世に炎上の種は尽きまじ

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

 前にちょっと紹介した書物の訳者あとがきがプチ炎上したようで、出版社が12月5日に公開を止めた。だがこの行為はむしろ火に油を注いだ。Yahooリアルタイム検索で書名に言及した数は、5日の6件が6日には293件、7日には448件へと急増している。あとがき公開の翌11月16日には120件しかツイートがなかったのに比べると、はるかに大きな反応をゲットできたわけで、意地の悪い言い方をするなら炎上商法大成功、という状態だ。
 もちろんこんなおいしいネタを「不和の時代」に踊っている者たちが見逃すはずがない。さっそく公開停止に至る過程でのツイッター上の流れをまとめたtogetterが登場、したのはいいのだが、最初は公開停止された文章を著者のものと記してしまったようで、傍から見ていると「すわ煙が上がった」と見て飛びついたお調子者が一知半解のままガソリン投入目的でやっつけ仕事でまとめを作った、ように見えてしまう。いやあ改めて思い込みは怖いねえ。
 まとめ主だけではなく、他にも「もしかしたらいっちょ噛みしたいだけじゃないのか」と思える記事なりツイートなりがちらほらとネット上に見受けられる。いくつか紹介してみようかとも思ったが、さすがに読む方もうんざりするだろうと思って取り上げるのはやめた。とりあえず叩けそうなネタを見ただけでパブロフの犬のように叩きにかかる人々が左右両方にたくさんいるんだな、ということは分かる。嫌というほど。
 もちろん、この状況を憂う人もいる。一例が『「社会正義」はいつも正しい』についての、いくつかの雑感というエントリー。これを書いた人は以前に話題となった本の書評を書いているのだが、本人もいう通り真面目な内容紹介とその評価に終始している。それもあってか、エントリー主はこの本を巡る状況についてかなり眉をひそめているもよう。まともな議論もなしに「大量の『左寄り』の人たちが好き勝手に批判して、公開が停止されたら今度は大量の『右寄り』の人たちが好き勝手に騒ぐ」というこの構図自体が反知性的であり、イヤな気持ちになるという指摘には、お説ごもっともと答えるしかない。
 真面目な議論をしている人たちがいないわけではない。例えばこちらでは英語圏における物理化学系の学術誌で繰り広げられているキャンセルカルチャー論争に関連して、この本にも少し言及している。特にこの本自体に踏み込んでいるわけではないが、キャンセルカルチャー批判に対抗する言説としてconsequence culture、つまり「結果を引き受けるカルチャー」という言葉が使われ始めているなど、なかなか興味深い指摘が載っている。
 もう一つはこの本の著者らが関与した「フェミニズム版ソーカル事件」と言われる件に関連した論文を紹介したこちらと、その(ソーカル自乗とも呼ばれる)事件で使われた『わが闘争』論文に関して記したこちらのエントリーだ。件の本の筆者たちが応用ポストモダンと呼んでいる分野の学問的正当性に疑義を挟んでいるのに対し、このエントリーの筆者はそうした批判は本当に成立しているのかどうかについて論文を見ながら確認しており、必ずしも著者らの見解には同意していない。
 そもそもこの本自体、翻訳が出る前、およそ1年前から原著を読んで書かれた書評がネット上に存在しており、その時点で一定の関心を集めていた。はてなブックマークの反応を見ても、この時点で既に敵部族を叩くネタに使っている人が一定数いることが分かるが、一方で論理立った議論の材料として読み解こうとしている人もいる状態であり、本来なら後者のような読まれ方をするのが適当な本だったんだろう。
 でも現状はそういう印象はない。1年前から、いやそれより前から日本でも不和の時代が進んでいることははっきりしていたが、足元でその状況が少なくとも改善していないと思わせるには十分な事態だ。そもそも議論の中身に踏み込まず、いやもしかしたら書かれている内容を十分に読み込むことすらないまま、例えば翻訳者の名前とか出版社が公開を停止したという事実だけに反応して脊髄反射的に批判している人がいるように見えてしまうレベル。こちらで指摘されている「日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない」の実例がここにあるのでは、と疑いたくなるほどだ。
 こちらでもちょっと指摘したが、エリート志望者が増えすぎてエリートになれない人が増えてくる(いわゆるエリート過剰生産)と、彼らはエリートになるために真っ当ではない裏道を通り、所謂「対抗エリート」と呼ばれる存在になる。対抗エリートは本来のエリートたちに比べれば能力に欠けている可能性が高い(能力があるなら対抗エリートたちを蹴散らして真っ当な方法でエリートになればいい)が、エリート候補になるくらいの能力はあるはずだ。だが裏道に行った人たちの中には陰謀論に傾倒する人物もいるわけで、エリートの地位を熱望しながらエリートになれない人たちは、そういう読解力に欠けた思考法と親和性を持ちやすいのかもしれない。本来なら知性を持っている人物でも、不平不満がたまると冷静な理解力が失われていく、ということだろうか。
 頭に血が上るとまともな判断ができなくなるのは世にありふれた事象だし、だからそういう人たちが存在すること自体は謎でも何でもない。でもそんな人が増え、そんな人ばかりになってくると、さすがにうんざりする。今回の件も然りで、言っちゃ悪いがよくもまあ飽きもせず似たようなネタにここまで予想通りの反応を繰り返せるものだと思う。というかそういう人がむしろ増えているように見えてしまうのが今の状況なわけで、冒頭に紹介した芭蕉の句の通り、「やがて悲しき」という状態が訪れている。こんなところまで米国の真似をしなくてもいいのに。

 とまあグダグダ述べたが、私自身は話題になっている本を読むつもりは全くない。応用ポストモダン批判やそれに対する反論は、中身が理性的でありさえすればいくらでもやって問題ないと思うが、それに参加したいとは欠片も思わない。なぜなら、前にも書いたが、そこで論じられるのは「こっちの看板が本家だ」「何を言う、こちらの看板こそ元祖だ」という、私にとってはどうでもいい内容にしか見えないからだ。看板、つまり建前に関する議論をいくら分析しても、そこから店の中身を改善する策が出てくるとは思えない。
 見るべきは看板ではなく店の中身。そしてこの点では足元、右派も左派も店の中は基本同じだ。どちらも不平不満にあふれたエリート志望者が、チャンスさえあれば敵対部族に、いや時には味方の部族にも見境なしに噛みつき合っている修羅場が繰り広げられているわけで、そこには目新しさも前向きさもない。そんな状況でもなお噛みつき合いを続けるのは正直言って不毛な行為にも思えるが、それを不毛と思わないくらい執念深くないと対抗エリートにはなれないのだろう。
 一方でこうした騒ぎが起きると野次馬が集まるのはいつの時代も同じ。今回も騒ぎのおかげで件の本の知名度はかなり上がったと思われる。いやそもそも私自身、さっそくこの騒ぎに便乗してブログを1本仕立てているのだから、他人をどうこう言える資格はない。それどころか過去のエントリーを見れば大量の「不和の時代」関連記事が見つかるはず。何とかと喧嘩は江戸の華、じゃなくていつでもどこでも華なのかもしれない。
 とはいえこれだけ相次ぐとさすがに鼻白む気持ちもある。それに頻度が高まれば飽きもくる。不和の時代が続く限りこの手のエントリーがこのブログから消えることはないだろうが、目先はちょっと違う話にもシフトしたい。と言うわけで次回はまたワーテルロー戦役の話に戻る。
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