La Manoeuvre de Valmy(
Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée , p205-286)の続き。最初の攻撃の失敗を受けてフランスが後始末に追われていた1792年5月、連合軍側でようやく作戦計画に関する調整が始まった。5月12日にサン・スーシ宮殿でまとめられた計画によれば、まず4万2000人のプロイセン軍と1万人の亡命貴族軍がブラウンシュヴァイク公の指揮下でコブレンツに集結。彼らはルクセンブルクからロンウィとヴェルダンに進み、これらの地域を攻囲する。その後には6000人のヘッセン軍が続き、他の要塞を包囲する。
オーストリアは主力軍の両側面をカバーする2つの軍を提供する。右翼ではネーデルランドから来たクレルフェの2万5000人がモンメディとスダンの間でシエール河を渡り、ランスへと進む。左翼ではホーエンローエ=キルヒベルク公が2万3000人とともにティオンヴィルへ行軍し、メスを監視する。この間、ザクセン=テッシェン公アルブレヒトがベルギーに残った軍勢を使ってフランス北部の要塞のどれかを攻撃し、敵兵をフランドル方面に牽制する。フランス側に比べると準備が遅い印象はあるが、それでも連合軍側もいよいよ動き出したことが分かる。
一方、フランス側では軍首脳部の入れ替えが行われた。5月16日、ロシャンボーに代わり北方軍の司令官にリュクネル元帥が就いた。とはいえ前任者が問題視していた欠点がなくなったわけではなく、次の攻撃開始には時間を要した。また4月の攻撃で北方軍における主戦派代表だったビロンも、6月上旬にはライン方面軍に移ることが決まった。それでもデュムリエは再攻撃を計画してその実行をリュクネルに委ねることにした。面白いことに実際の計画立案は、北方軍をクビになるロシャンボーが担ったようだ。5月19日、司令部を去る前にリュクネルやラファイエットと話し合った彼は、北方軍がレイエ河沿いに攻撃を行なうこと、また中央軍はモブージュの宿営地まで移動してそこで敵を牽制することを決めた。
国王の許可を得て作戦が開始されたのは6月に入ってからだ。地図にはオスコットの戦いでも使った
Topographic map of France (1836) を使うのがいいだろう。ラファイエットが1万8000人を率いてランサンヌからモブージュへ移動する一方、リュクネルはまず6月9日にヴァランシエンヌとモールドからサン=タマン=レ=ゾー(ヴァランシエンヌ北西)へ、続いて11日には西のオルシ、ポン=タ=マルクへと移動した。この時、ラファイエットの前衛部隊がモンスから来たクレルフェと交戦したとの情報が届き、リュクネルはいったん足を止めた。
クレルフェが引き上げた後の15日、リュクネルは再びリールへの行軍を再開。トゥルネー方面の敵に対処する目的もあって、6000人の分遣隊をリール東南のシソワンへ送り出した。17日、リュクネルはリール北方のウェルヴィクへと進み、レイエ河にたどり着いて国境を越えた。前衛部隊はその東にあるメーネンまでたどり着いた。翌18日、前衛部隊はさらにレイエ河を下り、600人のオーストリア軍部隊と小競り合いをした末にコルトレイクを奪った。一方、これに対抗すべきザクセン=テッシェンはフランス軍のあらゆる進路を塞ごうとするかのように兵力を分散させたそうで、リュクネルの目の前には敵を各個撃破する絶好のチャンスが現れた。
しかしリュクネルは攻撃に出ることはせず、ベルギーの革命派との交渉などに時間を費やした。側面で彼を支援すべきラファイエットの動きも鈍く、18日になっても主力はテニエール=シュール=バヴェ(地図には見当たらないが、テニエール=シュー=ロンという地名ならある)の宿営地にとどまり、前衛部隊はフォントノワ(バヴェ北方の国境付近)にいた。フランス軍の動きが鈍っている間にオーストリアのミリウス大佐はハーレルベーケの拠点を奪ってリュクネルの正面から圧力をかけた。側面から退路を脅かされるのを恐れていた彼は会議を開いて退却を政府に申し出た。そして6月29日から30日の夜間にかけ、ウェルヴィクを経由してリールへと撤退した。
かくしてデュムリエの計画を実行しようとする2度目の作戦もまた失敗に終わった。彼は
13日までは外務大臣として 、そこから
18日までは陸軍大臣として 自らの計画を何とか実現しようと取り組んだが、政敵との争いに敗れる形で大臣職を追われることになった。彼の意を汲んだ
ルブリュン が外務大臣に就任するのは8月10日になってからであり、6月下旬時点でいったんデュムリエの政府内における影響力はほぼ消えたと見られる。リュクネルがあっさり撤収を認められたのもそれが一因だろう。
大臣の地位を追われたデュムリエの行き先は、皮肉なことに北方軍の将軍だった。リュクネルらは彼に冷たい態度を示し、数日間は仕事を与えすらしなかったという。最終的に彼はリュクネルの司令部から遠ざけられ、モールド宿営地の指揮権を与えられたのだが、そこには既にブールノンヴィユ少将がいたため、実際にはデュムリエは余分な存在だったようだ。翌年、デュムリエが造反した時に両者の間に生じた出来事を考えると、何とも皮肉な事態と言える。同時期にビロンもようやくライン方面軍に向かった。
7月1日、デュムリエの後に陸軍大臣になっていたラジャールはリュクネルに対し、コルトレイクからの退却は国王の心を傷つけていないと書き送った。この時点でフランス政府内でベルギー侵攻作戦の位置づけが大きく後退していたことを示す一例と言えよう。ラジャールはさらにリュクネルに対し、ラファイエットと了解のうえで対応を考えてほしいと提案している。連合軍が5月に立案した侵攻計画がようやく実行に移されそうになるタイミングで、この2人がフランス側の対応を決めることになった。
フランス軍がレイエ河沿いの攻撃を諦めた6月下旬、プロイセンはブラウンシュヴァイク公が率いる遠征軍をリューベナッハ(コブレンツ西方)に集め始めた。7月上旬、マインツ近くのホッホハイムにあったブラウンシュヴァイク公の司令部に、オーストリア軍のクレルフェの戦力は1万4000人、ホーエンローエは1万5000人まで減ることが知らされたが、亡命貴族に煽られていたフリードリヒ=ヴィルヘルム王のやる気は削がれなかった。19日にはプロイセン軍の集結は終わったが、その後も数日はパンの補給のために使われた。
この時、プロイセンがやらかしてしまったのが
ブラウンシュヴァイク公の宣言 だ。亡命貴族やルイ16世の要請に応じる形で7月25日と27日の2回にわたって出されたこの宣言は、王家に危害が加えられればパリを破壊すると脅す内容であり、結局ブラウンシュヴァイクは生涯これを後悔したという。彼の宣言は8月初頭にはパリに伝わったようで、激怒したパリ市民は王宮を襲撃して王権を停止させるという
8月10日事件 を起こした。ルイ16世を守る目的で行動したはずなのに、むしろ彼の没落を早めてしまった格好だ。
この8月10日事件は、さらに前線で連合軍と戦っていたフランスの将軍たちにも多大な影響を及ぼし、最終的にはいったん葬られたはずのデュムリエ主導による「ベルギー政策」の復活までもたらす。その意味でブラウンシュヴァイクの宣言は大きな波及効果をもたらしたわけだが、その点についてはまた後で確認しよう。
なお、この時に決まった連合軍の戦闘序列は、La Manoeuvre de Valmyのp213に載っている。主力を形成するプロイセン軍は4万5000人、その両側面をカバーするオーストリア軍の2部隊が計2万9000人、後続のヘッセン軍が6000人で、亡命貴族の軍が計1万2000人となっている。これらの両脇にいる部隊についても表には載っており、上ラインにはブリスガウにエステルハージ率いるオーストリア軍1万1000人、フィリップスブルクにいるエアバッハの7000人とマインツ選帝侯の軍2000人、クロイツナッハにいる亡命貴族部隊6000人が展開。反対側のネーデルランドにはザクセン=テッシェンの野戦軍2万5000人と、各地の守備隊8000人が存在していた。
7月19日には皇帝、プロイセン王、ブラウンシュヴァイク公、シューレンブルク伯、ラシー、ホーエンローエ公がマインツで会合を開き、サン・スーシで決めた作戦計画に修正を加えた最終計画を決めた。ブラウンシュヴァイクの主力はモーゼル峡谷の左岸に沿って進み、1個部隊はルクセンブルクへ向かう。それから彼らはロンウィとヴェルダンへ進んでフランスの北方軍と中央軍を分断する。クレルフェはナミュールにまず部隊を集め、それからプロイセン軍がロンウィに到着したところで彼らと合流する。ホーエンローエはマンハイムでラインを渡り、フランス軍をラウター河の背後に追い払った後でカイザースラウテルンを通ってザール下流へ進み、監視部隊をザールルイに派出する。
エアバッハはフィリップスブルクにとどまり、フランス軍がライン右岸へと進出するのを妨げる。エステルハージと亡命貴族の軍は上ラインで陽動をかけ、可能ならユナングとベルフォールの陥落を目指す。ザクセン=テッシェンはフランスの北部国境へと圧力をかける。以上、宣言で威勢のいいことを言ってはいるが、この時点でフランス領内をどこまで進軍するつもりなのかはあまり明確には決まっていなかったようだ。
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