その中で、国家誕生以前に適用できそうな印象があるのが、以前記した
「2つのクラスター」と
「2つの閾値」に関する議論だ。2つのクラスターを分けるのは要は国家(state)であるか、それとも首長制(chiefdom)以下の社会であるかの違いであり、それを分けるのが「2つの閾値」、つまり規模と情報処理における一定の複雑さを達成したか否か、という議論だ。農業が始まってから5000年間はこの閾値をいかに超えるかが社会の複雑さを決めており、実際にそれを超えた社会が生まれた後は軍事革命という名のイノベーションがさらに複雑さを進化させた、という風に整理できるかもしれないのだ。
ただ気になる点がある。国家の成立と青銅器革命が重なっているように見える点だ。この両者の間には何か有機的な関係があるのだろうか。だとしたら青銅器革命は情報処理における閾値突破と密接に関係した出来事、と考えられる。そうではなく両者はたまたまタイミングが一致しただけかもしれない。その場合、情報処理の閾値を超える際に青銅器革命は必要ない、という結論になる。紀元前3300年頃から始まったとされる
青銅器時代と国家形成との間には、どんな関係があるのだろうか。
まずは「2つのクラスター」を使って調べてみよう。クラスター3に移行したタイミングが「閾値を超えた」時だと考え、その時期の政治体の面積や人口、青銅器革命で採用された軍事装備(青銅器、剣、槍、ロバ)の存在度合いを比較してみるのだ。面積や人口については
こちらで紹介した論文を採用する。閾値を突破する前のグループ2の平均人口は3万人ちょっと、面積は1万平方キロ強で、突破後のグループ3は人口が300万人強、面積は40万平方キロ弱まで拡大している。この中間点のどこかに国家と首長制の境界線があると考え、クラスター3への移行時がそこと重なっているかどうかを調べてみる。
クラスター論文でクラスター3に入ったと記されている地域は18ヶ所。うち人口が想定した範囲に入っているのは半分の9つであり、不明が1つとなる。つまり残る8つは全部想定外(具体的には想定より多いものばかり)となるのだが、実はそのうち3つ(カチ、ソグディアナ、パリ)は他地域の帝国に飲み込まれていたための数値であり、分析対象としてはあまり適切でない。さらに残る5つのうち3つ(関西、ニジェール、ジャワ)は自力で閾値を超えたのではなく他地域からの文明を仕入れていた地域であり、つまりクラスター3に入る前に人口閾値を超えていた事例は黄河中流域とクスコの2ヶ所だけとなる。
次に面積だが、想定範囲に入っているのは6つ、不明が3つを占める(ただし不明のうち関西は想定範囲に入ると思われる)。また上に述べた通り3つは征服された土地であり、他から文明を仕入れていた地域は4つある(カンボジア、オルホン、ニジェール、ジャワ)ため、こちらでもやはり例外となるのは黄河中流域とクスコの2ヶ所だ。人口ほどではないが、閾値を超えたタイミングとあっている地域が多い。
最後に青銅器革命で使われた装備の使用度合いだが、1~2つの使用にとどまっている事例は4ヶ所しかなく、残る14ヶ所はすべてそれ以上の装備を使っているか、使っていると思われている。しかもその4ヶ所はいずれもかなり新しい時期(1つは紀元800年で、残りは全て同1000年以降)にクラスター3に入った地域ばかりであり、要するに青銅器を通り越して鉄器時代に入っていた地域だ。あまり参考になるデータではない。要するにこの点で見るなら、国家形成は青銅器革命以降に起きた、と解釈できる。
次は2つの閾値を使った分析だ。
前にも書いたが、閾値とクラスターの論文は互いに似ているが微妙にずれたタイミングを提示している。ここではPC1の情報処理閾値を-0.5とし、
Turchin論文のDataset_S02を使って、上記と同じような分析をしてみる。こちらの対象となる地域もやはり18ヶ所あるが、クラスターの時とは微妙に対象が異なっている。
まずは人口だが、9つは範囲内に入り、1つは範囲の下限付近(ラティウム)にある。不明が5ヶ所あるため、範囲を超えているのは3つで、うちスーサが下回り、デカーン、クスコが上回っている。ただクスコについては時期が前倒しになったためインカ帝国のごく初期にあたり、人口的には範囲内に収まる可能性もある。つまりこちらの基準で見れば、かなりの地域が閾値想定範囲に入ってくると考えられる。
面積はどうか。こちらも9つは範囲内に入り、不明は3つ。下限を下回っているのが上エジプト、黄河中流域の2つで、上回っているのがソグディアナ、デカーン、オルホン、クスコだ。ただし上にも書いた通り、クスコはインカ帝国初期のためこちらも範囲内に入る可能性がある。またそれ以外の範囲上にある3地域はいずれも他地域から文明を仕入れている。
最後に青銅器革命だが、2つ以下にとどまっているところが9ヶ所と半数を占めている。ただし鉄器時代以降に閾値を超えたところが5ヶ所あるため、それを除くと対象となるのは4ヶ所。問題はその4ヶ所がスーサ(紀元前3500年)、上エジプト(同3100年)、黄河中流域(同3000年)、カチ(同2500年)と、まさに四大文明発祥の地もしくはその近くに存在していることだ。こうしたデータを見る限り、青銅器革命が閾値突破のための必要条件とは見なしがたい。
クラスターを使った分析は全体的に閾値分析よりも国家の成立を後ずれさせているケースが多く、そのため
征服や二次的モードではない地域でもかなり人口や面積が拡大した後に初めて国家の成立と見なす傾向がある。また後ずれした分だけ拡大した青銅器革命の影響を受けている。一方、閾値分析は国家成立を早い時期に想定しているため、特に人口や面積については小さめに出てくるし、青銅器革命の影響を受けていないところが多く出てくる。
問題は何をもって「国家の成立」と見なすかという定義の問題になる。クラスター分析を信用するのなら国家は青銅器革命の恩恵を受けて成立した可能性があり、それなりに大きな人口や面積を抱えた存在として立ち現れたことになる。逆に閾値としてのPC1に注目するのなら、特にモードが一次的な政治体の場合はほとんど青銅器に頼らず、また割と規模の小さな政治体の時点で国家と呼ばれるにふさわしい複雑さを備えていたことになる。
正直、どちらの見方を採用すべきかは悩むところだ。クラスター分析の方が政治体の実態を現わした分析だとは思うが、一方で情報処理の閾値を超えたかどうかで国家の定義を決める方が理屈としてはすっきりしているようにも思う。おそらくは閾値を超えた後で政治体は急速に一定の成長を遂げ、その結果としてどこから見ても国家と呼ばれるにふさわしい体裁を備えることになるんだろう。
ただ、情報処理の閾値を超えることで初めて国家へと至る道が開ける、くらいのことは言えるんじゃないかと思う。だとすれば、農業革命によって複雑さを増した社会において、どのような条件が揃えば国家が生まれてくるのかを調べてみるという手もありそう。もちろんTurchinらに言わせるならこれにもグループ間競争がかかわっている、という話になるんだろうが、本当に「戦争で勝つために数を揃える」だけが国家の生まれる動因なのかは不明。遊牧民と定住民の対立(
鏡の帝国)というTurchinの好きな説も、どちらかと言えば国家が成立した後にどう巨大化したかを説明するメカニズムであり、国家そのものの成立を説明するものではない。誰がこのあたりも調べてくれないだろうか。
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