だが連合軍の司令部では今後の作戦について意見の相違が生じていた。慎重なブラウンシュヴァイク公はパリへの行軍を軽率と考え、スダン、モンメディ、メジエール、ジヴェといった拠点を奪い、今後の戦役に備えた拠点を作ることを考えていた。ホーエンローエ公も同意見だったが、国王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世は亡命貴族やアルトワ伯の使節であるド=ロール男爵からの影響を受け、またヴェルダンが容易に陥落したために自信満々で攻勢継続を唱えた。マッセンバッハによれば、彼は既にパリへの凱旋入城を思い描いていたという。
方針について話し合う会議が開かれ、議論は午後3時から8時まで続いた。国王の不興を買いたくなかったブラウンシュヴァイクは自らの計画を捨てざるを得なかったが、パリ進軍という君主の決断を実行するには時間を要した。やる気がなかったのか、デュムリエやケレルマンの動きを十分に把握していなかったのかは不明、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は記している。彼らがスダンやメスにとどまっている状態で連合軍がシャロンへ進撃すると、その背後に彼らが襲い掛かってくる可能性がある。ある幕僚によれば、この状況でシャロンへの前進を主張する者は「
イロコイ族 の戦争技術しか学んでいない」者になるそうだ。
ブラウンシュヴァイクが改めて命令を出したのは9月4日。それに合わせてプロイセン軍は5日にムーズ河を渡った。右翼のカルクロイトはヴィティンクホフ旅団、バイロイト竜騎兵10個大隊とエベン・ユサール1個大隊で、ヴァレンヌへの街道上にあるマール(ヴェルダン北西)に布陣し、ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公の前衛部隊はシヴリー=ラ=ペルシュ付近にいた。主力は3つに分かれてムーズを渡河しており、ロットゥムが指揮する騎兵25個大隊と荷駄隊右翼はシャルニー(ヴェルダン北方)の舟橋を、歩兵全部とそれに付属する砲兵から成る中央はワモー農場(ヴェルダン北西隣)に架けられた2つ目の舟橋を、そして各種装備や重砲兵、パンを積んだ荷車などの左翼はヴェルダンの固定橋を使った。
ブラウンシュヴァイクの軍はグロリウー(ヴェルダン西隣)からルグレ(同南西隣)へと広大な円弧を描いて宿営した。ティエルヴィユ(グロリウー北隣)の南西にある右翼は騎兵2個連隊で構成され、左翼を第一梯団であるバーデン公の旅団と騎兵の残りまで延ばしていた。皇太子の旅団は前者の右後方で第二線を形成していた。国王の司令部はグロリウーに、ブラウンシュヴァイクの司令部はルグレにあった。ムーズ右岸にはティオンヴィル正面にいるホーエンローエのオーストリア軍及び亡命貴族部隊との連絡線を確保するため、ケーラー将軍がユサール1個連隊と銃兵2個大隊で布陣していた。彼はユサール1個大隊と銃兵1個大隊をベルリュプト(ヴェルダン南東)近くに配置し、オディオモン(さらに東方)へと哨戒線を延ばしてメス街道を監視した。さらに同じ戦力を彼はベルヴュー(ヴェルダン東方)に配置し、哨戒線をエクスに置いた。エベン・ユサールの1個大隊はベルヴィユ(ヴェルダン北隣)とヴェルダン郊外を、最後にクルビエール将軍の歩兵2個大隊はヴェルダンそのものを占拠した。
連合軍右翼のクレルフェはいまだ歩兵7個大隊と10個半中隊、騎兵11個大隊とともにバーロンにいた。左翼のホーエンローエはティオンヴィル正面に歩兵7個大隊と騎兵6個大隊、大型の荷車に砲兵予備を残し、歩兵6個大隊及び騎兵14個大隊とともにヴェルダンへと行軍していた。この部隊は9月10日にオブエ(ティオンヴィル南西のオルヌ河畔)、11日にコンフラン=アン=ジャルニジー(同河畔)、12日にエテンに到着。13日にはムーズを渡ってマールに布陣した。天候は非常に悪く、ホーエンローエは皇帝への手紙の中で想像を超える苦痛だと述べている。
5日、デュムリエがスダンからランスへと向かったとの情報がプロイセン軍司令部に届いた。強力な分遣隊とともにヴァレンヌに前進したカルクロイトは、この地から敵が引き上げているのを確認している。6日、ブラウンシュヴァイクはデュムリエがクレルモンとサント=ムヌー間に布陣し、進路を塞いだことを知った。また中央軍がシャロンへ向けて行軍中であり、10日か11日には到着するとの情報も入ってきた。連合軍がデュムリエのアルゴンヌへの移動について遅くまで情報を得られなかったことが分かる。
7日、ケレルマンの軍がデュムリエと合流したとの情報が入ってきた。だがこれはむしろブラウンシュヴァイクを喜ばせたようだ。もう連絡線を心配する必要がなくなるからで、一撃で2つの敵を倒すことも可能だと彼は自身を鼓舞したという。だがフランス軍が防衛準備を整える前に攻撃する必要があることもまた事実で、彼はそのために使えるあらゆる戦力を集めようとした。
彼は3つの縦隊で同日に偵察を行なった。参謀本部の士官たちが同行して地形を調べ、アルゴンヌの森をどう迂回すればいいかを調査した。カルクロイトの軽兵で構成された右翼縦隊はヴァレンヌとモンフォーコン(ヴァレンヌ北東)へと前進。一種の側衛部隊であった左翼(歩兵1個大隊と2個中隊)はランポン、ヴィユ=シュール=クザンス、フロワドを経てフルリーまで進んだが、何も発見できなかった。
ヴォルフラート・ユサールの5個大隊、シュメッタウ竜騎兵の5個大隊、銃兵2個中隊で構成され、さらに200騎のヴォルフラート・ユサールが前衛として先行した中央縦隊は、主要街道に沿ってドンバスル、ブラバン、ヴレンクール、クレルモンと進み、レ=ジズレットから半リューのアルゴンヌの森へ向かった。クレルモン近くの高地に至った彼らは、そこでビーム運河の背後にあるラ=ヴィニェットの宿営地を見つけた。森の中の空き地からは1個大隊と大砲3門しか確認できず、それらは道を塞いでいた。情報によればこの戦力はレ=ジズレットに哨戒線を置くデュムリエの前衛部隊(6000人)の一部であった。デュムリエ自身はグラン=プレにいると言われていた。
住民たちにも質問したうえで、レ=ジズレットの陣地は固すぎると考えたブラウンシュヴァイクは、そこを迂回する決断をした。フランス側の攻勢を妨げるため、彼はヴェルダンからクレルモンへと至る街道に大きな部隊を配置する一方、グラン=プレ付近にいると思われた敵の左翼を軍の大半で迂回するつもりだった。
レ=ジズレットとラシャラードと対峙し、クレルモン方面で監視にあたる役割は、ティオンヴィルからやってくるホーエンローエ=キルヒベルクの歩兵6個大隊と騎兵4個大隊、およそ6000人から7000人に委ねられた。一方プロイセン軍のほぼ全軍はヴェルダンからグラン=プレへ向かい、クレルフェのオーストリア軍部隊は、カルクロイトが指揮する歩兵7個大隊と騎兵15個大隊に支援されながら、バーロンから出撃してラ=クロワ=オー=ボワの奪取を図る。エアバッハと亡命貴族部隊は両グループの連携を任され、ケーラーの部隊はオディオモンからヴェルダンへ、さらにスノンクール、ショーモン=シュール=エール、バール=ル=デュークと南下してケレルマンの軍の監視を続けることとなった。
7日、バーロンの宿営地を発したクレルフェはヌアール(ストネ南西)へ向かった。8日、彼は南へと方角を変えてロマーニュ=スー=モンフォーコンへと向かった。デュムリエに彼らが正面からグラン=プレを攻撃するつもりと思わせ、ラ=クロワ=オー=ボワ方面を警戒させないためだという。ロマーニュからはグラン=プレの高地にいるフランス軍を明確に見ることができた。同日、カルクロイトはベタンクール(マール北西)を経てモンフォーコンの高地に到達し、そこからフレヴィユ(グラン=プレ南東)まで進んでクレルフェと手をつないだ。これら右翼の戦力は合計して2万人に達した。
ケーラーの分遣隊はケレルマンを見張るため、8日夕方に出発しスノンクールからショーモン=シュール=エールへと移動した。ケレルマンはポン=タ=ムソンからバール=ル=デュークを経てサント=ムヌーへ向かっていると言われていた。9日、ケーラーはリュクネルがシャロンにいること、ケレルマンが指揮する前衛部隊が8日にバール=ル=デュークに到着したこと、そして多くのパリからの増援がシャロンに到着したことを情報として得た。
9月の9日と10日は、グラン=プレに対する偵察に費やされた。クレルフェ自身が率い、猟騎兵の1個大隊と1個中隊が護衛についた偵察では、フランスの兵力をおよそ2万人と推測している。11日早朝、カルクロイトはシエルジュ(モンフォーコン北西)とモンフォーコン間にある宿営地を発し、ロマーニュを経てビュザンシー西方のマルメゾンへ向かった。クレルフェもその右翼に展開し、ここでようやく彼らは目的としてくたラ=クロワ=オー=ボワの正面に展開したことになる。ブラウンシュヴァイクが迂回を決めた4日後、デュムリエがアルゴンヌに布陣してから実に1週間が経過していた。
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