1815年6月15日の情報 2

 ツィーテンの午前9時の報告がブリュッセルに届いた時刻について、ミュフリンクは1817年の時点では午後4時半、1851年に書いた回想録では午後3時と記している。どちらにしてもミュフリンクはすぐにこの知らせをウェリントンに見せたと思われる(Pierre de Wit第2巻、p223-224)。より古い史料の方が信頼度が高いとすれば、ミュフリンクがこの報告を手に入れたのは午後4時半であり、そうなると5時までにはウェリントンに見せることができたのではないかと考えられる。
 ところが、ヴュルテンベルクの士官であり、ウェリントンの司令部付としてブリュッセル(具体的にはミュフリンクの宿営している家の隣)にいたフォン=ヒューゲルが同日午後6時に書いた報告の中には、ちょうど今着いたばかりの情報としてミュフリンクがツィーテンの手紙を彼に読み上げたとある(p153)。これが正しいのなら報告の到着はミュフリンクの主張よりももう少し遅かった可能性もある。
 de Witはこのツィーテンの情報をウェリントンが受け取ったのは午後5時から6時の間ではないかと推測している(p227)。その理由となっているのは、後にウェリントンがこの日の情報について述べた文章にある。Supplementary Despatches, Correspondence, and Memoranda of Field Marshal Arthur Duke of Wellington, Volume the Tenthによると、ウェリントンはまずオラニエ公から「敵がテューアンのプロイセン軍を攻撃し、そこを奪い、プロイセン軍は後にバンシュを放棄した」との情報を得た。ツィーテンからの情報はその後になってミュフリンク経由で届いたという(p524)。
 この文章をウェリントンが書いたのは戦役からずっと後の1842年であり、その意味では信頼度は正直高くない。ただウェリントンとオラニエ公が食事をした時にフランス軍の前進についての情報が届いたという点については、直後にこの食事に参加した人物からそう聞いたという記録が残っているそうだ(de Wit, p345)。またオラニエ公がフランス軍の攻撃に気づいていたことはこの日の朝に彼がサン=シンフォリアンで記した文章に書かれているし(p159)、その後で彼がブリュッセルに移動してウェリントンに会ったことは彼がブリュッセルで参謀長に宛てて記した命令(p172)から確認できる。最初にウェリントンに情報を伝えたのがオラニエ公であるのはおそらく確かだろう。
 といっても、砲声からフランス軍の攻撃に気づいたと思われるオラニエ公が、ウェリントンにもたらすことができた情報はごく限られていた。de Witによれば彼は11時半にブレーヌ=ル=コントの司令部を出て午後3時にはウェリントンと合流したことになるが、その後を追うように午前11時半にマーレンの司令部からの報告がオラニエ公の司令部に届いた。前回も書いた通りマーレンの手元にはシュタインメッツからの情報が来ており、この報告ではその内容、具体的にはシャルルロワ方面から銃声が聞こえること、プロイセン軍がバンシュを撤収してゴスリーに布陣すること、必要ならそこからフルーリュスへ引き下がることなどが知らされている(p161)。
 オラニエ公がブリュッセルへ去った後にブレーヌ=ル=コントの司令部に残っていたコンスタン=ルベック参謀長のところにこの情報が届いたのは、おそらく午後1時半から2時の間だった。さらにもう1つ、マーレンから情報を得たモンスの指揮官ベーア経由の情報も午後2時までには到着している(p162)。英連合軍が割と密に連絡をやり取りしていたことが分かる。コンスタン=ルベックはこれらの情報をまとめて伝えるため、参謀副官のバークレー大佐をブリュッセルにいるフィッツロイ・ソマーセットのところへ送りだすことにした。午後2時にこのバークレーが書いた手紙にシャルルロワ、バンシュ、ゴスリーといった言葉が出てくるのを見ても、彼がシュタインメッツ由来の情報を持ってブリュッセルに向かったことは間違いないだろう(p163)。
 バークレーが運んだ情報については午後5時にはソマーセットのところに届き、そこからウェリントンに知らされたとde Witは見ている。この情報が届くまで、ウェリントンはプロイセン軍がバンシュから撤退したという事実は知らなかったわけで、彼がそれを知った後でツィーテンの情報を得たのだとしたら、その時間は午後5時より後になる、というのがde Witの理屈なんだろう。
 この理屈はどこまで正しいのだろうか。大元にあるのが数十年後のウェリントンの主張であるうえに、その中にはツィーテンの報告が来るまで分からなかったはずの「テューアン攻撃」の話が混ざり込んでいるなど、全面的に信用するわけにもいかない面はある。だが一方で前回も書いた通り、ヒューゲルが書いたリアルタイムの記録の中で午後6時にツィーテンからの情報が届いたとあるなら、最も信頼度が高いのはこの史料となる。どうやらツィーテンが書いた報告は、9時間近くかけてブリュッセルへ運ばれたと考えた方がよさそうだ。
 それにしてもこのde Witの分析が事実だとしたら、皮肉なことにプロイセン軍の情報のうち最も早くウェリントンのもとに届いたのは、最も下っ端であるシュタインメッツが送り出した情報だったことになる。彼の情報は英連合軍内で複数の中継点を経て午後5時にブリュッセルに到達し、その後を追うようにツィーテンの(シュタインメッツが参謀長を送り出したのと同じ午前9時頃に書かれた)情報がやって来たことになる。しかもルート的にはシャルルロワから直接ブリュッセルに向かうよりも遠回りになるブレーヌ=ル=コント経由だ。なかなかシュールな話である。
 ただし、この両者の時間差がその後の一連の流れに及ぼす影響は限定的だった。ウェリントンはシュタインメッツの情報では動かず、その後に届いたツィーテンの情報を受けて初めて各部隊に命令を出した。時間は午後6時から7時の間だったが、その内容については後世に再構成されたものしか残っておらず、原文は既に失われている(p173-174)。それでもウェリントンが元々予定されていた地点に各部隊を集結させたことは分かる。また午後7時にミュフリンクがプロイセン軍司令部に宛てて記した報告(p174)では、フランス軍の攻撃がジヴェから来るものと合流するか、あるいはフルーリュスとニヴェールの双方を攻撃するか、そのどちらかだとウェリントンが推測していたことも分かる。
 何しろこの時点でウェリントンのところに届いていたプロイセン軍からの情報はこの日の午前9時までにシャルルロワ近辺で起きていた事象のみである。プロイセン軍の動きについてもその全体像は不明で、ツィーテンの第1軍団がどう動くかしか分かっていない。そのためウェリントンは事前に決められた集結地点に集める以上のことは命じておらず、ニヴェール(英連合軍の担当範囲では左翼寄り)に兵をシフトさせるような行動は取っていない。この時点ではまだシャルルロワが陽動でモンス方面から本当の攻撃がくる可能性をウェリントンは捨てきれていなかったのだと、de Witは指摘している(p192)。
 細かく言うなら、ウェリントンはプロイセン側から要望されたと思われる「ニヴェールに軍を集めてほしい」という要望に十分には応じていなかった。しかし、これは無理もない。要望を出してきたのはプロイセン軍の司令部ではなくただの軍団長だったし、朝9時の時点でモンスの正面は静かであったとの情報は伝わっていたと思われる(p162)が、一方でフランス軍がサンブル左岸でも行軍しているとの情報も入っていた。この左岸のフランス軍がニヴェール方面に向かうか否かを見極めるまで、安易に部隊をシフトさせるわけにはいかないとウェリントンが考えるのも当然だろう。

 次に届いた情報は、ブリュッヒャーが正午にミュフリンク宛てに記した命令書だ。こちらは幸いにも文章が残されている(p120)ので、翻訳してみよう。

「敵は今朝4時半に攻撃を始め、サンブル両岸を大挙して前進している。ボナパルトと親衛隊がそこにいると言われており、後者は確実にいる。ツィーテン将軍は敵を監視し、可能ならフルーリュスよりも背後まで下がらぬよう命じられている。
 軍は明日、ソンブルフの陣地に集結する。公[ブリュッヒャー]はそこで戦いを受けるつもりだ。昨晩、3個軍団は以下のように集結するよう命令を受けた。第2軍団はオノとマジー、第3軍団はナミュール、第4軍団はアニュ。もし必要なら第2軍団は本日中にソンブルフまで、第3はオノまで移動する。司令部は2時間のうちにソンブルフへ移動する。私はそこで、ウェリントン公がいつどこに集結し、彼が何を決めたかについての可能な限り早い報告を待つ。ジュナップ経由の連絡線は今開いたところだ」

 この報告がミュフリンク経由でウェリントンのところに届いたのは午後9時半から10時の間だった(p192)。それを受けてウェリントンが出した追加命令(p176)では、ブレーヌ=ル=コントに集結する予定だった第3師団の集結地点をニヴェールに変えるなど、全体として少しずつ戦力を左にシフトさせている。といってもブリュッヒャーに接近するような動きにはなっておらず、またシャルルロワからブリュッセルへの街道上にあるキャトル=ブラについての言及はない。ウェリントンがこの時点で知っていた情報は何か、長くなったのでそのあたりは以下次回。
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