前に1796年のドイツ戦役に関するナポレオンの解説を紹介したが、今度は1800年戦役について同じことをしよう。これまたセント=ヘレナでナポレオンが口述したものが、Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. I"http://books.google.com/books?id=HQgBAAAAYAAJ"のp159からp189に紹介されている。
1795、1796、及び1797年の戦役計画の欠点。
フランス共和国は1795、1796、及び1797年戦役の間、ライン河沿いに3つの軍を維持していた。北方軍はアムステルダムに司令部を置き、2万人のバタヴィア[オランダ]兵と同数のフランス兵で構成されていた。2つの共和国間に存在する条約によりオランダ共和国は国家防衛のため2万5000人のフランス軍を維持することになっていた。この4万から4万5000人の軍はスヘルトからエムスまでのオランダの海岸と、そして陸地側ではヴェーゼル対岸に至るまでの国境を防衛していた。2番目のサンブル=エ=ムーズ軍は司令部をデュッセルドルフに置き、メンツ[マインツ]とエーレンブリーステン[エーレンブライトシュタイン]を封鎖していた。3番目のライン方面軍の司令部はストラスブールにあった。彼らはスイスに拠り、フィリップスブルクを封鎖していた。
北方軍は実際にはオラニエ家の党派を脅かし、イギリスがオランダに兵を上陸させるあらゆる試みに対抗するのが目的の単なる監視軍だった。バーゼルで締結されたプロイセン、及びヘッセン家とザクセン家との間で結ばれた講和により、北部ドイツ全域には平和が確立されていた。
プロイセンが連合軍の一部を構成している限りは必要であったサンブル=エ=ムーズ軍は、フランス共和国がオーストリアに対しドイツ南部に於いてのみ戦争をするようになってから不必要になった。1796年戦役においてジュールダン麾下のこの軍はマイン河を進軍し、ヴュルツブルクを奪い、レードニッツ川に陣を敷いた。左翼はボヘミアの入り口であるエグラに拠り、一方右翼はドナウ渓谷に進出していた。ストラスブールから進軍したモロー麾下のライン方面軍はシュヴァルツヴァルトとヴュルテンベルクを越え、レッヒ川を渡ってバイエルンに入った。このライン方面軍とサンブル=エ=ムーズ軍という2つの軍が互いに独立して行動する2人の将軍麾下で機動していた一方で、彼らに対峙するオーストリア軍はカール大公の麾下に一つにまとまっていた。彼らの戦力はドナウ河のインゴルシュタットとラティスボン[レーゲンスブルク]に集められ、[2つの]フランスの軍の間に布陣して彼らの合流阻止に成功した。カール大公はサンブル=エ=ムーズ軍右翼を指揮するベルナドットを破り、ヴュルツブルクへの退却を強いて、遂にはラインを再渡河させるに至った。ライン方面軍は、このカール公のサンブル=エ=ムーズ軍に対する進軍の傍観者にとどまった。既に手遅れになった時、モローはジュールダンを支援するためドゼーにドナウ左岸へ渡るよう命じた。このライン方面軍の将軍に於ける決断力の欠如は、すぐにこの軍に退却を余儀なくさせた。彼らはラインを再渡河し、左岸の当初の陣に戻った。かくして2つのフランス軍に対してかなり劣勢だったオーストリア軍は、本格的な交戦に至ることもないままフランス軍が戦役のために立てた計画全てを崩壊させ、ドイツ全土を再征服した。
フランス軍の計画は防御面でも攻撃面でも同様に欠陥があった。オーストリアのみと戦うことになった瞬間から、彼らは1つの連絡線を持ち、たった1人の指揮官が指揮する唯一の軍を持つべきだった。
1799年、フランスはスイスの宗主国だった。2つの軍が作られた。1つはライン方面軍と、他方はエルヴァシー[スイス]方面軍と呼ばれた。後にドナウ方面軍と呼ばれた前者はジュールダン麾下にあり、ラインを渡り、シュヴァルツヴァルトを越え、そしてシュトックアッハに到着し、そこでカール公に敗れ、ラインを再渡河することを余儀なくされた。その間、エルヴァシー方面軍はスイス全土を支配し、その陣を動かなかった。かくしてフランス軍はまたも唯一の軍を持つべき時に2つの独立した軍を持つという失敗に陥った。そして、ジュールダンがシュトックアッハで敗れた時、彼はストラスブールとブリザックではなくスイスへと後退するべきだった。後にライン方面軍はストラスブール対岸[ママ]の左岸守備を任せられ、共和国の主力軍となったエルヴァシー方面軍はスイスの一部を失い、しばらくの間リンマット川にとどまった。しかし彼らはマセナの指揮下、同様に自らの2つの軍に分けるという連合軍の失敗に乗じてチューリヒでロシア軍を破り、スイス全土を奪回した。
1800年1月、このエルヴァシー方面軍はスイスに駐屯していた。ルクルブ将軍麾下の下ライン方面軍はライン左岸で冬営していた。ブリュヌ麾下のオランダ方面軍はヨーク公の最後の師団が搭乗するのを見守っていた。(注)
(注)マセナ、ブリュヌ、ルクルブ、シャンピオネ将軍はナポレオンと個人的つながりがあったが、シェイエースには極めて敵意を持っていた。彼らは濃淡はあれジャコバン派のマネージュ[ソシエテ・デュ・マネージュ?]に関与していた。このあらゆるつながりを断ち切るために、指揮官たちを遅滞なく取り替えることが必要になった。軍が危険をもたらす要因になりうるとしたら、それは過激派の影響によるものしかありえず、圧倒的少数派であった穏健派からの影響ではありえなかった。
以下、次回。
コメント