1815年6月15日の情報 3

 Pierre de WitのThe Campaign of 1815の第2巻を使ったウェリントンが15日に得た情報についての分析続き。ブリュッヒャーがナミュールの司令部から正午に送り出した報告の到着によってウェリントンが知った内容は以下の4点だったと、de Witは指摘している。即ち、フランス軍が引き続きサンブル両岸を東へ向けて進んでいること、ツィーテンがフルーリュスまで後退することでシャルルロワからブリュッセルへの街道上からプロイセン軍が撤収する可能性が出てきたがまだ確定していなかったこと、プロイセン軍は第1軍団にカバーされながら翌日にはソンブルフに集結するつもりであったが会戦が16日になるか17日になるかは不明なこと、そしてブリュッヒャーがウェリントンの決断と集結地点について尋ねていること、の4つだ(p193)。
 de Witが書いている通り、目新しい情報はプロイセン軍がソンブルフに集まるつもりであり、そのために第2から第4軍団までがどう動くかについて記された分くらいだ。de Witは、ツィーテンが午前4時半から5時にかけて書いた第一報がナミュールの司令部に届いたのが8時から9時の間、6時半に書いた報告が11時までに到着したと見ている(p119)。となるとツィーテンがある程度詳しい状況を書き記した8時15分の報告は正午過ぎまで届かなかった可能性があるし、実際に正午のブリュッヒャーの手紙ではテューアンやゴスリーといったツィーテンの8時15分の手紙に含まれていた地名が入っておらず、この時点でツィーテンの8時15分報はプロイセン軍司令部に届いていなかったと見られる。
 一方、ブリュッヒャーがソンブルフへの司令部移転とそこへのプロイセン軍集結を決めたのは午前9時から11時の間と見られる(p149)。ツィーテンの第一報が届いたのが午前9時で、そのツィーテンに対し「あす軍をソンブルフ周辺に集めるつもりだ」との命令をブリュッヒャーが出したのが午前11時だったというのがその理由(p119)。正午時点のブリュッヒャーの手紙ではソンブルフへの集結の意図は書き込まれたが、各軍団がそのためにどのように動くかについては書かれていない。
 この正午の手紙が届いた時点で、ウェリントンは自分の担当する守備範囲内に引き続き兵力をとどめるように指示している。彼が心がけていたのは軍を集めておき、間違った動きはしないようにして、重要なブリュッセルとヘント(ルイ18世がいた)の2ヶ所を守ることだ(p194)。そしてこの追加命令を夜10時に出した後で、彼はミュフリンクとともにリッチモンド公の舞踏会へと向かった。彼らがそこに到着したのはおよそ真夜中頃と見られる(p177)。

 その次にプロイセン軍司令部からミュフリンクに宛てて手紙が書かれたのは、15日のずっと遅い時刻、おそらく午後11時頃だった。この手紙も実物は残っていないのだが、プロイセン軍司令部の記録リストで10時半と11時に出された命令の後に手紙が書かれたと記録されている。リストに書かれている文章は以下の通りだ(p125)。

「敵の活動について。ソンブルフへの各軍団の到着に関する情報。敵が我々の右側面を迂回しない限り、そこで戦いを受けること。ウェリントン公の意図について可能な限り早く知らせるよう」

 目新しい情報と言えるのはフランス軍がプロイセン軍右側面(つまり英連合軍との中間地点)を迂回することに対するプロイセン軍の懸念が記されている部分くらいだろう。それ以外のフランス軍に関する情報について、この時間帯にプロイセン軍が記していた他の報告書から推測できる内容をde Witは4つ指摘している。即ち、フランス軍5個軍団と親衛隊に対峙しているとプロイセンの幕僚たちが信じていること、シャルルロワを通りサンブルに沿ってフランス軍がフルーリュスへ前進していること、6月16日にはナポレオンがウェリントンとブリュッヒャーのどちらに向かうかが明らかになるであろうこと、そしてフランス軍がブリュッセル街道に沿って前進していると分かっていることからナポレオンが両連合軍の間を突破しようとしている印象があること、の4つだ(p150)。
 正午に出した手紙に比べるとかなり敵に関する情報が詳細になっているのは確かだが、一方でプロイセン軍自身の動きについて正午から午後11時までの間に全く情報が伝わっていない点をde Witは問題視している。彼の推測だとプロイセン軍司令部はおそらく午後2時にかけてナミュールを出発し、6時にはソンブルフに到着した(p122)が、そうした情報も、また第2軍団が翌朝までにソンブルフに集結するのは難しいという情報も、この午後11時になるまでプロイセン側からウェリントンに向けて発信されなかった。そして何より、この時点でもなおプロイセン軍が英連合軍の援軍を求めていた様子はないことが重要だ(p151)。
 前回紹介したミュフリンクが午後7時に書いた報告によると、ウェリントンは敵がニヴェールを攻撃しない限り、ブリュッヒャーを支援するかプロイセン軍を攻撃している敵の側面あるいは背後を突くつもりとされている。だがプロイセン軍の連絡にやたらと時間がかかっていたことを踏まえるなら、おそらくこの手紙は午後11時の時点でまだプロイセン軍司令部に到着していなかった。de Witのサイトに昔載っていたコンテンツによれば、おそらくこの手紙がブリュッヒャーの手元に届いたのは16日の朝(ただし時間は不明)だという。
 もちろんプロイセン軍が15日の午後11時に出した手紙がミュフリンクの手元に届いたのも16日の朝になった。ウェリントンはこの日、午前6時15分にブリュッセルを出発して南方へと向かい、ミュフリンクもそれに同行したのだが、おそらくはその出発直前くらいにこの11時の手紙が届いたと見られる。プロイセン軍の意図を知るうえでも、フランス軍の直近の動向を理解するうえでも、この手紙の到着は(ひいてはそれが書かれた時間は)遅すぎたのではないか、とde Witは見ている。

 特に問題となるのが、プロイセン軍が担当していたシャルルロワ地域から撤収した結果として、そこからブリュッセルへ向かう街道ががら空きになった点だろう。シャルルロワ北西にいたプロイセン第1旅団はフランス軍の攻撃を知ってブリュッセル街道上のゴスリーまで後退したが、そこでフランスの攻撃を受けて午後4時過ぎにはさらに東へと後退していった(p46)。結果、邪魔者がいなくなったフランス軍は街道をさらに北上。午後6時半にかけてフラーヌの村に接近し、この地にいた英連合軍の部隊と小競り合いを行い、これを村の北へと追い払った。
 ニヴェールにいたペルポンシェはブリュッセル街道で何が起きているかを調べるためガガーン大尉を送り出した。午後6時にフランス軍が街道上にいてプロイセン軍がそこから撤退したことを知ったガガーンは、戻ってペルポンシェに報告(p167)。プロイセン軍が担当していると思っていたセクターから味方が消え、ブリュッセルへの道がフランス軍の前に開かれていたのを知ったペルポンシェは、ブレーヌ=ル=コントの第1軍団司令部にガガーンを送って事情を知らせた。
 午後10時にこの話を聞いたコンスタン=ルベックは、ガガーンの報告を信じられないといった様子で受け取ったそうだ。「もしそなたがもたらした報告が正しいのなら、ウェリントン公はブリュッヒャー元帥からこれらの出来事を知らされているはずだし、それに従った対応をすぐに取るだろう」(p156)。だがこれまでも述べた通り、この時点でウェリントンが受け取っていた情報にはプロイセン第1軍団がフルーリュス方面に下がる予定だとは書かれていたが、実際に退却して街道から引き揚げたことはいまだ知らされていなかった。
 いずれにせよコンスタン=ルベックは大急ぎで「敵がキャトル=ブラまで押し出している」という報告書を書き、これをウェブスター中尉に預けて10時半にブリュッセルへと送り出した(p183)。もちろん実際には敵はキャトル=ブラまでは来ていなかったのだが、ブリュッセル街道上に敵がいるという情報はリッチモンド公の舞踏会場におそらく午前1時に到着。手紙を読んだオラニエ公はそれをウェリントンに渡し、目を通したウェリントンは「信じられない」という様子を見せた(p178)。
 ここまで書けば、舞踏会でウェリントンを驚かせたのが何だったかは分かるだろう。彼はナポレオンに騙されたと思ったのではなく、いるはずのプロイセン軍が早々に退却していたことに驚いたのだ。よく紹介されるNapoleon has humbugged meという台詞は、むしろPrussians have humbugged meにした方がいいかもしれない。
 ただしde Witによると、彼は本当はさして驚いていなかった可能性もある。実は他にジュナップやワーテルローにいたオランダ軍や政府の関係者もブリュッセルにこの情報を伝えており、もしかしたらそれらの情報もリッチモンド舞踏会にいたウェリントンに届いていたかもしれないそうだ(p179-182)。いずれにせよ、ウェリントンがシャルルロワ―ブリュッセル街道の重要性を理解したのが、やっと15日の真夜中かそれを過ぎた時間だったのは確かだろう。
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