承前。
4月25日、左翼を指揮するサント=シュザンヌはストラスブールでラインを渡った。同日、サン=シールは中央を率いてブリザッハで渡河。予備軍団の指揮官であるモロー将軍は27日、バーゼルで渡った。サント=シュザンヌ軍団はオフェンベルク前面に布陣する1万2000人から1万5000人の敵部隊を撃ち破った。サン=シールは敵の抵抗を受けずにフライブルクへ入城し、それから彼は、バーゼルで渡河した予備軍団が既に到着していたサン=ブレーズへと前進した。リシュパンスはサン=ブレーズにとどまり、他の2個師団はライン右岸に沿って遡り、アルプの河口へと進んだ。26日と27日、3個師団はヴタッハで合流を果たした。28日、彼らはノイキルヒに布陣。サン=シールはヴタッハのサン=ブレーズからシュテューリンゲンへ前進した。
その間、モローはサント=シュザンヌを呼び戻す必要性を感じた。後者は27日にケールで渡河し、ライン左岸をアルト=ブリザッハへ移動して再び渡河し、サン=シール軍団の第二線の位置に布陣した。彼はフライブルクへ行軍し、ヴァル=ダンフェを越え、ノイシュタットに陣を敷いた。
以上がフランス軍の予備、中央、及び右翼の動きだった。その間、ルクルブ麾下の右翼は5月1日にシュタイン近くでラインを渡り、ほとんど障碍に会うことなくホーエントヴェール要塞へと進軍し、要塞は降伏した。そこは80門の大砲で武装していた。かくして戦役開始から5日にしてルクルブは作戦開始の準備を整えた。5月2日、軍は現在地にとどまった。彼らはドナウ側へと傾斜したホーエントヴェール要塞からノイシュタットへの15リーグの戦線を占拠していた。
かくしてクライ元帥には彼の兵を集める時間があった。5月2日、彼は小さな町エンゲンの前面を4万5000人で占拠し、その左翼には6リーグ離れたシュトックアッハにヴォードモン公と1万2000人の軍団を置いて彼のエンゲンの陣地とコンスタンス湖をつなぎ、補給拠点を守り、かつメスキルヒへの退却路を確保した。3日夜明け、ルクルブは彼の3個師団とともにシュトックアッハへ前進した。モローは予備の3個師団とともにエンゲンへ向かった。戦場から遠く離れすぎていたサン=シールとサント=シュザンヌは、間に合うことができなかった。ルクルブ軍団は3個縦隊で行軍した。右翼のヴァンダンムはシュトックアッハを迂回する。中央のモンリシャールは予定された時間に市内へ入る。左翼のロルジュは1個旅団でシュトックアッハとエンゲンの連絡を遮断し、もう1つの旅団は予備による攻撃を支援する。ヴォードモン公は壊走し、3000人の捕虜と5門の大砲、いくつかの軍旗をルクルブの手に残し、大慌てでメスキルヒへ退却した。この間、予備の3個師団はエンゲンへ向かう道路の一つに於けるアーク川への接近路上でクライ元帥の前衛部隊と交戦した。戦いはすぐにヴェッターディンゲンとムールハウゼンでも激しくなった。しかしモローはすぐに戦線を左翼へと延伸させた。彼はリシュパンスにホーエンホーフェンの小さな高台を攻撃するよう命じたが、この攻撃は終日成功することなく実行された。ロルジュ師団の1個旅団と重騎兵予備を伴った予備の3個師団は4万人の戦力であり、敵がエンゲン前面に所有していた数よりもいくらか少なかった。戦局はオーストリア側に傾いていたが、その時クライはヴォードモン公の敗北とルクルブの大成功、そしてサン=シールがホーエンホーフェンに到着したことを知らされた。彼は退却した。サン=シールは朝方シュトゥーリンゲンを出立し、ヴタッハ右岸を遡り、ツォルハウスの隘路で足を止めていた。夜の時点で彼の前衛となっていたルーセル将軍麾下の旅団はホーエンホーフェンの線まで占拠していた。双方の損害は6000人から7000人ほどだった。さらにオーストリア軍は捕虜4000人と、いくつかの大砲、その大半はシュトックアッハでルクルブに奪われたものを失った。
以下、次回。
コメント