兵士マニュアル

 ウクライナ戦争ではロシアが動員兵に配っているマニュアルが一時期話題になっていた。こちらの記事では「西側諸国の価値観から見ると不思議が一杯」として、今回の戦争が大祖国戦争2.0であるとか、ウクライナ人をロシア人に戻すまで「殴り続ける必要がある」とか、国防省から支給されない装備を自前で揃えろとか、色々と「斬新過ぎて理解が追いつかない」話が紹介されていた。
 Modern War Instituteでも、最近このマニュアルに関する記事が載っていた。I Live, I Fight, I Win? Analyzing Russia’s Slightly Bizarre Manual for Soldiers Fighting in Ukraineがそれで、その中ではこの「いささか奇妙な」マニュアルの特徴を3つ取り上げている。
 まず最初に紹介されているのは「陸橋の向こう」というもの。陸橋とはロシア本土とクリミアをつなぐ陸地のことで、ロシアが不法な併合を宣言した4州を指している。実際にこの宣言がなされた後の戦闘はほぼこの4州内で繰り広げられているが、一方でロシア側の野心がこの4州でとどまると思っている人はあまり多くない(ISWなどは絶えずロシア側のスタンスをMaximalistと表現している)。
 それをある意味で裏付けているのがこのマニュアルだそうだ。上で紹介した日本語記事でも書かれているように、兵士向けのマニュアルになぜかウクライナを全部ロシア化するという目的が記されているそうだし、大祖国戦争2.0という表記も兵士の行動原則を示しているというよりもプロパガンダの色合いが強い。その意味では兵士に対してクレムリンの宣伝をするという狙いも含まれた文章なのだろう。通常の兵士用のマニュアルとはかなり色合いが違うと思われる。
 2つ目が「補給不足」。ある意味で開き直りと言えるが、補給が欠乏することを前提とした対応策がこのマニュアルには書かれているそうだ。特に水不足への対応が重要だと思われているようで、マニュアル内では地図を読み込んで小川や井戸の位置を探り当てることが大切だと述べられている。武器の手入れや傷の手当に使う道具も容易には手に入らなくなっているようで、そうした物資についても現地調達すべきだと考えているようだ。
 さらには靴下を当てにせず、Footwrapsを使えるようにせよとも書かれているようだ。一応、wikipediaには「21世紀初頭まで東欧で使われていた」と過去形で書かれているが、どうやらまだ現在形で使われているらしい。ショイグは過去に全部靴下に変えると発表しているものの、クレムリンの言い分と現実が食い違っているのはおそらく当たり前なんだろう。
 ついでにこの節にはロシア側の補給スタンスも載っている。彼らは最初の部隊(1st Echelon)が補給を使い果たしたら次の部隊(2nd Echelon)を補給とともに送り込むという方法で戦闘を行なう方針を示しているらしい。弾薬だけでなく部隊まで使い捨て、という認識でいいのだろうか。というかこんなことをマニュアルに書いたら兵士のモラルが下がるとは思わなかったのか。前にも書いたが、ロシア人はとんでもないレベルのマゾヒストだとしか思えない。
 こうしたロシア軍のスタンスは3つ目の「量の質」という節で説明されている。ウクライナ側が効率のいい弾薬の使い方をしているのに対し、ロシアは大量に砲弾を消費して戦うのがやり方だとマニュアルにも書かれているそうだ。要するにソ連時代のひたすら物量で押していくやり方こそが自分たちの戦い方だと述べているわけで、いまだに軍(及びクレムリン)首脳部の脳内では兵士が畑で取れる時代の感覚が残っている、もしくは自分の政治的立場を守るために残っているふりをしている様子がうかがえる。
 もちろん実態は違う、とこの文章では指摘している。2008年のジョージアとの戦争の頃からロシア軍は近代化に取り組み、より効率的で小規模な軍への改革を進めてきた。結果、クリミア併合時のような小規模な戦いならロシア軍も対応できるが、今回のような大規模通常戦になると実際には適応できなくなっている。加えてロシア経済はソ連時代とは異なり、国外とのサプライチェーンに取り込まれているため、経済制裁を受けるとソ連時代のような物量作戦がそもそもできなくなるリスクも抱えている。
 加えてウクライナ側(西側)がもつテクノロジー面での優位に対してろくな対応策がないこともマニュアルから窺えるそうだ。例えば暗視スコープがないロシア側では、むしろ光を照らすことで敵が暗視スコープを使えないようにする方法を提案している。結果、夜間でも敵に発見されやすくなるリスクも増えるはずだが、一方的に見られるよりはマシってことか。さらにウクライナ側のドローンの使用についてはそもそも対抗策すらないらしく、電子戦や対空防衛のための資金が必要だと述べるにとどまっているそうだ。つまり、みんなビンボが悪いんや、という嘆き節である。。
 文末の結論部でロシアを軽視してはならないと改めて注意しているが、そのうえでなおこのマニュアルから窺えるロシアの戦争の進め方が、現在の軍と経済の実情とはそぐわないものになっていることも確かなようだ。プロパガンダと同じくらい時代遅れな戦術に頼らなければならないロシア軍は、マニュアルにある「生きて、戦って、勝つ」ことに相当苦労しているようであり、今後もそうであることが予想されるという。
 それにしてもロシアの時代錯誤ぶりがここまで極端なのは、いつものことだが驚く限り。かつてのユーラシア中核地域、つまり騎兵時代の帝国ベルトが火薬革命に乗り遅れたという話はこちらで言及しているが、彼らは今もなお時代の変化から取り残され続けているのかもしれない。ロシア軍のやっていることはモンゴル帝国っぽい印象があるのだが、その姿勢は今回の苦戦にもかかわらず一向に変わっていないんじゃなかろうか。

 なおISWの最近の記述では、ロシアの情報空間におけるエリート内紛争の激化について言及する度合いが増えている。18日の記述では、プリゴジンによる国防省批判がさらにプーチン体制に対する批判にまでヒートアップしていることを指摘。どうやら一部の当局者を裏切り者とまで呼ぶようになっているらしい。19日には今後はプーチンが情報空間でプリゴジンの敵の側に立つ度合いを強めていると記しており、シロビキを交えた主導権争いが一段と激化しているようだ。
 さらに20日になるとこんどはチェチェンのカディロフが自身の評判を高めようとしていることまで指摘している。また米国の情報部門がロシア国防省とワグナーとの間の対立関係を確認したことも紹介しており、要するに現状こうした内紛が一向に収まる様子がないのだろう。その一方でワグナーがセルビアで傭兵をリクルートしている話にも言及しており、現地で強い反発を招いているとの報道も出てきている。さらに米国はワグナーをマフィアや暴力団と同じ「国際犯罪組織」と認定したそうで、とりあえずプリゴジンが世界的に有名になっているのは間違いなさそう。
 一方でISWは、クレムリンが半年以内に「決定的な戦略的行動」を取る可能性についても言及している。彼らは動員を増やし、将来的な戦力増強を図るほか、防衛産業の強化や国防省による軍事活動の再集権化、情報空間からの戦争支援の獲得といった点に力を入れる見通し。そのうえでおそらくはルハンスクでの攻勢と、ウクライナの反攻を阻止するための作戦を進めるというのがISWの推測だ。これに対して西側からのウクライナ支援で足元関心を集めているのはドイツの戦車供与。前にも述べたが春以降に両軍の作戦行動が積極的になることを想定し、双方とも戦力の強化を一段と進めようとしているところなんだろう。

 あとは興味深かったツイートを。1つは「徴兵制は廃れていくだろうという見通しが甘かった」と書かれていたもの。実際、冷戦後はむしろプロフェッショナルな軍隊こそが求められるようになるため、訓練期間が限られる徴兵制は不要になるという流れがあるかのように思われていたのが、この戦争でひっくり返ったのは確かなようだ。
 もう一つは欧州のナショナリスト政党が欧州の価値として「キリスト教の価値観」を訴えるようになっているという指摘。彼らが今対峙しているのはイスラム教ではなく「18世紀の啓蒙主義に端を発する現代の世俗文化」だという指摘は、こちらで書いたように世俗的啓蒙にお株を奪われつつある枢軸宗教側の危機感を分かりやすく示している。
 ただしツイート内にもある通り、キリスト教価値観の守護者を演じている「プーチンがどんどん暴力を振るうことによって、反対側勢力[つまり世俗的啓蒙]の道徳的な格もどんどん上がる」という現状もある。保守派とリベラルが演じているのは主義主張を巡る争い、という建前を掲げた単なるエリート内紛争だと思っているが、その建前の部分で保守側の力をプーチンがそぎ落としまくっているわけだ。やはりこちらで予想した通り、今後訪れる停滞の時代において安定をもたらすための抑圧的イデオロギーとして主役を演じるのは世俗的啓蒙になる確率が高い、のではなかろうか。
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