ヴァルミーまで 11

 La Manoeuvre de Valmyの第2部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p406-447)の続き。連合軍側はシャンパーニュへの進軍に際してフランス側より先行していた。8月29日、クレルフェは実際にロンウィからロンギュヨンを経てマルヴィユまで前進していた。ただ道路状態が悪かったため装備がこの移動に追随できず、30日に彼はマルヴィユで足を止めることを余儀なくされた。31日、彼らはジュヴィニーに進み、前衛部隊はバーロンまで進出してそこにいたフランス軍哨戒線をストネに退却させた。ディロンの前衛部隊はストネを放棄し、ラヌヴィユ=シュール=ムーズからボーモン=アン=アルゴンヌを経てムーゾンまで退却した。
 この時点でストネからグラン=プレまでの道は開かれていたが、オーストリア軍はこの機に乗じようとはしなかった。おそらくデュムリエが自分たちを攻撃すると考えたクレルフェは、ストネに歩兵1個大隊と騎兵1個大隊を残して前衛部隊をジュヴィニーに下げた。9月1日も彼はジュヴィニーに歩兵2個大隊と騎兵1個大隊をとどめ、ストネの守備隊を歩兵1個大隊で増援したが、主力はバーロンに布陣し、そして9月7日までそこから動こうとしなかった。
 ディロンの失敗を知ったデュムリエは、オーストリア軍がその後で兵を引いたことに気づかぬまま、オートリーへの行軍を決断した。たとえクレルフェがそれを妨害しようとしても、それを受け止める準備はできていると彼はセルヴァンへの手紙で書いている。9月1日、彼は軍主力とともにスダンを発し、その日は左翼はヴィユモントリー(ムーゾン南方)、右翼はヨンク(同南西)に宿営した。
 彼は2日にストンヌを経てシェーヌ=ポピュルー、3日にヴージエ、4日にオートリーに到着する計画だった。この行軍をカバーする前衛部隊はサン=ピエルモン、ビュザンシーと進み、アンジェ少将とデュブーケ少将が率いる重砲兵部隊は第3縦隊となり、シェムリー、タネー、シェーヌ=ポピュルーを経てヴージエへと向かう。またデュムリエはポン=シュール=サンブルから5000人の兵とともに来たデュヴァルに対し、7日にルテル(エーヌ流域の町)を発し、2日でヴージエに到着し、そして9日か10日にはオートリーにたどり着くよう命じた。
 デュムリエはこのオートリーに2万人から2万5000人を集め、またパリからシャロンとサント=ムヌーを経由した増援が来ることも期待していた。さらに彼はセルヴァンへの手紙で、ケレルマンとの合流も可能になると記している。スダンとメジエールはその守備隊に任せているが、この地が攻撃を受けることはなく、戦争の行方は野戦で決まるだろうというのが彼の見方だった。たとえスダンなどが攻囲されるとしても「枝葉にこだわらず、幹を助けるのが重要だ」と彼は記している。
 9月2日の行軍後、フランス軍は以下のような位置を占めた。司令部はラ=ベルリエール(ストンヌ南方)、主力はストンヌとラ=ベルリエール間にあり、シュテンゲル指揮下の側面部隊がストンヌ、ラ=ブザス、ワルニフォレ(いずれもストンヌ東方)に展開した。アンジェとデュブーケ率いる砲兵装備と護衛部隊はラ=ヌヴィユ=ア=メール(シェムリー=シェエリー南方)にいた。シェーヌ=ポピュルーの隘路を開けたままにしておくのは拙いと判断したデュムリエは、デュヴァルへの命令を変更。ファマール宿営地の分遣隊と合流して5日にルテルに到着し、6日はそこで休んだうえで、7日にシェーヌ=ポピュルーの隘路を占拠するよう命じた。またデュムリエはモールド宿営地からもいくつかの大隊を引き抜こうと考えていたが、オーストリア軍がその地を何度か攻撃していたために見送った。
 ヴェルダンに入城しようとしていたガルボーは、ヴァレンヌからサント=ムヌーへと後退し、9月1日にはビーム河とフロラン河(ビームの支流)の河畔を占拠した。彼は2個歩兵大隊でレ=ジズレット隘路を守り、サント=ムヌーからヴァレンヌ及びヴェルダンへの道を支配するよう命じられた。デュムリエはアルゴンヌのあらゆる拠点をつなぐ連絡路を開き、またグラン=プレの防衛を強化するためエールの貯水池を使って氾濫を起こすことも提案した。さらに地元の行政に対しては森の端を見張り塹壕や逆茂木を設置するための武装した市民を提供するよう求めた。
 9月3日、デュムリエはグラン=プレ東方に到着し、主力の右翼をシャンピニュールに、左翼をベフュに配置し、前衛部隊でコルネーとマルクを占拠し、砲兵装備はブリクネーに置いた。同日セルヴァンは、1日付のデュムリエの手紙に対する返答の中で、モールドやモブージュの宿営地だけでなく、ダンケルク、リール、サン=トメールなどの拠点からも北方軍への増援を送るよう主張した。、またパリからランスへ兵が出発したことも告げ、国境からムーズの間に集まっている敵を圧倒し、それからベルギーに攻め込むよう伝えている。
 4日、デュムリエは「難攻不落」と考える陣地への移動と布陣を達成した。マルクからグラン=プレまでの、ネグルモンの森からほど近いエール左岸の高地に主力が配置され、前衛部隊は右岸のサン=ジュヴァン、ベフュ、ブルゴーニュの森に展開した。砲兵装備はスニュ(グラン=プレ南西)へ移動。シェヴィエールに至る2本とマルクに至る2本、計4本の橋がエールに架けられ、いざという時に前衛部隊が左岸へ退却できるようになっていた。スニュとグラン=ダムにはエーヌを渡る2本の橋があり、必要時に軍がエーヌ左岸へ逃げることも可能にしていた。
 かくしてヴォーの陣地から敵に先行してグラン=プレへ向かう行軍は成功裏に終わった。3日、デュムリエが書いた手紙の中には、「もし私の相手がフリードリヒ大王だったなら、私はシャロンまで追われていただろう。だが(中略)もはやプロイセン軍は戦争のやり方を知らないようだ」との文言がある。スタートが遅れたにもかかわらずアルゴンヌの森を占拠するのに成功した最大の理由が、連合軍の不作為にあったのは間違いないだろう。
 他の隘路も次々と塞がれていった。ディロンの指揮する擲弾兵1個大隊を含む歩兵4個大隊、猟騎兵3個連隊、ユサール2個連隊から成る分遣隊は、ヴィエンヌ=ル=シャトー(ビームとエーヌの合流点近くの町)からパサヴァンまでのアルゴンヌ防衛を任された。つまりレ=ジズレットとラシャラードの隘路を彼らが塞ぐことになる。歩兵4個大隊を持つガルボーも彼の指揮下に入る。プロイセン軍を恐れていたディロンは4日から5日にかけての夜間をヴィエンヌ=ル=シャトーで過ごし、それから5日午後3時にラシャラードに到着した。即座に堡塁や砲台が築かれ、グランド=ジズレット村も要塞化され、ビームには堤防が築かれた。防御を固めた彼は数日後、敵がアルゴンヌ森を通って攻撃を仕掛けることは決して起こらないように見えると伝えてきた。
 グラン=プレの北方、ラ=クロワ=オー=ボワの隘路には、第2竜騎兵連隊のコロン大佐が歩兵2個大隊、騎兵1個大隊と大砲4門を率いて展開した。シェーヌ=ポピュルーの隘路は、当初は弱体な分遣隊が守っていたが、8日にはルテルから強行軍でやってきたデュヴァルの5000人が布陣した。彼に対しては労働者を集めてこの陣地を通行不能にするよう命令が下された。デュムリエはリュクネルに対し、「シャンパーニュへのあらゆる門は閉ざされる。もし敵がそこに侵入したいのなら、彼らはスダンとメジエールを経由する大回りを強いられるだろう」と書き記した。
 5日、デュムリエはパリやソワソン、ランスから送ると約束されていたはずの増援がすぐには到着しないことを知り、ブールノンヴィユに対してモールドとアヴェーヌの宿営地から歩兵12個大隊(常備兵1個大隊、徒歩猟兵1個大隊含む)、竜騎兵4個大隊、猟騎兵3個大隊、そして1200人のベルギー人もしくは義勇兵中隊を連れてくるよう命じた。これらの兵は15日にはルテルに、遅くとも18日にはヴージエに到着すると期待されていた。これで彼は歩兵48個大隊、騎兵48個大隊、軽歩兵1500人の計3万5000人を集めることになる。彼は「19日か20日には4万人を集められるだろう」と予想しており、さらにバール=ル=デュークとポン=タ=ムソンを経由してメスのケレルマンとの連絡も確保しようとした。
 興味深いのは、つい1ヶ月前までモールドの宿営地の兵力が少なすぎると文句を言っていたデュムリエが、この時点ではむしろそこから多くの兵力を引き抜いている点だ。後知恵で見ればデュムリエの主張には無理がある点は前にも指摘しているが、アルゴンヌ防衛のために北方から大軍を引き抜いた彼の行動を見る限り、本音のところでは彼自身、北方が脅威に晒されていると思っていなかったのではないかと疑いたくなる行動である。やはり彼は純軍事的な判断というより、政治的な思惑(ラファイエットやリュクネルの指揮下から離れる)を主な目的として行動していたように見える。
 多くのスパイがストネとヴェルダンに送られ、プロイセン軍の動きについて情報を集めようとした。ケレルマンは大臣経由で2日付のデュムリエの手紙を受け取り、合流に向けて機動することになった。4日のデュムリエの手紙で、セルヴァンは軍を鼓舞するような言葉を並べ、「自由への道を開いた最初の国民は、勝利への道も切り開かねばならない」と発破をかけた。そして同4日の午後9時、ケレルマンはフレスカティの宿営地を出発し、デュムリエと合流すべくまずはポン=タ=ムソン(メスの上流にある町)へと向かった。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント