ヴァルミーまで 10

 La Manoeuvre de Valmyの第2部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p406-447)では、デュムリエのベルギー侵攻案が決して効果的とは言い難いとの見方を示している。ベルギーに侵攻してもプロイセン軍のパリへの進軍が止まる保証はない、という理屈だ。ロンウィやヴェルダンといった、敵の進軍を正面で食い止めるはずの要塞が短期間であっという間に落ちたこと、また大混乱になっていたパリの政情などを踏まえるのなら、そうした懸念も分からなくはない。
 デュムリエがヴァランシエンヌからスダンへと移動したのを知り、陸軍大臣セルヴァンは彼がベルギー侵攻をいったん諦めたのだと満足していた。それだけに改めてベルギー侵攻を提案する会議の議事録が9月1日に伝えられた時には驚愕したと思われる。彼はデュムリエに対し、プロイセン軍がパリへの前進を決断している限り、ベルギー侵攻や征服でそれを止めることはできないと指摘。従ってデュムリエの計画は一時的に放棄し、より確実な手段を取る必要がある。北方軍はシャゾ指揮下の守備隊をスダンに残したうえでアルゴンヌの森へと移動し、同じ動きをする中央軍に接近しなければならないと書き記した。
 両軍はムーズとマルヌの間で防御線を敷き、もし後退を強いられるなら今度はさらにマルヌの線で抵抗する、というのが臨時行政会議の方針だった。そうやって新たな動員兵力を集める時間を稼ぎ、勝利を確信して行軍している敵の意図を挫かなければならず、デュムリエは既にシャロンにいる1万人に追加の2万人が加わるまでの時間を稼ぐよう求められた。行政会議はベルギー侵攻を明白に否定しているわけではないが、その前にやるべきことがあるという説明だ。
 セルヴァン自身はリュクネルらへの手紙で敵の側面や背後への攻撃を指示していた。このデュムリエへの手紙でもやはり敵の連絡線を邪魔するよう伝えているが、一方で正面での足止めの必要性についてもかなり強く主張しており、ベルギー侵攻という間接度の高いアプローチには強い懸念を抱いているのが分かる。やはりパリの政治情勢(まさに9月虐殺が始まろうとしていた)を肌身で感じている立場としては、パリ防衛を最優先にしなければヤバいという実感があったのだろう。デュムリエへの手紙で、各拠点の指揮官にきちんと抵抗するような指示を与えることも求めているのも、そうした恐怖感が背景にあったように思える。
 翌2日、ヴェルダンが包囲され、ガルボーがそこに入城できなかったことをセルヴァンは知った。彼はデュムリエに対し、前日よりも切迫した調子で、サント=ムヌーもしくはシャロンにまで移動し、各地の守備隊やポン=シュール=サンブルとモブージュの兵でエーヌ防衛線をカバーするよう求めた。マルヌの背後まで下がったなら、プロイセン軍と対峙するための2万5000人の兵をそこに残したうえで、ベルギー侵攻計画をやり通しても構わないと述べているのが、せめてもの妥協点だったのだろう。とにかく敵を容易にパリへ到着させてはならないことこそが不可欠なのだから、国家の名において行政会議の計画を採用せよ、と大臣は強く迫った。
 3日、デュムリエが行政会議の指示を受け取る前に自発的にベルギー侵攻を諦め、大臣の望みに従う決断をしたとの報告が、セルヴァンの下に届いた。実は8月31日時点で、クレルフェの部隊がストネで、また別の縦隊がデュン(デュン=シュール=ムーズ)とコンサンヴォワでムーズを渡ろうとしているとの情報が、ミアチンスキーから北方軍司令官のところに届いていた。この動きを食い止めるのは不可能だと判断したデュムリエは、モンメディとヴェルダンの防衛を守備隊に任せ、シェムリー(シェムリー=シェエリー)、ブリウユ、グラン=プレを経てオートリーを押さえ、また別動隊でクレルモントワ(クレルモン=アン=アルゴンヌ)を占拠することを強いられるだろうと考えた。
 彼はセルヴァンに対し、シャロンの戦力の一部をクレルモントワに送るよう求めた。一方、自身の攻勢計画をまだ完全に諦めてはいなかった彼は、その利点をもう一度セルヴァンに訴えている。だが一方で彼は、臨時行政会議が自分の計画を採用しない場合でも、彼に対する指示を忠実に実行するとも伝えている。デュムリエによるベルギー侵攻は、結局この年の年末近い時期まで順延された。

 アルゴンヌは上マルヌのジュラ山脈とアルデンヌの高地をつなぐ森がちな丘だ。三司教区とシャンパーニュの間にあり、ムーズ盆地とエーヌ峡谷を隔てている。ヴィレ=ザン=アルゴンヌとバール=ル=デュークの間にある森(ベルヌエ、ベルヴァルなど)や池の散らばる地域がこのアルゴンヌの南端となっており、具体的にはフルリー=シュール=エールからワリー、ブリゾー、パサヴァンを経てヴィレ=ザン=アルゴンヌへと至る道がちょうど南の境界線になっていた。この南端から高さ250~300メートルほどの丘が始まり、ヴィレからエーヌ峡谷までの距離は140メートルほどだった。
 一方、アルゴンヌの北端はシェーヌ=ポピュルー(ル=シェーヌ)にあり、北方のオモンとマザランの森を経てアルデンヌの森がちな山地につながっていた。南と南東の正面を除いて長さ60キロに及ぶこの高地は近くの峡谷からせいぜい100メートルに及ばない程度の高さしかなかったが、いくつかの地域では森の幅が14キロに及んでいた。また東斜面は全体として西斜面より険しく、侵攻に対する防衛をそれだけ容易にしていた。
 森は極めて深く、小川や池、湿地、沼地などの障害物が山ほどあった。粘土質で上層部に石灰岩を含む重い土壌は、雨が降ると水浸しになり、この自然の地形によってあらゆる連絡路では車両が通行不能となった。隘路や峡谷へと下る場所はしばしば道が遮断され、亀裂と呼ばれるような本物の険しい渓谷と化した。粘土の多い南部は特に最も険しい地域だった。
 フルリー=シュール=エールからエーヌの合流点まで流れるエール峡谷は、アルゴンヌの森の東と北を囲む壕を形成していた。西ではエーヌ河がアルゴンヌとシャンパーニュ平野の丘がちな境界を隔てており、アルゴンヌからの多くの水流がそこに流れ込んでいた。山地の軸に沿って南北に流れる排水路とでも呼ぶべきビーム河は、途中までエーヌと平行に流れ、突如として西へと流れを変えてエーヌと合流している。これらの河川はいずれも南東から北西へと向かって流れており、東から西への連絡を困難にすることでアルゴンヌが歴史的に防衛線として使われてきた理由を説明している。
 1792年当時、砲兵やその装備を伴う軍がアルゴンヌを通過できる隘路は5ヶ所しかなかった。南方から順番に、ヴェルダンとパリを結ぶ道路がサント=ムヌーとシャロンへ通じているレ=ジズレット、ヴァレンヌからの道が通じているラシャラード、エール河沿いのグラン=プレ、ブリクネーからヴージエへと至る荷車用の道があるラ=クロワ=オー=ボワ、そして最後にシェーヌ=ポピュルーの隘路で、この道はシェーヌ=ポピュルーからカトル=シャンを経てヴージエへ至るルートと、シャティヨン=シュール=バールからノワルヴァルを経てヴージエに達するルートの2種類があった。
 以上の細かい地形については、オスコットの戦いの時にも使ったTopographic map of France (1836)を参照するのがいいだろう。もちろん1792年当時とは異なる部分もあると思うが、割と細かい地名を把握しやすいのはオスコットの時と同じだ。もちろんアルゴンヌだけでなく、最終的なヴァルミーの砲撃戦にまで至る流れを把握するうえでも、この地図は割と役に立つ。
 軍の再編と増援を図るため、デュムリエが連合軍を待ち構えるべくセルヴァンとの合意の上で選んだこのアルゴンヌの森は、ポツダムの練兵場に慣れていたプロイセン軍にとって厄介な地域だった。分断されて荒れた連絡の難しいこの森には、規則的で厳格な隊形に慣れ、公式的な機動を行なう18世紀的な軍隊が得意とする平坦な地形はほとんどなかった、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は記している。ただ実際にはこの森で連合軍を食い止められたわけではなく、ある意味で地理が絶対的な条件ではないとディロンに説教していたデュムリエの考えが逆説的に立証されたのがヴァルミー戦役だとも言える。
 デュムリエがこの地域に防衛線を敷くことを優先するためベルギー侵攻を諦めたのは、ようやく9月1日になってからだ。必要性に迫られた彼は「不承不承」自身の計画を取りやめ、自身の性格には合わないものの現状では避けられない防衛作戦の採用を決めた。8月29日の(ベルギー侵攻を訴えた)会議の席では、連合軍が執り得る計画は2種類しかないと分析している。各地を攻撃してムーズ、モーゼル、ムルトの各県を占拠し、そこで冬営する策と、モンメディとヴェルダンの間を通ってムーズとストネあるいはデュンで渡り、オートリーとグラン=プレからエーヌ河畔へ進んでシャロンに到着し、そしてパリへと行軍する策だ。デュムリエが防がなければならないのは、この第2の策だった。
 彼は連合軍のパリ進軍を防ぐためオートリーに全戦力を集めようと考え、必要な手をすぐに打った。実のところグラン=プレの隘路はフランス軍の大半が集まっているスダンからは50キロも離れていたのに対し、クレルフェの部隊が迫っていたストネからはたった25キロしかなかった。要するに連合軍の方がフランス軍よりシャンパーニュの近くにいたわけで、しかもストネは全く守られていなかった。ムーゾンからラヌヴィユ=シュール=ムーズ(ストネの対岸)へ前衛部隊として前進しそこを守るようデュムリエに命じられていたディロンは、敵に敗北したばかりだった。
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