出生率と仕事

 日本ではかなり昔から少子化、さらに未婚化が進んでいるが、最近では他の先進国にとっても対岸の火事ではなくなっている。例えば米国についてはこちらのツイートでそうした記事を紹介しているのだが、これにTurchinが反応していた。子供がいない女性の割合に関するグラフを見て彼が指摘したのがアメリカにおけるウェルビーイングや困窮化のグラフとの類似性。Ages of Discordでも書いていたが、不和の時代にはウェルビーイングが悪化して困窮化が進むのと同じように、子供を持たない比率も上がっている、という指摘だ。
 確かにツイートに出てくるグラフは似た推移を描いている。元記事は1 in 4: Projecting Childlessness Among Today’s Young Womenで、Figure 1がTurchinの指摘したグラフ。45歳以上の時点で子供のない女性の割合を生年でたどったデータだ。途中2ヶ所ほどデータが抜けているところがあり、また45歳以上になっていない最近の数値については予測値を入れているが、20世紀初頭生まれと同じくらい、あるいはそれ以上に足元で子供を持たない女性が増えている計算になる。
 もちろん完全に一致しているわけではない。Turchinのウェルビーイングのグラフだと20世紀初頭のどん底期は1910年頃であり、その次に来るピーク期は1960年頃となっている。一方、子供のいない女性の生年で見ると比率が高いのは1900年の少し後に生まれた女性たちであり、彼女らが子供を持てるようになった時期は1920年代以降になる。Turchinのグラフに比べて底打ちの時期がかなり遅い印象がある。逆に子供のいない女性の比率が低かったのは1920~30年代生まれで、彼女らが子供を産む時期はウェルビーイングのピークよりもおそらく早い。Turchinの指摘がどこまで正しいかはちょっと判断しがたいグラフだ。
 記事の方では続いて子供がいないのは子供を望まない女性の比率が増えているためではないと指摘している(Figure 2)。確かに直近こそ子供を望まない女性の比率が増えているとはいえ、その割合はほんの1%ほどで、本人の希望とは無関係に子供がいない女性の割合の方がずっと高いと見られる。また足元では過去にないレベルで未婚の割合も増えている様子が示されている(Figure 3)。現時点で15%ほどは50歳まで結婚していないわけで、この割合は実のところ日本とあまり変わらない。35歳時点での未婚率は3人に1人にまで達している。
 もちろん米国は日本に比べて未婚でも子供を持つ女性が多いのだが、実はその比率も足元では低下傾向にあるそうだ。Figure 4を見ると単身で子供のいない女性は1960年頃から70年代にかけて生まれた女性の間では減っているが、この理由は未婚で子供を産む女性が増えたためだそうだ。しかしこの動きも1980年代生まれ以降になると止まり、単身女性の増加がそのまま子供を持たない女性の増加につながるようになった。以上、男性に関するデータはないが、米国でも少子化の流れが足元で強まりつつあるのは確かなようだ。

 でも上記の記事には理由についての分析は書かれていない。Turchinの指摘もあくまで彼の推測にすぎないわけで、なぜ子供を持たなくなっているのかについて分かるのは「ほしくない女性が増えているわけではない」という程度だ。そこでもう一つ紹介したいのがWorkism and Fertility: The Case of the Nordics。題名にある通り北欧の国々に関する分析であって米国についての評価とは異なるが、先進国で起きている現象を知るうえで参考になるかもしれない。
 この記事の基本的な主張は、言ってしまえば「ワークライフバランスなぞ幻想にすぎん」というもの。仕事の重要性と家族の重要性は相互に排他的に働くものであり、女性が仕事を重視するようになるとその結果として子供が少なくなるという関係性があるのではないか、と指摘している。それを分かりやすく示しているのがFigure 3。仕事の重要性の変化(逆数)が高い、つまり重要でないという意見が増えているデンマークの出生率低下割合は最も少なく、逆に重要性が最も増しているフィンランドでは出生率が最も大きく落ち込んでいる。
 もちろんきれいな相関があるとまでは言えない。アイルランドやノルウェーは仕事の重要性がそれほど変わっていないわりに出生率が大きく下がり、オランダとスウェーデンは重要性の上昇に比べると出生率の低下が限定的だ。それでも一定の関係性があるように見えるのは事実であり、今や女性も含めて「仕事と家庭のどちらを取るか」の二者択一を迫られている、のかもしれない。
 北欧諸国ではこれまでジェンダー平等な社会こそが安定して出生率の高い社会を生み出すと想定して国づくりが行われてきた地域だと見られている。そして実際、少し前まではそれなりに高い特殊合計出生率を記録していた。アイスランドなどは2を超えていたし、他の国も1.8以上の水準に達していた。ところが2008年の金融危機以降になるとほとんどの国で出生率が1.8を下回り、フィンランドなどは1.5付近まで低下した。特定の国だけで起きている現象ならまだしも、横並びで下がるとさすがに懸念を持つ人も増えてくる。
 家庭を持たなくなった理由が仕事の重要性が増したことにあるのだとしたら、ワークとライフの両取りを目指すなどといった欲張った対応は難しくなる。仕事を捨てて家庭に生きるか、子供はなしにして仕事でのキャリア達成に力を注ぐか、その二者択一を女性が(あるいは男性も)迫られているわけで、さらに言えば「労働力不足による成長低下を受け入れる」か、さもなくば「少子化による共同体の緩やかな死滅を甘受する」のどちらかを選べという事態になっているのかもしれない。
 こういう話を見ているとどうしても思い出すのが、こちらで紹介したTainterの唱える複雑な社会の崩壊、つまり「限界利益の減った複雑な社会は放棄する方が経済的に合理的」という理屈だ。現代社会は複雑になりすぎ、しかも収穫逓減に見舞われているためにそれを維持するだけで社会の再生産すらおぼつかなくなるほど厄介なものになっているのではないか。以前は社会を回す役目を男のみが担っていれば回っていたのが、今や女も駆り出されるようになり、結果として再生産を担うものがいなくなってしまっているのではないか。そんな疑問も浮かんでくる。
 もちろん話はそんなに単純ではなく、実際にはもっと様々な要素が影響しているのは確かだろう。それでも仕事による自己実現と社会の再生産のための子供という2つの目的が、昔に比べて両立困難に見えてきているのは否定しがたい。もしもそうなら、不和の時代が終わって大衆のウェルビーイングに改善が見られたとしても、少子化はそう簡単には解消されないかもしれない。
 なお日本の場合、こちらで紹介されている会計検査院の「子育て支援策の出生率に与える影響」を見る限り、保育所整備や地価対策といった効果的な対策を打てば0.1ポイントくらいは特殊合計出生率が上がるかもしれないそうだ。逆に言えばその他の対策(児童手当など)は効果が薄く、また所得や女性の賃金上昇は出生率にマイナスらしい(北欧の分析と整合的)。要するに簡単な対策はないってことで、なかなか厳しい分析である。

 あと全然別のテーマだが、こちらで面白い論文が紹介されていた。オスマン帝国の徴集兵を対象に調べたところ、戦闘経験が協力行動を促進するという証拠が見つからなかった、という話だ。むしろ戦争体験は余所者の敵視と暴力の永続化につながるそうで、他に協力の必要性を高めるような経路がなければ、戦争体験だけでは向社会性をもたらすには十分ではないという。
 論文の詳しい中身は見ていないのでどう評価すればいいのかは判断しがたいが、気になるのは「協力の必要性を高めるような好ましい新古典派的な媒介経路」が具体的にどんなものを想定しているかだろう。前に紹介したが、Turchinは複雑な社会を生み出すメカニズムとして、戦争の強度などを原因として指摘している。だが戦争体験そのものは協力をもたらさないのだとしたら、複雑な社会を回す協力的な人間関係はそれこそ他の媒介経路を通って成立したと考える必要があるわけで、それが何なのかは当然重要になる。
 Turchinは別に個人的な戦闘体験がグループ内の協力関係を強めると主張しているわけではなく、外部紛争の中でグループ内では(不承不承であっても)互いに協力した方が有利になるような進化的メカニズムが働くと指摘している。その意味ではオスマン徴集兵の経験はTurchinの議論を直接に否定するものではないだろう。でもどんな経路を通れば協力関係が成立するのかが分かれば、それはそれで非常に勉強になるのは確かだ。誰かこの論文を読んで中身の解説でもしてくれないだろうか。
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