ヴァルミーまで 9

 La Manoeuvre de Valmyの第2部(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p406-447)続き。デュムリエが到着した後のスダンで8月29日に開かれた会議では、利用可能な戦力について歩兵25個大隊、騎兵37個大隊の計1万9000人と見積もられていた。一方左翼の部隊は、モールド宿営地に戦列歩兵2個大隊、国民志願兵10個大隊、騎兵5個大隊、砲兵500人の計8276人がブールノンヴィユ指揮下に、ファマール宿営地に戦列歩兵3個大隊、志願兵7個大隊、砲兵250人の計7343人がディロン指揮下に、ポン=シュール=サンブル宿営地には戦列歩兵2個大隊、志願兵7個大隊、騎兵2個大隊、砲兵220人の計6719人がデュヴァル指揮下にいた。加えて予備から送り込まれた連盟兵17個大隊と志願兵8個大隊によってソワソンの宿営地の組織化も完了し、最後にヴェルダンとモンメディから海までの北方各地の要塞に4万6000人が分配されていた。
 北方軍の新たな司令官となったデュムリエは当時53歳だった。トゥーロンジョンによると、彼は周囲を正確に認識する能力はあったが予測はできず、才能のひらめきは見られたが成熟した能力を持っているわけではなかったという。政治が大きく変動している6ヶ月の間に、彼は計画者から大臣、王党派、立憲君主主義者、ジロンド派、ジャコバン派、共和主義者、将軍、勝利者、脱走者、そして追放者と目まぐるしくその役割を変えることになる。
 デュムリエがスダンに到着した時、北方軍主力はラファイエットの脱走で混乱し落胆し、また新たな司令官に対して強い偏見を持っていた。彼は戦場ではなく事務室で働いてきた将軍であり、ラファイエットを陰謀で破滅させたのだと非難されていた。29日に宿営地を回った彼を迎えた兵士たちの態度も冷たいものだったという。デュムリエ自身もこの部隊について「完全な混乱状態」と判断していた。そこで彼は毎日、できる限り長く宿営地を訪れ、兵たちに近づいてそのニーズを把握しようとした。そうした対応で兵の士気を高めた彼は、さらに規律も取り戻す努力を重ねた。
 その成果はすぐに表れ、31日にはウェステルマンが規律の再建について言及するようになった。軍は義務感と愛国心を取り戻した。デュムリエによれば騎兵は最良の連隊で形成されており、国民衛兵隊の各大隊も1年にわたる宿営、行軍、戦闘の結果として規律や練度を高めていた。大隊砲兵を除いて60門の大砲を数える砲兵も同様に見事に構成されていたという。
 またいつでも生じ得る敵の攻撃に備えた様々な対応も取られた。ヴォーの宿営地は1万1000人から1万2000人で確保するには広すぎると判断した彼は、ムーゾンにいたディロン指揮下の前衛部隊とともにバゼイユ(スダン南東)に後退し、ストネ対岸を猟兵1個大隊、ユサール1個大隊と軽騎兵1個連隊で占拠した。また連合軍に脅かされているヴェルダンには砲兵大佐ガルボー(臨時に少将の地位を与えられていた)の指揮下に第17歩兵連隊と国民衛兵大隊で構成する旅団を送りこんだ。また敵に近すぎたストネの倉庫は撤収させ、さらにポン=シュール=サンブルからはデュヴァル少将と歩兵6個大隊、擲弾兵3個中隊、第3竜騎兵連隊、パリ猟兵1個大隊を呼び寄せた。
 同じ8月28日時点でオーストリア=プロイセン連合軍は以下の場所を占拠していた。ブラウンシュヴァイク公はプロイセン軍主力(4万2000人)とともになおロンウィ南東に宿営しており、野戦用のパン窯がルクセンブルクを出発し、必要な量のパンが製造されるのを待っていた。ケーラー少将が率いる歩兵2個大隊、騎兵10個大隊、騎馬砲兵半個中隊の合わせて約3000人は、モーゼル左岸のルミシュにいた。オーストリア軍は2つのグループに分かれていた。クレルフェ将軍は1万4000人とともに引き続きロンウィ北西付近を離れていなかった。ルミシュから来たホーエンローエ=キルヒベルク将軍の1万5000人はロドマックに駐屯し、リュクネルが行い得る攻撃に対し主力軍の連絡線をカバーしていた。
 6000人のヘッセン部隊は28日朝にタヴァーンを発し、ロンウィへ向かった。ルイ16世の弟たちであるアルトワ伯とプロヴァンス伯が率いる8000人の亡命貴族部隊はルミシュ北方のスタットブレディミュに布陣しており、コンデ公の指揮するもう1つの亡命貴族部隊5000人はティオンヴィル正面にいた。低地諸国には、クレルフェの出発後もなおザクセン=テッシェン公が約3万4000人の兵を抱えており、うち1万4600人がモンスに、8220人がトゥルネーにいて、残りは各要塞に散らばっていた。

 スダンに到着したデュムリエが最初に考えていたのは、敵に接近してその渡河を邪魔するというものだったようだ。つまりムーズ(ヴェルダンを流れている)、エール(アルゴンヌ森の東に沿って流れている)、エーヌ(サント=ムヌーなどアルゴンヌ村の西を流れる)といった河川で、相次いで抵抗するのが彼の狙いだったと思われる。だがこの最初の計画はすぐ変更された。
 到着翌日、彼はセルヴァンに書いた手紙の中で、もしこの軍を後退させれば彼らはバラバラになってしまい、逆に敵に向かって前進すれば間違いなく打ち破られると書いている。侵攻してくる敵に対する防衛線は、敵を止めるどころかむしろ侵略を加速し、軍のリソースは完全に破壊されてしまうだろう、というのが彼の指摘だ。代わりに彼が提案したのはヴァランシエンヌにいた時と同じ、「敵を驚かしその連携を崩す大胆な一撃」、つまりブラバントへの進撃だった。
 もちろんアルデンヌ県をがら空きにするのは軽率に思えるが、「この戦力は幽霊のようなものにすぎず」敵が前進して来れば自滅してしまう、というのが彼の意見。メスのケレルマンを増援し、シャロンに戦力を集め、そして北方軍のベルギーでの成功を待つのが、現状で唯一の適切な手段であるとデュムリエは主張した。オーストリア軍はすぐベルギーへ取って返し、プロイセン軍はすぐに足を止める。もしマルヌへの前進を続けるなら、シャロンの部隊が敵を足止めしている間にケレルマンが彼らを破滅させるだろう。国民がパニックに陥ることなく、ローマ人がハンニバルを眼前にしながら軍をアフリカに送ったようにデュムリエをベルギーに前進させれば、それが「フランスの救出」につながると彼は強調した。
 デュムリエが率直な見解を述べているのか、それとも自身の計画(ベルギー政策)実行のため事態を大げさに伝えているのか、そのあたりの判断は難しいところだ。だが彼はこの計画を推し進めるべく29日にスダンで中将のディロン、シャゾ、少将のマネー、ミアチンスキー、ヴイリエ、デュブーケ、工兵大佐ラフィット=クラヴェ、参謀副官トゥヴノを交えた会議を開いた。誰もが防衛戦には多大な能力を必要とし、規律のよくない兵で成功するにはよほどうまく連携する必要がある点に同意した。敵前で退却をすれば軍は略奪やあらゆる不品行に走る恐れがあるため、戦況を変えるには攻勢に出る必要がある。
 でもどうやれば具体的に祖国を危機から救い出せるのか。北方軍をオーストリア領ネーデルラントに投入してブリュッセルに向かわせ、一方でリール、ドゥーエ、ヴァランシエンヌの守備隊からの騎兵と北方軍の志願兵の増援を受けたモールドの部隊をトゥルネーに西に移動させる。オーストリア軍はブラバントを守るため即座に同盟国を見捨て、一方でプロイセン軍は足を止めてフランスへの侵入を手控えるだろう。この手段によって戦争の惨禍を自国から隣国に移すことができるし、補給も賄える。逆に防衛戦を行なえば優勢な敵を相手に後退を強いられ、敵を背に負ったままパリまで連れてくることになるだろう。
 以上の議論を踏まえ、会議は満場一致でベルギー侵攻にフランス救出がかかっていると結論づけた。もし臨時行政会議がこの結論を支持しないのであれば、代わりに正確かつ明白な指示を寄こすよう求めることも議事録に書かれた。この議事録をパリに伝える役割はヴイリエ少将に委ねられた。一方デュムリエは外務大臣のルブリュンに対し、この結論ほど重要なものはないのでよく吟味してほしいとの手紙を記している。彼の「ベルギー政策」へのこだわりの強さには目を見張るものがある。
 このデュムリエの計画についてLa Manoeuvre de Valmyの筆者は少し考察を行っている。まず彼の見解をビューローが支持していると指摘。ただし成功のためにはケレルマンがティオンヴィルの包囲を解き、ルクセンブルク守備隊を牽制したうえで軍の大半でトリーアからコブレンツまで進むほか、キュスティーヌもマインツとフランクフルトを奪う必要があるとしている。こうした連絡線への恐れがあれば、プロイセン軍はシャンパーニュに入るどころかすぐに退却しただろうとの考えだ。
 確かにこれらの軍が想定通りに動き、北方軍が容易にベルギーを奪う可能性はあった。だがケレルマンやキュスティーヌの支援が事前に決まっていたわけではなく、デュムリエがセルヴァンへの手紙の中で主張したほど断定的にはなれない、と筆者は指摘している。ブラウンシュヴァイクが行軍を続ければ首都は危険に晒される。この疑問だけでもデュムリエの計画にとっては完全な障害となる。また単独で敵に抵抗できなくても、ケレルマンと合流できれば条件は改善する。退却が軍の士気に悪影響を及ぼすとしても、きちと説明すればその影響は軽減できるかもしれない。要するにデュムリエの主張は「反論不可能ではない」というのが筆者の見方だ。
 ベルギー侵攻という一見して魅力的な計画が合理的であるためには、プロイセン軍のパリへの進軍が止まることが確実である必要がある。だがそうした確実性はなく、一方で政治的にも軍事的にもプロイセンの進軍がもたらす影響は深刻であった。敵の進撃に対しては正面から対抗するのではなく側面から連絡線を叩く間接アプローチが「戦理にかなっている」という見解はあるのだが、敵の進軍が及ぼす影響が大きすぎる場合はそんなことは言ってられない、という主張だろう。
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