ヴァルミーまで 1

 昔、ヴァルミーの戦いについていくつ触れことがある。その中にはヴァルミーの戦いに至る前の両軍の動向について書いたこともあった。ヴァルミーについては名前くらい、もしくはゲーテがその際に言ったとされる(本当のところは不明)言葉くらいは知られているかもしれないが、細かい話について知っている人はほとんどいない。
 もちろん全く知られていないわけではなく、例えば2015年にはThe Valmy Campaign: The Revolution Saved, 1792ADなるボードゲームが出版されており、つまりこのテーマについて今でもそこそこ知っている人がいることが分かる。だがこの話がずっと詳しく知られていたのは、もちろん19世紀末から20世紀初頭にかけてのナポレオニック全盛期だ。
 この時期の文献として有名なのはArthur Chuquetの本だ。彼の本については前にも何度か取り上げている(こっちとかこっちとかこっち)。彼はヴァルミー戦役について「プロイセンの第一次侵攻」「ヴァルミー」「ブラウンシュヴァイクの退却」と、実に3冊にわたって細かい経緯を説明している。もちろん細かいといっても限度はあり、例えば以前このblogで詳細に紹介した革命軍の最初の敗北について、Chuquetの本ではたった3ページしか言及していない。
 もう一つ、20世紀初頭に軍事雑誌であるRevue d'histoire rédigée à l'État-major de l'arméeに3回にわたって掲載されたLa Manoeuvre de Valmyという記事もある。こちらは題名の通り、ヴァルミーの戦いが始まる前日(1792年9月19日)までの両軍の機動に焦点を当てたもの。特にフランス側の司令官であったデュムリエの行動に関する分析が中心となっており、彼がどのような考えで行動していたかについて例えば彼の回想録に基づく一般的な見方とは異なる見解を示している。
 デュムリエは革命戦争初頭において戦争指導の中心的な役割を果たしていたのではないか、と前に指摘したことがある。実際、公安委員会ががっつり戦争の舵取りを始める前は、例えば陸軍大臣が各軍の司令官の具体的行動に口を出したがらないなど、パリの政府関係者が戦争から距離を置きたがっているような傾向はあった。もしかしたらこちらでも指摘した「軍のプロフェッショナリズム」に対して介入すべきでないとの認識を持っている政治家が多かったのかもしれない。その中で、一時期外務大臣を務めていたデュムリエは、明確な戦争政策を持っている珍しい存在だったとも考えられる。
 その意味でヴァルミーを含めた戦役に関する記述で彼が主役的な位置を占めるのは不思議ではない。といってもこの文献内で彼は常にスポットライトを浴びているわけではなく、連合軍も含めて他の関係者に関する言及も多い。またプロイセン軍が一方の当事者だったため、ベルリン公文書館から引っ張り出した様々な一次史料を使っていることも序文で触れられている。ベルリンの一次史料は第二次大戦後にソ連軍が略奪してしまったため戦後はあまり使うことができず、ナポレオニックマニアにとっては盲点のような存在になっているが、そうした問題が生じる前にはどのように史料が使われていたかが分かるという意味でも興味深い文章だ。

 まずはLa Manoeuvre de Valmyの最初の原稿(Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'armée, p205-286)を見てみよう。第一次対仏大同盟戦争は、1792年4月20日のフランスによる宣戦布告から始まった。もちろんそれ以前からフランスと、それに敵対する君主国との関係は悪化しており、オーストリアとプロイセンは前年から連携を強めていた(ピルニッツ宣言)。ただし彼らと歩調を合わせた欧州諸国はそれほど多くはなかった。宣戦布告がなされた時、外務大臣はデュムリエが務めていたが、当初連合国側として参戦したのはオーストリア、プロイセン以外にはヘッセン=カッセル方伯しかいなかったくらいだ。
 先手を取った形のフランスだが、その戦略は最初から揺らいでいた。そもそも1791年12月に陸軍大臣ナルボンヌと、フランスの北部に展開する各軍の司令官であるロシャンボー、リュクネル、ラファイエットらがメスで合意した戦略計画において、フランス軍は当初は防勢を取ることで合意がなされていた。フランス兵は30年にわたって、アメリカとコルシカでの部分的な戦争を除いてずっと平和を享受していたため、まずは彼らを鍛え直す必要があるというのが理由だ。ロシャンボーはフランス兵をダンケルク、モブージュ、ジヴェ、スダンの宿営地に配置し、主力はファマール宿営地(ヴァランシエンヌ南方)と前衛部隊をモールド宿営地(ヴァランシエンヌ北西)に配置し、小競り合いを通じて戦いに慣れさせようとした。一方リュクネルは本格的な攻勢を提案したようだが、具体的な策や案は示さなかった。
 だがこの慎重なスタンスは開戦直前に変化した。1792年4月9日に陸軍大臣ナルボンヌが、デュムリエと親しいグラーヴと交代させられたのだ。上に紹介したエントリーでも述べているが、デュムリエはベルギーへの侵攻とその地で革命を起こすことを当初から主張しており、この人事によって陸軍省も同じ方向に変わった。また北方軍ではビロンがこの方針を支持し、4月11日はいったんこの作戦が採用されかけたという。しかしロシャンボーの抵抗もあって15日にはまずラファイエットの中央軍がナミュールへ進軍し、その後で北方軍が進むという形で計画が固まった。
 だがベルギーでの蜂起騒ぎの拡大を背景にデュムリエとビロンはより攻撃的な策へとシフトした。4月30日より前に北方軍がモンスとトゥルネーへ前進し、成功すればブリュッセルまで進むとの方針が示された。23日にこの命令を受け取ったロシャンボーは、司令官である彼を飛び越してビロンに攻撃させるよう命じたこの指示に不快感を隠さなかったそうだが、それでも軍の攻撃準備を進めざるを得なくなった。このあたりの経緯と、実際に行われた攻撃の失敗については、上にも紹介している革命軍の最初の敗北についてのエントリーで詳細に書いている。
 当時、北部戦線には3つの軍が存在した。海岸からサンブル河まで展開していたロシャンボー指揮下の北方軍は5万2634人、サンブルからヴォージュ山地まで展開していたラファイエットの中央軍は5万人、そしてライン河沿いにいたリュクネルのライン方面軍は4万9000人の兵力を抱えていたが、守備隊や国民衛兵隊などを含め兵力の半数は戦役に参加するだけの能力がなく、規律も悪化していた。実働戦力はどの軍も2万5000人を超えることはなかったという。彼らの実力については最初の敗北でも歴然としており、キエヴレンとマルケンではそれぞれ数の少ないオーストリア軍相手にあっさりと負けている。
 一方、ベルギーのオーストリア軍はp223の表のように展開していた。総兵力は1万4500人と、北方軍及び中央軍の実働兵力よりずっと少ない数字だったことが分かる。主力はトゥルネー(5400人)とモンス(5350人)に展開していた。実際に戦場に現れた数はおそらくさらに少なく、ボーリューが率いたモンス付近での戦闘では3000人強、トゥルネー近くで戦ったアッポンクール伯の軍勢は2000人弱といったところだった模様。この数字を見ると、フランス軍のうちダンケルクからフールネ方面に押し出した部隊が一定の成果を収めた理由もよく分かる。何しろ170人しかいないのだから勝てない方がおかしい。
 つまりこの最初の戦いにおいて革命軍はわざわざ敵の強いところを攻撃に出たわけで、いわば直接アプローチで失敗した格好だ。ただし当時の軍人たちに直接か間接かといった発想法があったかと言われると不明。デュムリエはこの後、ヴァルミー戦役で連合軍主力と直接対峙するのではなく間接アプローチを採用するよう何度も主張しており、彼自身も別に最初の戦闘で直接アプローチを意識していたわけではないのだろう。むしろウクライナ侵攻時のロシアのように、敵の過小評価と自軍の過大評価が重なった結果の失敗だったと思う。
 ちなみに中央軍のラファイエットは、北方軍の動きに合わせてストネ―からスダン、メジェール、ジヴェへと前進したが、北方軍の失敗とオーストリアの部隊がシャルルロワへ行軍したとの情報を得て攻撃を諦め、ジヴェ南方にあるランサンヌ宿営地へ引き上げた。フランス軍の最初の攻勢はかくして失敗に終わったのだが、この時に詰め腹を切らされたのはロシャンボー陸軍大臣グラーヴだけ(いずれも5月に退任)。そもそも計画の発案者であるデュムリエは6月半ばまで外務大臣の座にとどまっており、その意味で戦争方針がこのタイミングですぐに変わる可能性は乏しかったと言えよう。
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