La Manoeuvre de Valmy(
Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée , p205-286)の続き。1792年8月10日朝、パリ群衆がテュイルリー宮を襲撃した。蜂起側の勝利が明らかになると議会は王権の停止を宣言。この情報が前線部隊にどのように伝わったのかははっきりしないが、ラファイエットは8月12日に大臣に対して情報を求める手紙を記した。首都の混乱は「反革命派を助ける外国勢力」によるものというのが彼の見方で、実際にこの時期に8000人の部隊がベルギー内をルクセンブルク方面に向けサン=テュベールまで移動していたという。
だが実際に起きたのは反革命ではなく、むしろ革命を進める動きだった。ラファイエットは13日付の兵たちへの命令で、王権が停止されたことを伝えたうえで「憲法を守る」よう命じている。ただし彼が守れと言った憲法は立憲君主制を定めた1791年の憲法であり、実際に同日付のアルデンヌ県やスダン市への手紙では憲法を守るという自らの宣言を破ることはなく、どのような暴政に対しても屈することはないと告げている。さらに彼は部下に対し、国民・法・国王への忠誠を兵に誓わせるよう命じてもいる。つまり王権を停止した議会に対し、抵抗する姿勢を明らかにしたわけだ。
使われている用語だけ見るとどちらも革命に反する敵と対峙するようなレトリックを使用しているが、実際の構図は8月10日事件を支持する議会と、それに反対するラファイエットの両陣営に分かれれいたと見ていい。翌14日になると後者はさらに決定的な行動を取った。新政府を承認するよう議会から送られてきた委員たちを逮捕してしまったのだ。これに対し、スダン近くのドゥジーやヴォーにいた何人かの指揮官は彼への忠誠と献身を伝えた。北方軍左翼の指揮官であるディロンも、8月10日の出来事に対する抗議の姿勢を伝えている。
しかし議会の姿勢はより精力的かつ強硬だった。まずはアルデンヌとスダンの行政関係者に対し、逮捕された委員たちを解放する責任は彼ら個々人にあると宣言。公務員全員に対してラファイエットへの支援を禁じ、ラファイエット本人は自由に対する陰謀と国民に対する裏切りの罪で有罪であると宣言した。また8月10日事件に抗議したディロンについても、国家の信頼を失ったとしている。軍内でも相次いで議会側に就く動きが出た。ライン方面軍は議会の委員を歓迎し、ビロンは彼らを支持した。リュクネルも渋々ではあったが同意し、そしてデュムリエはモールド宿営地の兵たちにラファイエットが求めた誓約をさせるのを拒絶した。
15日、ラファイエットはスダン近くで閲兵を行ない彼らに誓約をさせようとしたが、兵たちは不満を述べた。隊列から進み出た1人の大尉は、ラファイエットに対し「我らの誓いに入ってくる名前は自由、平等、そして国民議会だけです」と述べた。17日、臨時行政会議はラファイエットに対し、北方軍の指揮権をデュムリエに渡したうえですぐパリに戻り自らの行為を説明するよう求めた。19日、議会から非難されたラファイエットは国境を越えて逃亡し、オーストリア軍に捕らえられた。
アメリカ独立戦争からフランス革命初期まで大活躍を見せたラファイエットは、ここで歴史の表舞台からしばらく姿を消すことになった。これで革命戦争開始時にフランス国境を守っていた3人の司令官のうち、4ヶ月もしないうちに2人(ロシャンボーとラファイエット)が姿を消したことになる。もう1人のリュクネルも、これから見るようにすぐにその地位が揺らぎ始める。代わってスポットライトの当たるポジションへと出てきたのがデュムリエ。ほんの2ヶ月ちょっと前に大臣の座を追われた彼が、今度は最前線で自らのベルギー政策を追求する機会を再び得たことになる。
リュクネルが中央軍の指揮官としてロンジュヴィユ=レ=メス(モーゼル左岸)に司令部を置いたのは7月26日のことだった。プロイセン軍がモーゼル沿いに行軍を始めたと知らされた彼は、ブラウンシュヴァイク公がロンウィとティオンヴィルの間でフランスに侵攻すると判断し、8月4日にオルヌとモーゼルの合流点に近いリシュモン(メスとティオンヴィルの中間)まで前進した。デプレ=クラシエ少将が率いる前衛部隊はフォントワ(ティオンヴィル西方)を占拠し、ヴァランス少将指揮下の予備はメスにとどまった。中央軍の戦力は歩兵12個大隊(9180人)、騎兵27個大隊(4400騎)だった。
中央軍の大半は各地の拠点に守備隊として分散していた。ティオンヴィルには歩兵5個大隊と騎兵5個大隊、メスには歩兵10個大隊と騎兵6個大隊、ロンウィには歩兵3個大隊、ザールルイには歩兵6個大隊と騎兵3個大隊、ロンギュヨンには歩兵2個大隊、ビッチュにも歩兵2個大隊と、計2万人近くがいたことになる。リュクネルとラファイエットが、連合軍の侵攻に対抗すべく合流して単一の集団になることはなかった。
リュクネルは敵の数が多かったことには気づいていたようだ。16日には大蔵大臣のクラヴィエールがリュクネルの参謀長であったベルティエに対し、各拠点に残されている常備兵の数が多すぎるのではないかと指摘している。18日には北方軍の指揮権がラファイエットからデュムリエに移行したことが知らされ、後者はリュクネルに対してこれまでの不和について忘れ互いに協力することを要請した。
19日、リュクネルはオーメスの交戦について大臣に報告した。20日の報告では連合軍が大軍でロンウィ正面に現れてその連絡線を遮断し、ロドマック(ティオンヴィル北東)の宿営地からティオンヴィルを脅かしていること、敵がフォントワの前衛部隊を攻撃した場合、その救出が可能とは思えないことなどを告げている。ラファイエットの後にスダン付近の北方軍指揮を引き継いだアンジェ少将が19日の手紙でリュクネルに支援を懇願していたが、リュクネル自身はそれどころではなくメスへ退却を強いられかねないとしていた。21日の手紙ではロンウィ近くには少なくとも6万人、ロドマックには1万6000人の敵がおり、またかなりのオーストリア軍部隊がザールブリュッケンとツヴァイブリュッケンからビッチュへと前進していることも知らせてきている。
事態を悲観していたリュクネルの下には、その後も悪いニュースが続いた。21日、前衛部隊の指揮官だったジャリー少将と、第3ユサール連隊のクロワシー大佐が敵に寝返った。王権の停止に抗議したスイス連隊は、ビッチュからトゥールへ向かわせようとしたリュクネルの命令を拒否した。2日後、ロンウィの降伏が知らされた。リュクネルにとっては信じられない知らせだったようだが、彼は24日にフォントワとリシュモンの宿営地を撤収し、メスでモーゼルを渡るとフレスカティ(メス南西)に新たに宿営した。
25日、陸軍大臣のセルヴァンからいくらかの増援を送るとの知らせが届いた。彼は中央軍の行動には口出しをせず、敵の計画について知っていることを伝えるのが自らの義務だと述べた。連合軍はフランス軍を鍛えるような小競り合いは避けているので、むしろ自分たちは積極的に小競り合いを行なうべきであること、ただし本格的な会戦は行ってはならないこと、敵にはできるだけ攻囲をさせて時間を浪費させるべきであること、そして北方軍司令官(デュムリエ)と密接に連絡を取ることをセルヴァンは求めていた。
同日付の別の手紙でセルヴァンは、可能な限り侵略者の前進を遅らせ、敵が前進を続けるならその連絡線を遮断するようリュクネルに助言している。さらに26日付の手紙では、敵がヴェルダンに進んでいるのならメス西方の高地にたどり着き、敵の行軍に接近してその輸送部隊を邪魔すべきであり、もし逆に敵がティオンヴィルへと向かっているなら、常に敵との間にモーゼル河をはさんでおきつつも、この地に接近して敵の作戦を妨げるべきだとも述べている。にもかかわらず、彼はフレスカティから動こうとしなかった。
しかしこの無為や消極性とは異なる理由で、リュクネルの地位は危うくなっていた。1791年の憲法とラファイエットを信奉していたベルティエの影響もあり、リュクネルはそれ以前から政治的に疑われるような言動を行なっていた。ライン方面軍参謀長だったヴィクトール=ド=ブローリーの解任と参謀たちの追放を批判し、ストラスブール指揮官で政府から疑われていたラ=モリエール少将をかばうことで、彼は自らを危険に晒していた。だが全フランスが8月10日事件の結果を受け入れたのを見て、彼は慌ててジャコバン派的な言い回しを使うようになった。この対応は軍に派遣された議員を騙すことはできたが、彼がその地位から追い出されるのを止めることはできなかった。
22日、セルヴァンはライン方面軍の中将でヴィサンブールにいたケレルマンに対し、彼に中央軍の指揮を委ねると伝えた。翌日、セルヴァンはケレルマンが着任するやすぐにリュクネルを解任するよう派遣議員に伝えた。議員たちは反発したが、セルヴァンは既に22日時点でリュクネルが信用できない人物であり、ラファイエットとも親しかったから解任すると議会に伝えていた。解任の対象にはディロンも含まれていた。当初は8月10日事件を批判していた彼も21日には手のひらを返して「国民と法」への忠誠を宣言していたが、王権停止後の急速に雲行きが変わるパリの政治情勢下ではその対応は遅すぎた。
かくてブラウンシュヴァイクの宣言は国王をその地位から叩き落とすのに大いに貢献しただけでなく、立憲君主制を支持していた政治家や軍人まで巻き添えにし、そして最終的には恐怖政治に至る道筋を作り上げたことになる。
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