La Manoeuvre de Valmy(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p205-286)の続き。デュムリエの失脚によって戦争方針が不明確になったフランス軍内では、陸軍大臣の要請を受け7月上旬にヴァランシエンヌで北方軍司令官リュクネルと中央軍司令官ラファイエットが顔を合わせた。彼らはフランドル方面の連合軍は弱体で、守備隊と監視部隊を置いておけば十分だという点で合意。むしろ主力はライン中流域とムーズ方面に差し向ける方が適切だと考えた。この時点で連合軍がこの方面に兵力を向けるであろうことをフランス側も既に把握していたことが分かる。
だが野心家のデュムリエが大人しく従うわけもなかった。閣僚の座を追われて1ヶ月ほどしか経過していなかったが、彼は自身の「ベルギー政策」をまったく諦めていなかった。加えて、この大掛かりな東方への移動により、北方軍の拠点が弱体化していたのは確かだった。リュクネルの出発後に残された戦力は2万5000人しかなく、それもモブージュからダンケルクまで分散していた。拠点に守備隊を配置すると、野戦に使える戦力は1万人を超える程度だったという。一方、オーストリア軍の戦力は4万2700人に達しており、守備隊を除いてもその数は3万3200人だった(Oesterreich im Kriege gegen die Franzoesische Revolution 1792, p88-90)。
この報告がデュムリエに最後の決断をさせたのではないか、とLa Manoeuvre de Valmyの筆者は推測している。彼はリュクネルの命令に従うどころかそれに反することを決断し、モールド、ファマール、モブージュ宿営地の兵を動かさず、ダンケルクの指揮を執っているカルレ将軍に対しては歩兵4個大隊と騎兵2個大隊を増援として送るよう要請した。またピカルディとアルトワの守備隊4~5個大隊も増援として引き抜くよう命令を発している。合わせて歩兵24個大隊、騎兵16個大隊の小規模な部隊(1万4000人から1万5000人)をヴァランシエンヌ付近に集め、敵の前進を止めようというのが彼の狙いだった。
彼は自分の行動についてリュクネルとラファイエットに報告を記し、その際に「もし自分が歩兵6個大隊と騎兵5個大隊を連れて去った場合」、この方面の指揮を執るためにやってくるディロンには歩兵7000人と騎兵300騎しか残らず、それで2万5000人から3万人の敵と対峙しなければならなくなると指摘している。デュムリエは危険性の大きさや要塞の補給不足を誇大に伝えているが、軍事的な視点で見る限り彼の行動は「完全に合理的であり、状況に対するとても賢明な対応だった」と、La Manoeuvre de Valmyでは結論づけている。
コメント