今回の論文では、これまでにあった様々な仮説を使い、現在の経済的繁栄をもたらした経路がどのようなものでどこまで遡れるかを調べている。具体的には高いGDPをもたらす要因としての社会的予測因子2つ、歴史的予測因子3つ、そして生態的予測因子2つとの関係を様々なデータを使って調べたようだ。その予測因子についてはFig. 1に載っている。つまり社会的予測因子が「制度の質」と「身内びいき」、歴史的予測因子が「国家としての歴史」「先祖の欧州人割合」「農業開始タイミング」、そして生態的予測因子が「病気」「緯度」だ。
もちろんダイアモンドの
「銃・病原菌・鉄」 も仮説の1つとして挙げられている。具体的には農業を始めるタイミングがGDPにつながる部分と、またそれが国家の形成(歴史)をもたらす部分だ。あるいはマクニールの
「疫病と世界史」 も、病気が欧州人の広がりに影響を及ぼした点を指摘している。これらの仮説を並べると、各要因間の因果に関する「矢印」が実に数多く形作られているのが分かるだろう。
だが仮説はそのままでは仮説でしかない。各「矢印」がどれだけ実際のデータで裏付けられるかを調べたのがこの論文だ。GDP以外に、制度の質については世界銀行の統治指数(所有権や契約履行といった法の支配の度合い)、身内びいきについては世界経済フォーラムなどの3種類のデータ、先祖の欧州人割合については2000年時点の住民を対象にその祖先が1500年時点で欧州に住んでいた割合、国家の歴史は紀元1年から1500年までの国家レベルの政府の存在、農業開始は実際の農業開始からの年月、病気は20世紀半ば時点での疫病の流行度合い、そして緯度は国家の地理的な中央部の位置を使って、統計的に分析している。
実際に分析するに際しては現代の国家単位で調べており、他にも語族を使って歴史を共有している影響を反映させるなど、色々と工夫はこらしているようだ。分析結果についてはTable 3に細かく紹介されているが、全体像を知るうえではそれよりもFig. 2を見るのがいいだろう。Fig. 1ではあれだけたくさんあった矢印が大きく整理され、非常にシンプルが図像になっているのが分かる。それを見ると根っこにあるのは「緯度」であり、そこから大きく2つのルートを経て最終的にGDPにたどり着く様子が窺える。
具体的にはルート1が緯度から農業、国家歴史、制度の質を経てGDPへと至るルートだ。というかGDPとの間に強い相関を持っているのは制度の質のみであり、これを経由しないと高いGDPを達成できない、とも解釈できる(一応、祖先の欧州人割合からも矢印が伸びているが、破線になっているのを見ても分かる通り統計学的に有意とは言えない)。第2のルートはやはり緯度から欧州人先祖、身内びいき(の低さ)を経由して制度の質につながるものだ。逆に有意ではないルートを通らなければGDPにたどりつけない要因として病気がある。
ざっというと以下のような流れだろうか。緯度は生物相を定める大きな要因であり、必要な
生物相 が存在する地域でまず農業が生まれる。農業社会はやがて国家という社会体制を作り上げ、その国家が時間を経るにつれて質の高い包括的な制度を作り上げる。一方、自力で国家を作るところまで行かずとも、中緯度地方の中には欧州人の植民を経て外生的な社会ができ、その社会は身内びいきの低さを通じてやはり制度の質を上げる。前者のルートは
Turchinらの言い分 に従えば「一次的」及び「二次的」な社会の通った道筋であり、後者は「征服」によって出来上がった社会、と考えればよさそうだ。
他に有意ではないが限定的に支持される相関としては疫病から身内びいきへ、欧州人の祖先から制度の質とGDPへ、そして国家の歴史から身内びいきへと伸びる矢印がある。うち2つ目は
こちらのエントリー で「筋がよくない」のではと感じていた仮説と符合しているものの、裏付けとしては不十分ということだろう。国家の歴史と身内びいきとの関係はそれに比べると筋が通っているようにも思えるが、いずれにせよ有意でない関係にあまり大きな意味を持たせない方がいいのだろう。
既存の仮説を取り上げ、それらをデータで確認するという手順はTurchinがよくやっているものと同じだ。
CurrieはTurchinと一緒に論文を書いたりしている ので、こういう取り組みをするのも別に珍しくはないだろう。またSeshat関連の論文の大半において、複雑な社会の成立までの経緯は色々と分析しているものの、そうした社会のさらなる発展まで視野に入れた分析はあまりない。この論文のように足元の経済的繁栄までの経路を調べようとしているものは、そうした欠落を埋める機能を果たすことになるわけで、その点でも興味深い。
とはいえ経済的繁栄に「制度の質」が重要という結論は微妙な感じも受ける。もちろん、ここで言う「制度」とは文字通りの制度というより、囚人のジレンマにおける「協調関係」を成立させるような包括的な仕組みを意味するのであり、そういった仕組みは単なる決まり事というより経路依存によって作り上げられた慣習にこそ基盤を置いている、と考えるべきだろう。例えば日本においてタバコのポイ捨てといった行為は、かつての「当たり前」から今では「明白なマナー違反」にまで変化している。吸い殻なら単なるマナーの問題だが、これが様々な経済活動に関するルールとなると、どこまできちんと守られるか次第によって社会全体にもたらされる限界利益も変わってくるのだろう。
つまるところ「制度の質」とは、その社会のメンバーが
高い限界利益をもたらす複雑な社会 をきちんと回す能力を持っていることを示すメルクマール、と考えてもいいのかもしれない。複雑な社会が国家を形成するところまでは2つの閾値で考え、そこから後は「収奪的な仕組みを抑制し、より包括的な仕組みにすることで限界利益を上げる」方向に進めるかどうかがキモ、ということだろうか。だとすればそうした流れは
枢軸宗教 の登場以降、ずっと続いていると解釈することができそうだ。
枢軸宗教ができると社会は次第により格差の小さい、包括的な方向へと進み始める。ただしこれもゆっくりと時間をかけた変化であり、その間に社会の「制度」もより包括的なものへとシフトしていく。足元では古くからの枢軸宗教はむしろ収奪的な側に取り残され(たとえば
足元のロシア正教 )、より包括的で格差の小さな社会を主張する
世俗的啓蒙 の方が高い経済性を獲得できるルールと親和的になっている……。そんな流れによって今の世界が出来上がってきたと想像できる。
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