ヴァルミーまで 4

 La Manoeuvre de Valmy(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p205-286)の続き。7月18日にオーストリア軍がバヴェを奪った後で、デュムリエは2通目の手紙を議会に宛てて記している。陸軍大臣をすっ飛ばして議会に直接訴えるあたり実に政治的な行動だ。彼は同封した覚書で、バヴェから南西のル=ケノワを通じたルート、もしくはル=カトーからオワーズ峡谷沿いに侵攻が行われる可能性を指摘。そのうえで議会と執政府が即座に取るべき行動まで言及している。
 まずは北方にいる中将に白紙委任状を与えること。遠方にいるラファイエットの返答を待っていたのでは危機に対処できないという理屈だ。次にリュクネルと合流するため出発するよう命じられていた歩兵6個大隊、騎兵5個大隊を現在地にとどめ、別の方法でリュクネルに兵力を与えること、またカンブレーとル=カトー=カンブレシに少将が率いる12~15個歩兵大隊を送って敵の進入路を塞ぎ、さらには北方の軍が守備隊以外に3万6000人の兵力を保持できるよう必要な資金を投入することも求めている。
 もちろんこの要求は議会で激論と騒動を呼んだ。その中には首都に危険が迫りつつあることを恐れた声があった一方、デュムリエの敵であった立憲主義者やフイヤン派はこの厚かましい要求にうんざりしたのか、この件は議会ではなく陸軍大臣に持っていくべきだと宣言せよと主張した。後にナポレオンの下でフランス貴族となったマテュー・デュマや、陸軍大臣となったラクエなども、デュムリエの命令拒否についてどうするかは執政府で判断すべきだと言ったそうだ。だがデュモラールやセルといった議員たちは議論の焦点を北方軍や中央軍の異常な行軍、及び北方に迫っている危機へと逸らすことに成功。結局、デュムリエの計画に対し議会は賛成も反対も示さないままとなった。
 一方、明確にデュムリエを批判したのは北方軍と中央軍の司令部だった。オルシが占拠された時にはデュムリエの対応に満足したラファイエットは、18日にデュムリエが出した命令を知ると部下として許される範囲を逸脱した行為だと判断。さらにカルレがデュムリエの要請に応じてヴァランシエンヌとモールドに増援を送ったと知るとその不満は一段と増した。同僚から状況を聞いたリュクネルもデュムリエの不服従について陸軍大臣に不満を述べ、既にシャゾ将軍が歩兵8個大隊とともにヴァランシエンヌに到着しているのだから、彼はメスへ向かうよう大臣から命令を出すことを要望した。だが陸軍大臣ラジャールは20日に曖昧な返答を書いて寄こしただけで、自ら介入しようとはしなかった。
 おまけにデュムリエには新たな味方も登場した。ラファイエットの指揮下でジヴェからダンケルクまで展開している北方軍左翼の指揮を執るよう命じられたアーサー・ディロンがそうだ。途上で拾った歩兵4~5個大隊とともに21日にヴァランシエンヌに到着した彼は、即座にデュムリエに同意し、陸軍大臣への手紙でデュムリエが述べているように国境のこの地域が混乱状態にあると指摘した。リュクネルやラファイエットがエリート部隊を連れて行ってしまい、資金は足りず、武器庫はほぼ空である、というのが彼の主張だった。
 加えてディロンは、今後はラファイエットを通さずに直接大臣と書簡をやり取りすることが重要だと述べていた。おそらくデュムリエの入れ知恵だろうとLa Manoeuvre de Valmyの著者は書いている。さらに7月23日には将官と工兵及び砲兵指揮官、幕僚たちを集めた会議を開き、そこで軍の状態やリソース、必要性についてまとめるつもりだとも伝えた。実際のところ、この会議の目的は多くの人間に責任を分散させることにあったようだ。
 実際、23日にはディロンが議長となってヴァランシエンヌで会議が開催された。ざっと状況を説明した後でディロンはデュムリエに話を振り、後者はリュクネル出発後の情勢と彼が受けた命令、その後に起きた事態やそれへの対応策を説明。モールド宿営地のブールノンヴィユの情報によると敵はこの方面に2万5000人を展開しており、1万人がトゥルネー近くの宿営地にいるほか、5000人がそこの守備隊を形成し、さらに5000人がペリュヴェル(モールド東方)からオレン(同北方)に展開し、5000人がビュリー(ペリュヴェル北方)からヴィエ(同西方)にいたという。またモブージュ宿営地にいるラ=ヌエの情報として、ペリュヴェルからバンシュ(モンスとシャルルロワ間)にも少なくとも2万人がとどまっており、北方軍左翼が対峙している敵は計4万5000人と推計されていたそうで、うち3万5000人は攻撃に出てくる可能性があった。
 ブールノンヴィユもデュムリエの議論を支持し、モールド宿営地の危険を過大に伝えた。会議ではこの状況下でファマール宿営地の兵をリュクネルと合流させるべきかが議題となったが、彼は軍を弱体化させるこの部隊の出発には反対した。ディロンも、リュクネルは1万4000人の実働戦力を自分の下に残すと告げていたが、実際にはそれだけの戦力はなく、あらゆる増援の到着後でも1万2000人にしかならないうえに、うち2000人はモールド宿営地に配置する必要があると指摘。集まっている兵力は不十分であり、デュムリエの部隊を残さなければならないあらゆる理由があると結論づけた。
 会議は即座にこの議題を通し、全員一致でディロン将軍の見解に同意した。マリュがまとめた議事録は4つの写しが作られ、26日に陸軍大臣、議会、リュクネル元帥、ラファイエット将軍の下へそれぞれ贈られた。デュムリエはディロンの支援、及び会議の決定という形で、自らの主張を通すための形式を整えることに成功した。
 それにしてもここまでの動きを見る限り、デュムリエの政治的嗅覚は見事という他ない。もちろん直前までパリの政治状況を肌身で感じていた分、開戦以降ずっと北方の戦線に張り付いていたリュクネルやラファイエットより風向きを把握しやすかったのは間違いないだろうが、それにしても上官の命令を無視してかなり勝手に動いても問題ないと見極め、さらには自分を支持する関係者を軍内で作り上げていったその手腕は大したものだ。議会と対立していたラファイエット、生粋の軍人で政治的な立ち回りが得意とは思えないリュクネルに比べるとその差は歴然としている。
 おそらくデュムリエはこの時点でまだパリに支持者がいたのだと思う。この後で外務大臣になったルブリュンもそうだろうし、議会内ではデュモラールやセルあたりも彼と歩調を合わせていたのかもしれない。パリに独自の情報網を持っていた可能性すらあり、ブラウンシュヴァイク公の宣言が伝わった後のパリ情勢がどうなっているかも知っていたのかもしれない。いずれにせよこの時点での彼の立ち回りは実に巧妙だった。

 今後の作戦を巡ってデュムリエとリュクネル・ラファイエットが最前線で対立を続けているちょうどこの頃、ようやく準備が整った連合軍が動き始めた。ホーエンローエ公が指揮する前衛部隊は7月29日、トリーアに向けて動き始め、主力も30日に続いた。アイフェル高地(ドイツ西部からベルギー東部)の険しい地形を、プロイセン軍は非常に几帳面に通行したようで、La Manoeuvre de Valmyの筆者は「敵から遠く離れていたことを踏まえるなら不要な用心だった」と指摘している。ブラウンシュヴァイク公がトリーアに到着したのは8月5日になってからで、前衛部隊はタヴァーン(トリーア南西)に布陣した。
 6日、彼らはコンツとペリンゲンの間(トリーア南方)に宿営し、兵たちを休ませ補給を行い、さらには自分たちの接近がフランスに及ぼす影響を知るため、そこに6日間とどまった。13日、プロイセン軍はモンフォール(モンドルフ? ルクセンブルクとフランス国境の町)に布陣したが、そこで再び18日まで足を止めた。まるで散歩のようにパリへと向かっていた軍が、軽視している相手から4~5日行程も離れている場所で防衛陣地を敷くのは驚くべきことだと言われている。
 プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルムが8月10日事件について知ったのは、この宿営地にいた時だったという。彼の周りを取り囲む亡命貴族たちは、王政廃止によってフランスでは全面的な非難が起きており、反革命があらゆる場所で起こり、フランス軍を名乗る群衆は戦うことなく逃げるであろうとプロイセン王に確信させた。かくして彼は遅滞なくパリへと行軍する必要があると宣言し、また憤慨した軍も、姿を見せた敵は捕虜を取らず全員殺すと誓ったという。
 19日~20日かけてやっと40リューだけ進んだプロイセン軍はフランス国境を越え、ティエルスレ(ロンウィ南東)近くに宿営した。前衛部隊はクリュヌへ向かい、オメス付近でドプレ=クラシエ将軍が指揮するリュクネルの分遣隊、歩兵2個中隊及び騎兵5個大隊を相手に戦って勝利した。同日、ブラウンシュヴァイク公は右翼側でクレルフェと接触した。アルロンから来た後者の縦隊の先頭はメサンシー(アルロンとロンウィ間)及びクレメンシー(メサンシー東方)に到着した。
 連合軍左翼を率いたホーエンローエ=キルヒベルクの部隊は8月2日に移動を始め、ランダウに対する攻撃に失敗した後で西へ向かった。彼らは3つの縦隊に分かれ、19日にはイリンゲン、ノインキルヒェン、ホンブルク(ザールブリュッケン北から北東)に到達。そして26日にはルミシュ(ドイツとルクセンブルク国境の町)までたどり着いた。一方、ブラウンシュヴァイク公は20日にロンウィ南方にあるキュトリー、ムクシーに向かい、ロンウィを包囲した。前衛部隊はティオンヴィル方面のフランス軍と対峙するためヴィレ=ラ=モンターニュを占拠。クレルフェはロンウィ西方のコヌ=エ=ロマンまで到着し、右翼はルクシーまで延伸してプロイセン軍と手をつないだ。周りを囲まれたロンウィは、短時間の砲撃を受けた後、23日に降伏して門を開いた。
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