ヴァルミーまで 3

 La Manoeuvre de Valmy(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p205-286)の続き。デュムリエの失脚によって戦争方針が不明確になったフランス軍内では、陸軍大臣の要請を受け7月上旬にヴァランシエンヌで北方軍司令官リュクネルと中央軍司令官ラファイエットが顔を合わせた。彼らはフランドル方面の連合軍は弱体で、守備隊と監視部隊を置いておけば十分だという点で合意。むしろ主力はライン中流域とムーズ方面に差し向ける方が適切だと考えた。この時点で連合軍がこの方面に兵力を向けるであろうことをフランス側も既に把握していたことが分かる。
 問題はこの後。リュクネルはメス付近に集めた戦力を指揮してロレーヌとアルザスを守り、ラファイエットはリュクネルの指揮下に入り、モンメディに司令部を置いてそこからダンケルクまでの守備を担当することになった。つまりリュクネルが中央軍とライン方面軍の、ラファイエットが北方軍の指揮を執ることになったのである。となればヴァランシエンヌにいる北方軍主力がモンメディへ、モブージュにいる中央軍主力がメスへと移動するのが理の当然であったが、両司令官はその理に反する行動を取った。
 リュクネルも、そして特にラファイエットも、彼ら自身に対して忠誠を誓っている人材を手放したくなかったのだ、とこの文章は指摘している。あらゆる状況下で自分に献身してくれる人材を周囲に確保するのは、流動性の激しい革命時代においては必要なことだと思われていたのだろう。このため彼らは単純に指揮する軍を交換するのではなく、自分が今指揮している兵を新たな戦場にまで連れて行くことにした。ラファイエットは後に、この移動にかかる手間は「僅か2日行軍の違い」でしかなく、単純に軍を交換した後で指揮権を再編しようとするともっと時間がかかるだろうと言い訳をしている。
 この2つの軍のchassé-croisé(クロスオーバー)は、国王の評議会に承認され、7月12日に実行されることとなった。モールド宿営地にブールノンヴィユ指揮下の歩兵5個大隊と騎兵2個大隊、ファマール宿営地にデュムリエ指揮下の歩兵6個大隊と騎兵2個大隊、そしてモブージュ宿営地にラ=ヌエ将軍指揮下の歩兵8個大隊と騎兵7個大隊を側衛部隊として残し、リュクネルはファマールからランドルシーを経由してメスまで歩兵17個大隊、騎兵20個大隊とともに移動する。一方、ラファイエットは彼らの側面機動部隊として歩兵20個大隊と騎兵29個大隊でラ=カペル(モブージュ南方)からモンメディとロンウィに移動することになった。
 指揮権を交換するだけでなく軍まで連れて行くこの行動は、同時代においても議会に対抗しようとしているラファイエットの政治的な考慮に基づいた機動だと思われていたようだ。ただし、クロスオーバーという言葉から想像されるような、両軍が反対の方向へ動くようなものではない。リュクネルが西から東へ、ヴァランシエンヌからメスまでもおよそ265キロを移動している間、ラファイエットはその北側を平行して西から東へ、ラ=カペルからモンメディ周辺まで約135キロほど移動するものだった。確かにリュクネルの移動が無駄に長くなってはいるが、いずれにせよ連合軍に対処しようとするのなら軍を大きく東に動かさなければならなかったのは確かだろう。そして実際、この時に東へ動かした両軍が、ヴァルミー戦役で連合軍の行く手を遮る機能を果たしている。

 リュクネルは7月24日にメスに、ラファイエットはその2日前の22日にモンメディに到着する予定となっていた。ファマール宿営地に残ったデュムリエの部隊は、シャゾ将軍が指揮するラファイエットの軍勢5000人と交代した後で、20日にメスに向けて出発する。リュクネルはこの命令に加え、デュムリエに対し7月12日から20日の間に「何かが起きた場合、ラファイエットに報告して彼から命令を受けるように」と伝えていた。
 だが野心家のデュムリエが大人しく従うわけもなかった。閣僚の座を追われて1ヶ月ほどしか経過していなかったが、彼は自身の「ベルギー政策」をまったく諦めていなかった。加えて、この大掛かりな東方への移動により、北方軍の拠点が弱体化していたのは確かだった。リュクネルの出発後に残された戦力は2万5000人しかなく、それもモブージュからダンケルクまで分散していた。拠点に守備隊を配置すると、野戦に使える戦力は1万人を超える程度だったという。一方、オーストリア軍の戦力は4万2700人に達しており、守備隊を除いてもその数は3万3200人だった(Oesterreich im Kriege gegen die Franzoesische Revolution 1792, p88-90)。
 このような不利な状況にあった中、7月15日にデュムリエは、およそ5000人から6000人の敵が夜明けにオルシの町(ヴァランシエンヌ北西)を奪ったとの報告を受けた。この町は第74連隊の兵站中隊とソンム志願兵大隊、40騎の竜騎兵、3門の大砲で守られていたが、この弱体な守備隊では持ちこたえることはできず、彼らはやがてモールドへ退却した。デュムリエは即座にファマールを発し、ブールノンヴィユにはモールドからリュメジーへと行軍して敵の退路を断つよう命じた。ドゥーエの指揮官だったド=マラセ将軍も自らの判断で800人の兵を連れてオルシへ向かった。多くのフランス軍に囲まれそうになった連合軍は急いでトゥルネーへと引き上げた。
 既にオルシ以外でもリールからダンケルクにかけての地域で似たような攻撃はあった。これらがより本格的な攻撃の前触れだとした場合、そのタイミングでデュムリエがファマールを発してメスへと向かうのは望ましくない。加えてリュクネルやラファイエットの下風に立ちたいとは思っていなかったデュムリエは、この状況を自らのベルギー政策再開に役立てようと考えた。16日以降、彼は国王や議会に対し、オーストリア軍がモールド宿営地を脅かしている中、自分の率いる小さな軍がフランドル方面を守る唯一の防衛手段であると訴え始めた。
 18日、彼はラファイエットから独立した指揮権を手に入れようとさらに国王に手紙を書いた。彼はまず大臣まで務めた自分がリュクネルの軍の3番手から4番手扱いされていることに不満を述べ、また遠方のムーズやモーゼル近くにいるラファイエットが北方軍の指揮を執るのは難しいと指摘。北方軍の指揮を任された将軍は誰であれ、白紙委任状を持って行動すべきだと説いた。要するに彼はヴァランシエンヌ付近の北方軍の指揮権を自分に譲れと言いたかったようだ。だが実際にこの方面はラファイエットが任命したアーサー・ディロン将軍が指揮することになっていた。
 同じ18日には夜のうちにオーストリア軍がバヴェ(モブージュ西方)を奪い、ヴァランシエンヌとモブージュの間の連絡を遮断した。この地域に展開しているフランス軍拠点を分断するような行動であり、かつ北方軍と中央軍の連絡線を危険に晒すものだった。連合軍側のこの動きを知ったモブージュ宿営地の指揮官ラ=ヌエ将軍は、ラファイエットの命令で20日にはモブージュ守備隊をファマールへ移動させることになっていたが、この危険な行動を延期した方がいいとデュムリエに報告している。
 この報告がデュムリエに最後の決断をさせたのではないか、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は推測している。彼はリュクネルの命令に従うどころかそれに反することを決断し、モールド、ファマール、モブージュ宿営地の兵を動かさず、ダンケルクの指揮を執っているカルレ将軍に対しては歩兵4個大隊と騎兵2個大隊を増援として送るよう要請した。またピカルディとアルトワの守備隊4~5個大隊も増援として引き抜くよう命令を発している。合わせて歩兵24個大隊、騎兵16個大隊の小規模な部隊(1万4000人から1万5000人)をヴァランシエンヌ付近に集め、敵の前進を止めようというのが彼の狙いだった。
 彼は自分の行動についてリュクネルとラファイエットに報告を記し、その際に「もし自分が歩兵6個大隊と騎兵5個大隊を連れて去った場合」、この方面の指揮を執るためにやってくるディロンには歩兵7000人と騎兵300騎しか残らず、それで2万5000人から3万人の敵と対峙しなければならなくなると指摘している。デュムリエは危険性の大きさや要塞の補給不足を誇大に伝えているが、軍事的な視点で見る限り彼の行動は「完全に合理的であり、状況に対するとても賢明な対応だった」と、La Manoeuvre de Valmyでは結論づけている。

 リュクネルの命令に従わず、勝手に兵力を手元に集めようとしたデュムリエの行動は、果たして本当に軍事的には合理的だったのだろうか。後知恵で見る限り、とてもそうは思えない。何しろデュムリエ自身が北方を去ってシャンパーニュに向かい、さらにブールノンヴィユら追加の兵力を引き抜いた後になってザクセン=テッシェン公が行ったリールへの中途半端な攻撃は、あっさり撃退されたからだ。ヴォーバンの時代から営々と築かれてきたフランス北部国境の要塞群は、それだけで連合軍の足止めをするにはかなりの効果を持っていたと思われる。それにそもそも、この時期の連合軍はライン中流からムーズ方面にかけて攻撃を集中しており、フランドル方面の担当はおそらく陽動だったと思われる。
 もちろん、当時のデュムリエはそんなことは知らなかった。だから彼は本当にフランドル方面が敵の攻撃に晒される懸念を抱き、それに対処しようとしたのだと考えることも可能ではある。だが、その後のデュムリエが単に敵の攻撃を防ぐだけでなく、むしろベルギーに攻め込もうとしていたことを踏まえるなら、この「防御のために必要な兵力を集めた」説の説得力も高くない。彼はの行動原理は軍事的合理性というよりも、あくまで自分が主導権を握りたい、ラファイエットやリュクネルの命令に従う立場にいたくない、という思いに基づいていたんじゃなかろうか。
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