ヴァルミーまで 5

 La Manoeuvre de Valmy(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p205-286)の続き。連合軍がアルデンヌからシャンパーニュへ向けて動き出そうとする直前の時期に、パリでは陸軍大臣がラジャールからダバンクールに交代した(7月23日)。彼はディロンが開いた会議の議事録を受け取り、ディロン同様にフランドル方面の敵の動きを懸念した。26日にはラファイエットに対し、モンメディからディロンに対していくらかの増援を送れないかと問い合わせているほどだ。当時のフランス政府が連合軍の方針(フランドルではなくアルデンヌで攻勢に出る)をきちんと理解できていなかった可能性を示している。
 一方デュムリエは、フランドル方面が増援されても彼自身がリュクネルによってメスへと呼び出されてしまう可能性があると判断。7月27日と29日には陸軍大臣に対し、「自分は今いる場所(ヴァランシエンヌ)でこそ役に立つ」とアピールしている。彼の懸念は的中しており、リュクネルは28日付のデュムリエへの手紙で、8月2日には移動を始め、中央軍第2師団をファマール宿営地からメスへと連れてくるよう公式に命じた。もし従わないのならブールノンヴィユ将軍が第2師団を指揮し、彼に対して命令を送るとも述べた。
 デュムリエは30日にこの件をディロンに知らせた。ディロンはヴァランシエンヌで開いた会議の議事録を国王と国民議会の12人委員会に伝えたため、そちらで採用された策以外には従わないと言明。またデュムリエ自身は31日に国王と陸軍大臣に対し、リュクネルの手紙の厳しさを伝え、おそらくはリュクネルの参謀長であるベルティエの仕業だとチクった。さらにリュクネルに対しては国王の命令をヴァランシエンヌで待つこと、ブールノンヴィユに関する命令についてはディロンの判断が必要であること、そして命令を実行しないことは決して不服従ではないことを伝えた。
 両者の口論を収めようと陸軍大臣が乗り出してきた。彼は23日にヴァランシエンヌで開かれた会議についてリュクネルに知らせ、国王の評議会と議会とが北方の戦力は不十分であると認識している点も伝えた。そしてモールド宿営地などの兵力はそこにとどめ、またライン方面軍第2師団をラファイエットの指揮下に移すことも知らせてきた。ところがラファイエットはこれ以上デュムリエを自分の軍に置くつもりはないと公式に宣言。30日にディロンに対して送った手紙で、リュクネル軍に所属する将官はメスに送り戻すよう、またデュムリエにも出立するよう命じた。
 その後もラファイエットは8月2日、4日と相次いでデュムリエに自軍での指揮を執らせないつもりだと陸軍大臣に伝えた。大臣は7日、デュムリエは北方に残すが、ディロンの直接指揮下に入れるという国王の意図を伝えた。大臣は「迷惑かもしれないがより多くの不便を避けるために我慢してくれ」と述べつつ、この妥協策でラファイエットを納得させようとしたが、後者は8日、デュムリエの存在と、ディロンへ直接命令を出して彼にダンケルクとモブージュ間の権限を委ねることに対して、再び抗議した。
 まさに連合軍の侵攻が始まったこの時期に、北方軍や中央軍だけでなくパリ中央まで巻き込んだトラブルを引き起こした原因であるデュムリエは、モールド宿営地から動かず事態の好転を待つ姿勢を続けていた。彼は大臣に対する5日の手紙で、自分がまるで物のように軍の司令官に所属させられていることに不満を述べ、「これは再生した国民にふさわしくない、まるで退廃したローマ軍のようだ」と述べている。確かにリュクネルとラファイエットが軍の「入れ替え」を行なった後であれば、こうした軍事力の私物化批判はそれなりに効果があったと思われる。さらにデュムリエは自分をラファイエットらの下に置く対応策は「継続不能であり、状況のせいで、もしくは国民議会の洞察力によって、いずれ破壊されるだろう」と、まるで未来を予知したかのような言葉も述べている。
 フランス軍首脳部がこうやって内紛に明け暮れている間、バヴェを奪っていたオーストリア軍は7月28日にはそこを撤収していた。デュムリエはすぐにディロンに対し、利用可能な歩兵45個大隊、騎兵20個大隊をかき集め、ベルギーに攻め込むべきだと提案した。だがフランドル方面が危険であるという点でデュムリエに同意したディロンもこの考えには反対し、自分は防衛戦争のみを行なうつもりであること、ベルギー侵攻は「荒唐無稽で狂気」だと述べた。
 7月30日にバヴェで開かれた会議では、この拠点を放棄し、より守りやすいベルレモンに宿営地を築くことで合意がなされた。陸軍省にそう伝えたディロンは31日にはベルレモンに歩兵5個大隊で移動した。この時点でラファイエットの北方軍主力はロンウィと周辺に、ディロンの率いる同軍左翼はモールド、モブージュ、ベルレモン宿営地と、ランドルシー、ル=ケノワ、アヴェーヌの守備隊で構成されていた。だがベルレモンの宿営地は防御するには広すぎたため、数日後にディロンは歩兵10個大隊、騎兵2個大隊でポン=シュール=サンブルに宿営地を移した。
 この時期のデュムリエは上官との内部争いだけをやっていたのではなく、兵を鍛えようともしていた。8月3日から4日にかけての夜間にはモーブレー=ブレアリー(モールドの北)で小競り合いを行なったが、これは失敗に終わったようだ。ディロンは8月4日の陸軍大臣への手紙で引き続き増援を求め、大臣はそれに対し「自分のいるところを救うのではなくフランスを救うのが真の愛国心だ」と諫めているが、一方でラファイエットに対してはフランドル方面のオーストリア軍に注意を振り向けるよう伝えている。
 7月26日、陸軍大臣は既にラファイエットに対し、司令官が部下たちから遠く離れていることに対して遺憾の意を表明している。これに対しロンウィのラファイエットは29日、個人的利害だけを考えるならダンケルクからジヴェまでの防衛に集中しているだろうが、ブラウンシュヴァイク公指揮下の連合軍がおそらくアルデンヌ方面から侵攻しようとしている時には、利害よりも自分の熱情に従うつもりだと言明。またモンメディまで防衛線を延ばしてほしいとのリュクネルの要望も断れないとしている。
 つまりラファイエットもリュクネルも、フランドルは思われているほど危険な状態にはないという認識を持っていたわけだ。たとえオーストリア軍が北部国境にいくらかちょっかいを出すとしても、彼らの軍勢をモンメディとロンウィに集める方がより重要だという判断である。この判断は、前回紹介した連合軍のその後の動きを見ても正しい。そのうえでラファイエットは自らが担当する戦域の左翼をどこにするか決めてくれと大臣に要請を出した。
 この時期、ラファイエットは自軍をマルヴィユ(モンメディ南東)近くのヴィレ=ル=ロン宿営地にとどめていたが、天候が悪化したため部隊を東はロンギュヨンから西はムーズ河畔までのいくつかの宿営地に分散させた(p257-258)。
 その間も大臣とラファイエットの押し問答は続いた。大臣は7月27日、30日、8月1日と、北部国境に関する心配やフランス軍の分散配置への懸念を伝え、またモールドにとどまっている第2師団の穴埋めとしてリュクネルに対して北方軍から5000人を提供するよう命じている。ラファイエットは歩兵6個大隊と騎兵2個連隊を中央軍に送り、彼らは8月4日にメスに到着した。一方でラファイエットはその分をすぐ後でディロンの軍勢で補充することになっていた。
 ラファイエットは4日付の大臣への手紙で、単なる敵の偵察部隊が来ただけで大騒ぎしていることに抗議し、改めて自分が担当すべき指揮範囲を連絡するよう求めている。指揮権の端はどこになるのか、どの将官が自分の部下であり、手元にある兵以外にどの兵が自分の指揮下に入るのか、どの宿営地に駐屯すべきなのか……。詰問調の文章を見ても、両者の関係がかなり悪化していたのではないかと思いたくなるところだ。
 ラファイエットは手元にある軍勢をカリニャン(スダンとモンメディの間)の背後に集めようとしたが、収穫を妨げる可能性を考えて場所をさらに北西に移した。8月5日に行われたこの移動に際し、部隊は4つの師団にまとめられた。ルヴヌール中将の第1師団は同日、スダンの宿営地に移動した。パリ少将の第2師団は5日にイノール(カリニャン南方)に、6日にスダンに移動、モーブール少将の第3師団は5日にモンメディ西方、6日にイノールへ、そしてラルマン少将の第4師団は5日にヴィリとラ=フォルテ=シュール=シエール間、6日にスダン東方へ移動した。
 歩兵と大砲6門で構成された軽兵はラルマン少将の指揮下でムニョン(ムニョ)、サント=セシル、シニー、ジャモワーニュ(いずれもベルギー領内の町)へと送り出され、スモワ右岸へとオーストリアのユサールを追い払う役を与えられた。7日、陸軍大臣はようやくラファイエットの要請に応じ、モンメディを彼の軍の右翼に設定した。敵がジヴェに攻撃を仕掛けない限り、常にリュクネルの左翼を支援するよう、陸軍大臣は彼に命じた。ようやく担当区域が固まったことにより、この方面の防衛責任はラファイエットの肩にかかるようになった。
 ところがラファイエットは敵軍の動きのみに関心を集中できる状況にはなかった。パリには彼の政敵がおり、彼を破滅させるための陰謀を巡らせていたそうだ。だが彼を真に窮地に追いやったのは国内の政敵ではなく、パリを灰燼に帰すと宣言したブラウンシュヴァイク公の脅迫だった。この宣言はパリの政局を一変させ、ひいては民衆暴動を引き起こした。王権を停止させるに至ったフランス革命上の大事件、8月10日事件である。
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