La Manoeuvre de Valmy(
Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée , p205-286)の続き。リュクネルの後任として中央軍の司令官になることが決まったケレルマンがメスに到着したのは、8月26日夕方だった。27日、陸軍大臣宛ての非公式の手紙において、彼はリュクネルについて悪い意図を持っているわけではなく、悪い助言者を排除したうえで3つの軍の総司令官generalissimoの称号を与えればいいのではないかと提案している。ただし総司令官といっても3軍の移動やその実行の連携についてのみ権限を持つ立場であり、実際には「祭り上げる」ことを提案したと見ていいだろう。また敵の動きに合わせ、メスの背後から右翼か左翼のどちらかへ動く必要があることも述べている。
同日付の公式の手紙では敵戦力を6万人と推測し、モンメディやヴェルダンが落とされれば防衛線に穴が開き敵がロレーヌとシャンパーニュへ移動する懸念があると記している。もはや時間を無駄に費やす局面ではなく、前進して必要なら会戦を行なうべきだというのがケレルマンの考えで、たとえ戦いに敗れても何もせず退却するよりはマシだとの見方を示している。また北方軍、中央軍、ライン方面軍の3軍が連携して互いに必要な援助を送ることも求めている。
28日、セルヴァンはこの案を承認し、中央軍は6000人から8000人の増援をライン方面軍から受け取ることになった。しかしケレルマンはすぐ中央軍の司令官になろうとはせず、派遣議員と彼はリュクネルの総司令官任命を待つことで合意した。セルヴァンはこの対応に不満をいだきながらもリュクネルとのやり取りをしばらく継続することになった。
28日、陸軍大臣はリュクネルに対し、ヴェルダンが攻囲を支えるために必要なあらゆる対応を取るよう、またモンティニー=レ=メス(フレスカティとメスの間)に遅滞なく半月堡の建設を始めるように命令した。翌日、リュクネルはロンウィの指揮官だったラヴェルニュを軍法会議にかけることにしたと伝えた。また敵がエテン(ティオンヴィルとヴェルダンの間)に現れたため、この町の近くのヴェルダン街道に歩兵4個大隊と騎兵5個大隊を送り出したこと、28日にオーストリア軍2万7000人がルミシュに到着したことなどを伝えた(オーストリア軍の数は過大評価されている)。彼はデュムリエやビロンと連携して動く前に連合軍の計画が明白になるのを待つつもりだった。
ルミシュのオーストリア軍とロンウィの連合軍が合流しそうだとの話は、セルヴァンにとってはむしろ歓迎だった。合流してしまえば移動はより厄介になり、食糧補給が困難になる。中央軍が北方軍と連携して敵の側面や背後を邪魔すれば、彼らの移動を遅らせるか、上手くすれば退却させることも可能だとセルヴァンは考えていたようだ。フランス軍の補給にすら苦労している状態なのだから、攻め込んできた連合軍の大軍はさらに厳しいはず、という理屈。セルヴァンのこの考えは、後々彼がデュムリエに求めた作戦計画と比較するととても興味深いのだが、その件はまた後で。
29日、セルヴァンはリュクネルに臨時行政会議の布告を伝え、彼を北方軍、中央軍、ライン方面軍の総司令官に任命した。彼は3軍の中心部であり、なおかつ国内の兵についても監督できるシャロン=シュール=マルヌ(シャロン=アン=シャンパーニュ)に移動することになった。またシャロンにはマルヌを守るための兵を集める予定で、その中核としてパリ国民衛兵隊6000人と、ソワソンを出発した歩兵6個大隊及び憲兵隊2800人をシャロンに送ること、加えてモーに集める3万人の宿営地もリュクネルの指揮下に置くことも知らされた。
8月31日、セルヴァンはリュクネルに総司令官への任命が確認されたと伝えた。だが同時に彼に与えられた権限は将軍たちに助言することだけであった。一応彼の下にはシャロンの兵の他にランスの6個連盟兵大隊、ソワソンの11個連盟兵大隊が加わり、中将や少将も配属されたが、実際にこの称号が彼に与えたのは慰みと、軍を指揮させないための手段にすぎなかった、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は冷酷に記している。
その前の8月20日、リュクネルはルミシュから来た敵がメスとティオンヴィルの連絡線を断ち、フォントワとリシュモンを占拠したと伝えてきた。それでも彼はフレスカティの陣地を離れようとしなかった。一方ケレルマンと一緒に行なった偵察で、彼はエタンを占拠している敵がおよそ2万人と推測している。そのケレルマンは同日、ロンウィを奪った敵に一緒に対処するようデュムリエに求め、またビロンには可能な限り早くメスに増援を送るよう要求している。
リュクネルはなお敵の動きを見極めたいとの理由でフレスカティから動こうとせず、ヴァランスが指揮する前衛部隊がメゾン・ルージュ(ウォワピー付近)で、デプレ=クラシエが指揮する別働隊がグラヴロット(メス西方)で主力部隊をカバーした。9月1日、リュクネルはようやく臨時行政会議による総司令官への任命を承諾し、翌日メスに到着したケレルマンが中央軍の指揮を執ることになった。これで開戦当初に3軍の指揮を執っていた司令官たちは、全員その職を去ったことになる。
8月10日事件の結果として生じた指揮権の移動によってデュムリエは8月18日に北方軍の司令官となったが、この政治的将軍が正式決定をのんびり待つことはなかった。14日、彼はほぼ命令と似たような「助言」をディロンに与えている。敵はトゥルネー正面を強化しており、またアントワン(トゥルネー南東)にも新たな宿営地を設置し、スヘルデ両岸からモールドを攻める準備をしている。だからディロンはモールドとモブージュに兵を集め、これらの地域を守るべきというのがデュムリエの見解だった。
モブージュの宿営地は1万人から1万2000人で守るのに対し、モールドはベルギーに攻め込むための出発地となる、というのがデュムリエの指摘。ポン=シュール=サンブルについては敵がバヴェを占拠した時にのみ防衛拠点とすればいいとの見解で、彼が相変わらずベルギー侵攻を想定していたことが分かる。また彼は特定個所にこだわる「位置取り戦争」的な考えを批判し、「兵を分ければあらゆる場所で弱くなってしまうから、全てのリソースをまとめるべき時だ」とも記している。助言の中には「もっと広い視野を持て」との文言もあり、実に上から目線感満載だ。
結論としてデュムリエが求めていたのは、ポン=シュール=サンブルの宿営地をすぐに撤収し、そこの兵をモールドに集め、ヴァランシエンヌより西のあらゆる国民衛兵もそこに招集し、ヴァランシエンヌより東の国民衛兵はモブージュに集める、という対策だった。また政治的配慮のため、この手紙の写しを議会と陸軍大臣にも送るよう助言している。彼自身もディロンへの手紙を陸軍大臣にも送り、事態が切迫しているため自身の経験に従って助言をしたと説明している。そしてアルデンヌからダンケルクに至る地域の指揮を執るのは1人の人間にとっては負荷が重いと主張し、北方軍の兵力は2つの独立した指揮官に分けるべきではないかと述べている。
彼が申し出たのは、ダンケルクからヴァランシエンヌまでの戦線を自分が指揮して攻勢に出る一方、ディロンにはル=ケノワからジヴェまでの範囲を任せて防御にとどまるという案だ。さらに彼はセルヴァンに対し、資金、オート麦、弾薬、装備、馬匹、兵の増援の必要性を説いたうえで、もしそうした要件が満たされれば、自分が戦争の状況を変え、敵を極めて危険な状況に追い込むことができると書いている。
18日、臨時行政会議によって北方軍の司令官に任命されるや、彼は議会に感謝と献身、そして国民の代表に対する服従の念を表明した。彼が取り組む最初の任務は、ラファイエットによってスダンで投獄された委員たちの解放であり、それから「専制に苦しむ国境地域」に対する侵攻計画を進めると言明。彼はここで「ハンニバルがまだローマの門前にいる時期に、ローマの人々は軍をアフリカへ移動させた」という印象的な言葉を残している。
後にヴァルミーの戦いでしばしば語られる「アルゴンヌの森はフランスのテルモピュライ」という台詞をデュムリエがいつ言ったのかについては
こちら でいくつか考察を述べている。
Manuel de l'histoire de France によれば、彼がこのフレーズに言及したのは、9月4日付の行政会議宛ての報告書内(p258)。この日はデュムリエがアルゴンヌの森にあるグラン=プレの隘路に布陣した当日なのだが、この話の妥当性については後でまた検討する。とりあえず彼が自らを古代ギリシャ人ではなく古代ローマ人に例えていたのは確かなようである。
閑話休題。デュムリエの要望に応じ、セルヴァンは彼に白紙委任状を与え、ダンケルクからモンメディまでの戦力を彼の望むように配置させるのを認めた。彼はついに自身が望んでいたベルギー政策を遂行する権限を手に入れた、ように見えたが実際はそうではなかった。ベルギー征服はオーストリアの王冠から最良の宝石を奪いようなものだと考えていた彼に対し、セルヴァンもベルギーへ攻め込む必要性には同意したものの、その前に連合軍がスダンや他のギャップからフランスに攻め込むのを防ぐ方がいいと考えていたのだ。だがデュムリエはこの見解には同意せず、20日の手紙では一刻の猶予もなく「激しい攻撃」を行なうべきだと主張している。ここからしばらくの期間、デュムリエとセルヴァンの間でどのような作戦を取るべきかの綱引きが繰り返されることになる。
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