最近のWoke(お目覚め)関連の記事で面白かったのが、3回にわたって取り上げられていたピンカーのインタビューだった。
1回目でいきなりWokeやキャンセルカルチャーの話をしている。以前も紹介した
ピンカー自身を対象にしたオープンレターについても質問しており、ピンカーは「アメリカのアカデミアに所属する人々…とく若い人々…の知的な水準が下がっていることを示す、由々しき事態」と辛辣な返答をしている。まあ「自分たちの気分を良くする特定のドグマを無条件に正しいものと認定」するような態度が広まっていると思えば、そのくらいの皮肉も言いたくはなるだろう。
また白人特権を含む批判的人種理論についても話が行われている。教育現場でそうした考えが教えられている点を左派が否定していることについてピンカーは批判的だ。ただし教えてはいけないと主張しているわけではなく、カリキュラムは民主的なプロセスで決めるべきだと述べている。少なくとも政治家によるカリキュラムの禁止についてはかなり否定的で、このあたりは彼のリベラルな姿勢を示している部分だと言えそうだ。
2回目はマルクス主義やアナーキズムについて取り上げている。ピンカーはこうした主張に対しては批判的で、例えば無政府状態だと政府があるよりも死者が増えやすいといった指摘をしている。このあたりは
彼の著作でも指摘されていたところで、目新しさはない。またグレーバーらの本(
こちらで書評を紹介している)について、さらに性善説を唱えている本(
専門家の書評でフルボッコにされていた)について、どちらもかなり手厳しく批判している。
面白いのは「知識人がマルクス主義を好む」理由についての説明。市場経済は知識人がトップダウンで経済を操作する余地を与えてくれないし、多くの人がかかわった結果として自生的な秩序が生まれるという考え方に基づいており、知識人には受け入れがたい。理論によって社会を理解しようとする人にはマルクス主義の方が向いているのではないかと、ピンカーは話している。また
道徳主義の誤謬にも触れ、知識人は希望と事実を混同してしまう誤りを犯してしまいがちだとも述べている。個人的にはマルクス主義もアナーキズムも性善説も
単なるエリート内競争で使う「建前」にすぎないと思っているが、左派が好む建前の傾向みたいなのがあるのは確かだろう。
3回目になるとハイトの唱える「傷つきやすさ」についての議論が出てくる。こうした
「甘やかし」の話は最近は色々なところで触れられているが、ピンカーは他人をキャンセルカルチャーで攻撃し、沈黙させ、懲罰するのは傷付いた人々による反応ではないと批判している。自分を弱者のポジションに置くことで他者を攻撃するという行動が足元で増えている印象があるのは確かだし、そういうことをする人を本当に弱者と呼んでいいのかという問題があるのもその通り。一方で歴史的に見ていつから弱者が「強い立場」になったのかも知りたいところ。例えば
枢軸宗教が盛り上がった時代にはそういう傾向はなかったのだろうか。
あとは合理性に関する議論と、そして最後には質問者の関心もあるんだろうが「動物の権利運動」に関する話も載っていた。この動物の権利については正直私には理解不能な世界。そもそも動物の権利と言いつつ、例えばゴキブリやハエ、ノミ、ダニといった動物についての権利を云々している人を見かけた記憶はない。つまり実際には動物の中に恣意的な境界線を引いてその中と外で差別的な主張をしているようにしか見えないのだ。それに動物の権利を認めるのなら、なぜ植物の権利は認めないのか、あるいは原生生物(ミジンコやマラリア原虫)に権利はないのか、バクテリアはどうなる、ウイルスは、などといった疑問も浮かんでしまう。我々ヒトも進化の中で生まれてきた存在にすぎないのだから、自らの繁殖にとって重要なヒトの権利はともかく、それ以外の権利まで踏み込もうとするのは傲慢ではないかと思えるのだ。
閑話休題。ピンカーの議論は全体として左派ではないリベラルの最大公約数的なものに見えた。学者だけあって合理性を重視しているし、理性に基づいた社会運営に信を置いている様子もうかがえる。アカデミズムの中に増えている左派に対する批判は厳しいが、だからといって政治家が教育に介入するのはよくないと述べているように、右派を支持しているわけでもない。そういった意味からも真っ当な主張と言っていいんじゃなかろうか。真っ当すぎて、今の過当競争下にあるエリートたちの中では「勝ち組」以外に役に立たない議論とも言える。ピンカーのように功成り名を遂げた学者はそれでいいが、ピンカーのレベルまで到達できないアカデミズムのエリート志望者たちにとって、同じことを言っても自分の成功にはつながらないように見える主張でもある。
ピンカーの言う通り、足元で見られる左派の主張は非合理的なんだろう。だがそれは議論の中身を分析した結果の指摘であって、実際にそれを唱えている面々にとっては合理的な行動だとも考えられる。つまり彼ら彼女らが行っているのは、エリート内競争で勝ち上がるために競争相手の多い王道を避け、裏道を通ることでライバルの少ない分野で勝者になろうとする戦略なのだ。高校球児が大都市部を避けて進学し、地方の県予選に行くのと同じ。結果として甲子園に進めるのならそれは成功といえる。だとすると、いくらピンカーが真っ当な批判をしても、彼ら彼女らがそれに聞く耳を持つとは思えない。
同じことは
こちらに翻訳者の解説が載っている本についても言える。こちらの著者たちがどういう立場の人間か私は知らないが、そこで批判されている社会正義運動のおかしさについては、おそらく指摘されている通りの部分があるのだろう。「大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される」といった現象がおかしくない、と考えるのは難しい。
この本の目新しい部分は、そういった奇妙な主張をしているように見える社会正義運動が、昔のポストモダン思想に源流を持つという指摘だろう。ポストモダンについて「無意味な相対化と極論と言葉遊び」としている点は、
ソーカル事件などを思い浮かべる限り頷ける。このポストモダンには一方で社会運動家たちが飛びつくようになり、彼ら彼女らはそれを利用してキャンセルカルチャーを生み出すに至った、のだそうだ。
この社会正義の世界では「弱者アピールが何よりも正統性の根拠となる」というあたりはピンカーの指摘も思い出させる部分だ。だがそれが行き過ぎているため、足元ではむしろ差別をなくすことは弱者の特権性を潰すことにつながる、という議論も出てきているらしい。「差別をなくすために差別を温存すべき」という素っ頓狂な議論につながりかねない思考法だそうで、そりゃまあ批判もされるだろう。
ただこの批判が話題になった結果として、最近ではむしろ右派が「穏健な人種差別教育や多様性教育の抑圧」のためにこの本で使われたレトリックを活用するようになっているらしい。これもピンカーの指摘にあった通りで、つまり政争のためのツールとして社会正義を左派も右派も使うようになっているわけだ。実に
不和の時代らしい光景、なんだが、
こうした議論に触発されたのでは思われる人死にまで実際に出ているのだから、ちょっとシャレにならない。
一方、日本に及ぼす意味についても翻訳者は言及しているが、足元で起きているキャンセルカルチャーは「本音の私的な遺恨や派閥抗争がだらしなく透けて見える」状態と見ているようで、要するにアメリカほど事態は悪化していないという。ただそれでも「怪しげな理論の先鋭化と暴走が現実的な問題を引き起こす可能性」はあるわけで、それに備える意味で知識を身に着けておくのは無駄ではない、というのがこの本を売るためのキャッチコピーとなっている。
基本的に書かれていることに違和感はないのだが、でもこの手の本を見るたびに「ただの看板について論じることにどのくらいの意味があるんだろうか」という感想はどうしても浮かんでくる。ポストモダンも、社会正義運動も、ピンカーが批判していたマルクス主義やアナーキズム同様、しょせんは「建前」じゃなかろうか。それまで支配的だった思想(アメリカであれば資本主義と自由主義)を受け継ぐだけでは地位を得られないと思ったエリート志望者が、単に手近にあった他のオプションとしてそうした左派思想やポモに飛びついただけ。エスタブリッシュメントの批判さえできれば、彼らにとって理論の中身はどうでもよかったのだと思われる。
確かに社会正義を唱える連中や、それに反発する者を相手に、どこが正当でどこがおかしいかと論じるうえで、この手の知識は役に立つだろう。でも議論は事態の解決と同義ではない。というよりも今の時代だとむしろ議論は不和の増大をもたらすだけに見える。例えば
Turchinの予測モデルを使い、不和の原因となっている構造的問題を解決する方がよほど意義がある、と考えることはできないのだろうか。もちろんTurchinの説が間違っている場合、こうした取り組みは無駄に終わるわけだが、看板として掲げているだけの建前について
ああでもないこうでもないと論じるよりは実効性が期待できるだろうに。
スポンサーサイト
コメント