敵を待ち構えるのが彼の意図だったのだろうか?
 歴史家は全体としてそう考えている。そのうえで敵が兵力をあまりに広範囲に広げたことを批判しているそうだ。敵が特定地点に戦力を集中できる状態で、各隘路に戦力を分散させているのは、確かにリスクが高い。それにデュムリエ自身、回想録の中でレ=ジズレットとグラン=プレがフランスのテルモピュライであるが自分はレオニダスよりは幸運だと記している。だがデュムリエは決して隘路を塞ぐことだけを考えていたわけではなく、別の計画を心に抱いていた、というのが筆者の考えだ。

 ……だがその考えを紹介する前に、1つ疑問点を書いておこう。La Manoeuvre de Valmyの筆者は、デュムリエが「テルモピュライ」という言葉を持ち出したのが回想録の中だと書いており、実際にLa vie et les mémoires du général Dumouriez, Tome Troisièmeの中にテルモピュライの文字が出てくる(p2)。一方、前にも紹介しているが、デュムリエが9月4日付の報告で「アルゴンヌの隘路はフランスのテルモピュライ」と語ったとの説もある。いったいどちらが正しいのだろうか?
 9月4日の報告については、私が探した限り1822年に出版されたBiographie nouvelle des contemporainsに載っているものが最も古かった(p447)。デュムリエの回想録(1794年にロンドンで出版された)よりも新しい。となるとBiographieに書かれている文章は、実は回想録の言い回しを加工して採録したものかもしれない、という疑念が浮かんでくる。
 そしてまさにその通りとの指摘が載っているのが、Chuquetが編集しているFeuilles d'Histoireという雑誌だ。それによるとデュムリエがセルヴァンに対して「フランスのテルモピュライ」と書いた事実はなく、彼の書簡を探しても見つけるのは無理。ただ同年10月に彼が国民公会で「アルゴンヌ森の隘路はテルモピュライであり云々」と発言したことは分かっている(この話はデュムリエの回想録、p406にも載っている)。さらにこの文章によると、実際に最初にテルモピュライと言ったのはデュムリエではなくディロンだそうだ。彼はビーム河畔の宿営地で、自身の陣地について「これはテルモピュライの隘路だ」と述べている(p93-94)。
 つまりデュムリエ自身はアルゴンヌの森にいる時点で「フランスのテルモピュライ」と言った証拠はないわけだ。有名なフレーズであり、フランス語wikipediaでもこの話が言及されているが、厳密に言えば取り上げない方がいい言葉になる。
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