エジプトの国家成立

 以前こちらのエントリー内で、まだ乾燥化が始まる前のサハラで野生種の穀物を貯留しているらしき遺跡の話に触れた。実のところアフリカでは農耕は6000~5000年ほど前にサヘル地方で始まったと見られるが、放牧はそれより古く、8000年ほど前にはまだ草原だったサハラで牛、羊、山羊といった南西アジアで家畜化された動物たちを使った牧畜が既に始まっていた。Ancient and Traditional Agriculture, Pastoralism, and Agricultural Societies in Sub-Saharan Africaによると、彼らは乾燥化の進展に合わせてサヘル地域の野生種を栽培植物化していったそうだ。
 Pastoralism in sub-Saharan Africa: emergence and ramificationsでも、サブサハラ・アフリカで最初に行なわれたのは農耕ではなく放牧だと記している。要するに古い時代、サハラで暮らしていたのは中央ユーラシアのステップにいたのと同じ連中、すなわち遊牧民だったと考えられるそうだ。もちろん彼らは馬に乗ってはいなかったが、一方でロバはヌビアの遊牧民たちによって家畜化されたと考えられている。
 一方、肥沃な三日月地帯に近いナイルデルタではかなり古い時期から農耕が始まっていたようだ。Turchinはエジプトでどのように国家が成立したかについて論考している一連のエントリーの中で、エジプトの農業についても言及している。Before the Pharaohs: Predynastic Egyptにはまず国家の成立前におけるエジプトの歴史が簡単にまとめられている。
 まずは上エジプトのバダリアン文化期(紀元前4400~3800年頃)。実はこの期間、上エジプト(エジプト南部)では農耕はほとんど行われていなかったという。今ではナイル流域は全部農耕地というイメージが強く存在する(エジプトはナイルの賜物)が、少なくとも紀元前4000年紀の状況は違った。バダリアン文化期の遺跡を調べると家畜の痕跡が見つかるほか、狩猟採集で集めた食料も発見されるという。定住の痕跡はなく、下エジプトで農業を行なう集落が生まれていたのとは対照的だったようだ。
 だがこれがナカダ文化期になると穀物生産がナイル上流へと次第に広がっていく。やがて上エジプトと下エジプトの民衆の、後にはエリートたちの慣習が次第に共通化されていき、紀元前3550~3300年頃には人身御供の慣習も限定的だが見られるようになるそうだ。上エジプトの生活は放牧から次第に農耕へとシフトする。そして同3300~3100年頃になるといよいよ国家らしきものが生まれ、やがて上下エジプト双方を統一するような初期王朝につながっていった。
 興味深いことにエジプトの王朝は、新王国以降になるまで常に南方から生まれてエジプト全域を支配する流れを繰り返していた。The Circumscription Model of the Egyptian Stateに載っている表を見ると、初期王朝や古王国はヒエラコンポリスからナイル全域を統一するに至ったようであり、また中王国や新王国はテーベを拠点としていた。逆にデルタ地域などの下エジプトから生まれた統一王朝は存在していない。
 なぜか。Turchinが持ち出す理屈はもちろん「鏡の帝国」、つまり遊牧民と農耕民が対立する最前線から巨大帝国が生まれてきたという理屈だ。これまで述べた通り、エジプト南部は王朝が出来上がる直前まで遊牧民が暮らしていた地域であり、農耕が広まった後もその周辺には遊牧民が残っていたと思われる。Turchinによれば紀元前3300年時点で上エジプトの周辺は砂漠ではなくサバンナに囲まれていたそうだし、その後も2000年にわたって気候は湿潤と乾燥のサイクルを繰り返したが、今のような砂漠になったのは新王国の時代になってからだという。
 Turchinの議論や、その理論を発展させたシミュレーションを行ったBennettの見解に従うなら、農耕民と遊牧民は徒党を組んで対立するようになり、それが軍拡競争を招き、双方が大きな戦力を保持するために必要な大きな国家と複雑な社会を作り上げていく原動力になった。そうやって巨大な兵力を動員できるようになった上エジプトの国家は、その力を利用して下エジプトも支配し、最古の帝国を作り上げていった、という理屈だ。
 しかしサハラの乾燥化が一段と進み、遊牧民たちが現代のスーダン付近まで後退してしまうと、帝国を生み出すこうした圧力は弱まっていった。エジプトの南方から王国が生まれる時代は終わり、その後エジプトを支配する連中は、アッシリア、アケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス、プトレマイオス朝、ローマ、そしてイスラムと、全て北方からやってくるようになった。Turchinは気候の変化と歴史とを安易に結びつけることには警戒の念を示しているが、エジプトの事例については(間接的に)両者が結びついていると考えているのかもしれない。

 実はこの一連のエントリー、Turchinの目的はエジプトの特殊事情を調べることにあるのではなく、国家の成立に関する理論がどのくらい妥当であるかをチェックするのが目的だった。その点についてはっきりと述べているのがEvolution of the Egyptian State: the ‘Managerial Model’というエントリー。彼はここで国家の進化を説明する理論は大きく2つあると述べている。
 1つは紛争理論。ただしこれはさらに2つに分かれており、対外戦争を重視するものと、内部の階級闘争を重視するものがある。2つ目の主要理論は機能派とでも呼ぶべきもので、国家は課題解決のために生まれたとの説だ。いわば「経営者としてのファラオ」説ともいえる。こちらで紹介した論文でフォローしている5つの理論のうち、3つをカバーしている格好だ(残る2つは農業と宗教に由来するという説)。
 もちろんTurchinが最重要視しているのは紛争、それも外部との戦争なのだが、このエントリーでは敢えて機能派の理屈を主に紹介し、それでは十分に国家の成立が説明できないと批判している。そのような機能を実際に国家が備えるに至るメカニズムの説明が不十分であり、平等主義的な社会の構成員はそもそも王を戴くことに消極的なはずだ、という理屈である。人身御供を捧げるような支配者におとなしく従うくらいなら、定期的な不作で飢える方がましだろう、とTurchinは述べている。
 また上に紹介したThe Circumscription Model of the Egyptian Stateというエントリーでは、題名の通り「境界モデル」という別の国家成立理論を取り上げている。多くの住民は国家の支配に従うくらいなら逃げることができたはずだが、逃げ場のない地域、たとえば山間部とか周囲を砂漠に囲まれた地域では国家に従わざるを得なかったのではないか、という説だ。もちろんTurchinはこの説についても批判している。そもそもエジプト周辺は新王国の時代まで砂漠で囲まれていたわけではない。またニューギニアのように山間部で長年農業を行なっていたのに、国家らしきものができなかった地域もある。
 複雑な社会をもたらす要因として外部紛争(及び農業)が大切だというTurchinの議論には異論はないし、紀元前におけるエジプトの環境条件についての指摘も興味深い。一方で、メソポタミアや中国など、他地域との比較でエジプトにどのような特徴があったのかについては、この一連のエントリーではあまり深く踏み込んでいない。そもそもそうした議論が目的ではなかったからだが、個人的にはそのあたりにも興味がある。特に領域国家の成立が世界でも最も早かった理由が何だったのかは興味を惹かれる。
 また後にエジプトが他地域から支配される時代が長く続き、挙句には言葉までよそのものに入れ替わってしまった原因についても知りたいところだ。というか中国を除くと「一次的」国家の発生地は後に政治的のみならず文化的にも他地域から来た政治勢力に飲み込まれる経験をしている。こうした「アサビーヤの興亡」的な動きについて、抽象的な概念ではなくもっと具体的な「限界利益」という切り口から説明するのは可能なのだろうか。色々と考えさせられる話だ。
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