Managerialismを唱えたのは米国のJames Burnhamだ。
こちらにはジョージ・オーウェルがBurnhamの書いた「経営者革命」The Managerial Revolutionについて論評した文章が載っているが、最初に紹介した記事によればBurnhamは資本の所有者ではなく、その管理者(Managers)が支配する資本主義が米国に訪れるだろうと20世紀前半に予想したそうだ。つまり株主ではなくCEOたちが支配する資本主義、とでも言えばいいんだろうか。実際にはここで言う管理者には経営者だけでなく技術者や軍人、官僚なども含まれているそうで、彼は当時のニューディール政策の下でそれ以前の資本オーナーが権限を持つ社会から、規制当局も含め管理運営に当たる者が実権を持つ社会へのシフトを予想したという。
この件について最初の文章では、一連の騒ぎを通じて同社が雇用や解雇に至るまで一種の「公的なレビュー」下に置かれるようになっていると指摘する。必要な多様性目標を達成しているかどうかという観点で、企業のオーナーは自社の雇用についてまで「他の管理運営に当たる機関の査察プロセス」に従わざるを得なくなっている、というわけだ。この企業で言われている通りの事態が起きているのかどうか、正直私には判断できないが、以前
こちらで紹介した「社会問題解決法を売り込むNGOと、従業員への統制手段としてそれを歓迎する企業」という構図の一種と考えればありそうに思える話だ。
この現象について文章の筆者は、管理者たちが社会の様々な分野における実権を握ろうとする取り組みだと見ており、その際にWokeness、つまりお目覚め系的な主義主張が建前として使われている、と解釈している。その中で企業の所有者は外部の「コミッサール」の助けなしには自由な経営ができなくなってしまっており、つまり彼らの所有権は剥奪された状態にある。同じ傾向は人種的平等コンサルタントを雇ってコンテンツを作る流れができているハリウッドなどにもあり、そこではマイノリティの出演が奨励ではなく義務と化しつつある。
筆者はお目覚め系の主義主張そのものに対しては批判的だ。トランスジェンダーをもてはやす一方でトランスレイシャルを唱えた人物をのけ者にするなど、そのスタンスが「ソクラテス的な対話」から程遠いのが理由。だが、学術的な議論においてWokeのイデオロギーはほとんど役に立たない一方で、彼らは様々な組織のコントロールを奪う手法には長けている。様々な機関の特権を奪い取り、リソースにアクセスする能力はとても高いそうで、中には経営だけでなく政治問題についても有権者の判断に任せていいのかを判断する専門家を導入すべきだ、と言う者もいるらしい。
もちろん著者はお目覚め系の唱える建前をそのまま信じているわけではない。Turchinの名を取り上げ、これは過剰生産されたエリートによる社会の様々な分野への乱暴な介入策だと指摘。だが面白いのはここからで、米国で過剰エリートがこういう乱暴な手法に訴えているのは、スウェーデンのように彼らを政府が抱え込む体制ができていないからだと主張するのだ。スウェーデンは既に何の仕事をしているかよくわからない「コミュニケーター」を自治体が100人単位で抱えており、彼らに仕事を与える(作り出す?)代わりに彼らがアジテーターになるのを防いでいる、のだという。
一見するとこれは政府による賢明な政策、であるかのようにも見えるが、そうではない。筆者はスウェーデンのガソリン税がかなり高いことを指摘。そうした資金が上に述べたコミュニケーターのような人々を雇う原資になっているわけで、スウェーデンの過剰エリートたちはhighway robbery(追いはぎ)にならずとも政府に働きかけてガソリン税を上げれば高速道路から自分たちの収入源を奪うことができるのだ、と記している。そうした雇用先がない米国では、エリートたちがお目覚め系イデオロギーを利用し、管理主義という方法で所有権に介入(文中ではshakedown、つまりゆすりと呼んでいる)して自らの食い扶持を稼いでいる、というわけだ。
つまり先進国は米国だけでなく、どこも過剰エリートを食わせる方向へシフトしているという理屈だ。しかもスウェーデン式の国家丸抱えは地方の経営者や労働者に負担を押し付け、都市住民を助ける内容になっているという。だがこの状況は持続可能なのだろうか。おそらく違う、と筆者は書いている。EUでは燃料税への不満が各地で炎上しているし、米国では労働者たちが「専門家」の介入に抵抗し始めている。企業と管理主義的介入の関係はどんどん寄生的なものになっている。もしBurnhamが予想した管理主義が本当にピークを迎えているとして、ではそれはいつまで続けられるのだろうか、というのが文章の結論だ。
オチまで含めて前に書いた「お目覚め系は現代の修道院」という話と似通っているが、その時点では気づいていなかったスウェーデンの状況に関する説明は実に示唆に富む。言われてみれば確かに、Wokenessの唱えるイデオロギーは北欧のような福祉国家でも広く使われているし、同時にそれらの国が高い国民負担率で知られていることも確かだ。米国でNGOなどが導入している介入法は、北欧などでは既に国家が先導してやっていることにすぎないのかもしれない。国の権威をかさに着て介入するか、お目覚め系イデオロギーを振りかざすかの違いはあるが、どちらもエリート過剰を「お仕事のでっち上げ」によって吸収しようとしている点では同じだ。
何より筆者の指摘通りなら、エリートは自分たちの食い扶持を確保するため平気で所有権に介入し、労働者に逆進的な負担を課していることになる。正直、その手法の巧みさに私は感心した。いや感心するような話ではないと言われればそうなんだが、それにしても自分たちの食い扶持を稼ぐためなら世俗的啓蒙を換骨奪胎したイデオロギーを使いこなしたり、あるいは政府を上手く使ったりして、資本主義社会での基本的な権利とされる所有権すら都合よくコントロールしてしまうその能力には、マジ驚嘆するしかない。
同時に、かつてキリスト教に代表される枢軸宗教が世の中のスタンダードな道徳扱いされるようになっていった過程もこんな感じだったのかなと思った。そのイデオロギー自体は学術的とは言い難いが、組織を上手くコントロールしたり巧みな手法で色々なところに介入して自分たちの縄張りを増やしていく様が、例えば古代ローマでも行われていたかもしれないと考えると、何とも言えない気分になる。もしかしたら目先は持続可能性が低くとも、前回も書いた通り
長い目で見ると世俗的啓蒙が枢軸宗教のように人々の道徳をコントロールする時代がやってくるかもしれないわけで、シュールな話ではあるが同時に「俺は今、歴史的な変化を目の当たりにしているのかもしれない」という変な興奮も感じる。
それに、こうした「イデオロギーを道具に使いそうな過剰エリート」は、
足元でかなり社会の中に解き放たれている。かつてはアカデミズムの中に囲い込まれていた者たちも、今では世の中で食っていかなければならなくなっているわけで、そうなった時のエリートが見せる「社会支配力」とでもいうものは、実はかなり凄まじいのかもしれない。かつてローマの過剰エリートたちはキリスト教という当時の「お目覚め系」を棍棒に使って勢力を広げた。現代社会では世俗的啓蒙が新たに彼らの武器となり、米国では派手に、北欧では権威と手を組んで静かに、しかし着実に勢力を増している、のではなかろうか。
もちろん、終わってみると全然違うイデオロギーが世界に広まるかもしれない。あるいは再び高度成長時代がやってきて無理にエリート用のお仕事をでっち上げなくても済むようになるかもしれない。そうした可能性は常に頭の中に入れつつ、一方でこういう妄想的な未来予想を繰り広げるのも、それはそれで楽しいものだ。
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