1815年6月15日の情報 1

 Pierre de WitのThe Campaign of 1815(第1巻と第2巻)を読んだところで、もう一つ改めて確認しなければならない部分が出てきた。戦役が始まった15日に、フランス軍の攻撃をウェリントンがどのように知ったのか、という部分だ。以前、フランス軍の侵攻時に、プロイセン軍に比べて英連合軍の集結が遅れたのは、ウェリントンが自信過剰だったためではないかとの見方を示した。彼が「フランス軍が攻めてくる可能性は低い」と見ていたのは事実であり、だからそういう面がなかったと否定するのは難しいだろう。ただし、これがメインの理由であったかどうかは見直す必要がある。
 英連合軍の反応が遅れた理由としてde Witが強調しているのは、プロイセン軍からの連絡が不十分かつ遅れ気味だったという部分だ。この点についてはこちらで、いささかプロイセンに対して厳しいのではないかと書いた。プロイセン軍の集結についてハーディングが14日夜に記した報告が15日の朝にはウェリントンの下に届いていたのだから、その時点でウェリントンも何らかの対応を取れたのではないか、というのがその論拠、だったのだが、改めてよく読むと実はこれ、かなり恥ずかしい私の勘違いであった。
 ハーディングが出した報告書の内容は第1巻のp252に載っている。彼がこの文章をナミュールにあるプロイセン軍の司令部で記したのは、14日午後10時。その内容を日本語に翻訳すると以下のようになる。

「ちょうど届いたばかりのツィーテン将軍からの本日の報告には、今朝時点のベルギー軍のマーレン将軍からの手紙が同封されていた。そこで彼は、モブージュに集められた兵が8日分の食糧を秣を与えられたうえで、そこからボーモンへの道へと移動していると述べていた。
 ツィーテンが報告を書いた時(本日の正午か午後1時と推測される)、彼は右翼側での敵のどんな動きについても知らせを受けていなかった。彼が報告した軍隊の野営の火は、前夜、ボーモン近くのティモンと、またミルベ周辺の方角で見られたものだった。昨晩の間に前線から報告が届いたブオナパルテあるいは親衛隊のアヴェーヌへの到着については、さらなる言及はなかった。
 グナイゼナウ将軍は、セダンのティオンヴィル周辺及びメジェールから12日に第4軍団の2個師団が到着したという情報を様々な方面から受け取ったことについて認めた。
 クライスト将軍の軍団はアルロンへ差し向けられた。必要であれば第3軍団はシネー周辺から14時間のうちにこの地点に集めることができるし、第4軍団はリエージュからアニュへと移動する準備をしている。
 ブオナパルテは攻勢作戦を始めるつもりだというのが、ここ[プロイセン軍司令部]で広まっている見解のように思える」

 見ての通り、ハーディングが知らせたのはプロイセン軍が「集結を始めていた」という話ではなく、「必要であれば」In case of necessity集結することができるという内容だ。彼がこの報告を書いた時点でプロイセン軍司令部は各軍団を集結させることを考えてはいたが、実際にはまだ集結命令は出していなかったと解釈できる内容である。なんでこれを「集結そのものについて報告した文章」と読み違えてしまったのかは自分でもよくわからない。いやー思い込みって怖い。
 そして実際、プロイセン軍が第2、第3、第4軍団へと集結命令を発したのは、ハーディングの報告よりも後だった。具体的には第3軍団が午後11時半で第2、第4軍団が真夜中だ(p253、474)。ハーディングの報告がこれより後に書かれたものであり、プロイセン軍が集結を始めていることを伝えたものであったなら、ウェリントンがそれに対応しなかったのは彼の落ち度と言えるかもしれない。だが午後10時時点の報告では、あくまで必要なら集結するというプロイセン側の準備状況を知らせたものにすぎず、これを読んでフランス軍の攻撃に備えろと求めるのは難しいと言わざるを得ない。
 となると、このハーディングの報告以降にウェリントンのもとにどのような順番でどこから情報が届いていたかこそが重要になる。そしてこの点を見ると、de Witの指摘にも頷ける部分が多々あるのは間違いない。英連合軍の初動が遅れた要因の中には、プロイセン軍の幕僚業務に存在していた欠陥と、それに伴う不十分な連絡が、確かに含まれている。

 de Witのまとめによると、プロイセン軍が各軍団の集結を命じた14日深夜(15日午前零時)以降、15日のうちに英連合軍(具体的には連絡将校として英連合軍司令部にいたミュフリンク)に宛ててプロイセン軍から送られた情報は、実はたった3つしかない。午前9時頃に第1軍団長のツィーテンが書いたもの、正午にブリュッヒャーが書いて司令部から送ったもの、そして午後11時にブリュッヒャーもしくはグナイゼナウが書いたものだ(第2巻、p155)。フランス軍の攻撃が始まったという大事なタイミングにしては、あまりにも数が少ないのは確かだ。
 それ以外に両軍の間でやり取りされた情報として確実なのは、プロイセン軍の最右翼にいた第1軍団の第1旅団長であるシュタインメッツが、隣接する英連合軍の指揮官であるマーレンのところに参謀長を送り出した件がある(p95)。参謀長が送り出されたのはおそらく午前9時頃で、11時頃にはプロイセン軍が攻撃を受けているという話がマーレンに届いたと見られる(p161-162)。とはいえこちらは旅団長(他国で言えば師団長)レベルの情報のやり取りであり、戦況の全体像を伝えるようなものとは思えない。上で紹介した3つの連絡に比べて参考度合いはどうしても低いだろう。でもまあ、一応これもプロイセン軍から英連合軍への情報ではある。
 というわけで、この計4つの情報についても確認しておこう。まずはツィーテンが午前9時頃にミュフリンクに宛てた報告だ。といってもこちらに記したように、その原文は残っていない。ただその直前(午前8時15分)に彼はブリュッヒャー宛てに以下のような報告を記している。

「敵は既にテューアンを奪い、哨戒線をモンティニー=ル=ティルールまで押し戻した。彼らはまたサンブル左岸にも沿って前進している。単一の激しい遭遇戦を行なうには相手は強すぎ、いよいよ第1及び第2旅団はゴスリーとジリーの線まで下がらざるを得なくなった。
 ナポレオン自身も全親衛隊とともにそこにおり、敵の本格的な意図はこの方面にあると見られる。
 敵は特に騎兵が強力だ。テューアンを守っていた戦力は多くの負傷者を出した。
 私はこれらすべてをウェリントン卿に報告しており、昨日フォン=ミュフリンク将軍から受け取った報告によると彼が意図しているというニヴェール近くへの集結を今から求める。
 1815年6月15日、シャルルロワの司令部から
 午前8時15分
 到着したばかりの報告によると、敵はこれまでもはやナランヌ経由の道沿いには前進していない」

 この報告を基に、de Witは午前9時にツィーテンが書いた報告には少なくとも以下の情報が含まれていただろうと推測している(p91)。

・テューアン陥落とプロイセン軍のモンティニー=ル=ティルール方面への退却
・フランス軍がサンブル右岸と左岸で前進していること
・ナポレオン自身と親衛隊の存在
・ニヴェールとその周辺に軍を集めてほしいというウェリントンへの依頼
・プロイセン軍が集結する時間を稼ぐためのフルーリュス方面へのゆっくりとした退却

 ミュフリンクはこの報告が自分の手元に到着した時間について複数の史料を残している。1817年に書かれたGeschichte des Feldzuges der englisch-hanovrisch-niederlandisch-braunschweigschen Armeeと、ずっと後の1851年に書かれたAus meinem lebenなのだが、それぞれ書かれている時間が違っている。それも含め、一体この報告は何時頃にウェリントンのもとに届いたのかについては、長くなったので以下次回。
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