過ちは人の常

 敵が過ちを犯している間は、決してそれを邪魔してはいけない――ナポレオン?

 ナポレオンの発言としてこうした内容のものを伝えるミームはネット上にうんざりするほど存在する。日本語だとこちらこちらがその一例だし、英語ならこちらこちらなどが簡単に見つかる。それどころか最近はISWまでこの文言を載せるようになった。「この格言がこれほど真実であったことはない――ウクライナとその支援者たちはプーチンの失敗を利用し、モスクワよりキーウにとって圧倒的に好ましいこの状況下における反攻を継続すべきである」とISWは記している。
 ウクライナ戦争に関するISWの見通しはかなり信用度の高いものだと思うが、それは彼らがナポレオンの専門家であることを意味しない。当然、このフレーズを本当にナポレオンが口にしたのかどうかは、別途確認する必要があるだろう。これまでもナポレオンの言葉とされているもの以外に、ダーウィンビスマルクの言葉と言われているが実際は違ったものがいくつも存在していた。もちろん冒頭に紹介した台詞についてもその可能性はある、というかかなり高いと思われる。

 というわけで早速調べてみた、と言いたいのだが、実のところ調査の途中まではほとんどこちらのサイトで終わっている。そこでは「自滅途上にある敵を決して邪魔してはいけない」という文言についての調査結果が載っているのだが、1800年代には正確にマッチする言葉はなかったが、1805年の戦いでナポレオンがそう語ったとしている1836年の本を見つけ出したことが書かれている。この言葉はその後も少しずつ形態を変えながら何度も繰り返されており、新しい方から1965年、1932年、1916年(かなり言い回しが違う)、1888年、1879年、1855年、1852年と、実に多くの事例が見つかったそうだ。
 英語で最初にこれと似た言い回しをしたのは、Archibald AlisonのHistory of Europe from the Commencement of the French Revolution, Volume the Fifthである。確かにそこを見るとナポレオンの発言として「敵が間違った動きをしている時は、それを邪魔しないよう十分に注意すべきだ」(p476)というフレーズがある。
 で、筆者名を見た時点でまあこれは信用しない方がいいだろうな、というのが真っ先に思い浮かんだ感想。ジョミニが記したナポレオンの伝記を英語に翻訳したハレックは、その中でしばしば信用ならない筆者の右代表例としてAlisonの文章を引用している。Alisonがこの話を書いたのがアウステルリッツの戦いが行われた1805年から30年も後である点を含めても、この文章の信用度は推し量ることができる。
 ……と断言したいところだが、少し注意が必要。Alisonの本を読むと、横に脚注としていくつかの文献が提示されている。省略されすぎていて誰の何という本か分からないと思うが、Alisonの本の第1巻にはそれぞれの書籍が何を意味するかがまとめられている(v-xii)。具体的にいえばそれぞれマテュー・デュマ、ジョミニ、サヴァリー、そしてナポレオン時代の歴史書を書いたビニョルの本だ。
 このうちデュマのPrécis des événemens militaires, Campagne de 1805, Tome IV(p160-161)、サヴァリーのMemoirs of the Duke of Rovigo, Vol. I, Part II(p133)、そしてビニョルのHistoire de France, depuis le 18 brumaire, Tome Quatrième(p444)には主にアウステルリッツの戦闘経過が載っており、敵の間違った動き云々というナポレオンの台詞は見当たらない。
 唯一それらしいのが見つかるのはJominiのVie politique et militaire de Napoléon, Tome Deuxièmeで、同書には兵の前を通過したナポレオンが以下のように述べて彼らを鼓舞している場面が描かれている。「敵は無鉄砲にもこちらの一撃を食らおうとやってくる(L'ennemi vient se livrer imprudemment à vos coups)。電光石火で戦役を終わらせるぞ」(p180)。どうやらAlisonはこの前半部を「敵が間違った動きをしている時はそれを邪魔してはならない」と意訳したようだが、さすがにちょっと意訳が過ぎるのではなかろうか。
 というかそもそもJominiが持ち出したこの文章自体、実はどこにソースがあるのかはっきりしない一文だ。この文章の後半部を見る限り、ナポレオンの書簡集第11巻に掲載されている公報第30号が元ネタであるのはおそらく間違いないのだが、公報の文章は「兵士諸君、我々は敵の誇りを打ち砕くような電光石火の一撃でこの戦役を終わらせなければならない(Soldats, il faut finir cette campagne par un coup de tonnerre qui confonde l'orgueil de nos ennemis)」となっており、どこにも「無鉄砲」というニュアンスは見当たらないし、まして「敵の間違った動き」も「邪魔するな」という言葉も、そこには存在しない。おまけにそもそも公報はナポレオンがプロパガンダ目的で作った文章であり、彼が本当にそんなことを語ったかどうかの証拠としては弱い部類に入る。
 つまり実際の流れは以下のようなものだったと思われる。まずナポレオンがアウステルリッツの戦い後にプロパガンダ用の文章を作る。それ自体はナポレオンの意図を反映したものであり、彼の台詞と言ってもいいだろうが、そこには「敵が間違った云々」という内容の文章はどこにもない。続いてジョミニがナポレオンの伝記を書く際に、敵が無鉄砲に行動しているという文章を前の方に付け足す。続いてAlisonがそのジョミニの文章を極端に意訳し、敵が間違っている時には邪魔するなという内容に変更してしまったうえで、公報からの引用である後半部を省略してしまう。かくして公報とは全然違う文章ができあがり、後はひたすら雑なコピペが21世紀の現代に至るまで続いた、という経緯だ。

 おそらく上記が事実だと思うが、念のためナポレオンが他の場所で似たようなことを言ってないかどうか確認しておこう。使うのはNapoleon's Maxims of War。元ネタはMaximes de guerre de Napoléonという本で、Alisonの本よりも古いためソースを遡ることが可能になる。だが、この本の中で「間違い」とか「過ち」に関する文章を探しても、どうもそれらしいものは見当たらない。
 最も近そうなのは、塹壕を掘ってそこで兵の士気を高めておけば、敵が最初に間違った動きをした時にそれを利用して攻勢を再開できると書かれている部分(p148-149)。ただしこの文章はナポレオン自身の発言ではなく、発言を受けて書かれた解説の文章であり、つまりナポレオンの発言と見なすのは難しい。それにここでは敵が間違っている時に邪魔するなと言っているのではなく、その間違いに乗じて攻撃に出ろと述べている。同様に別の場所でも解説文中で敵が失敗をしたなら攻撃しろと書かれており(p32)、「邪魔をするな」という言い回しは見当たらない。
 というわけで、今回もまたナポレオンの台詞とされているものは実は彼のものではないことが判明した。この手の「誰某の名言」なるものは、もう見た瞬間にいったん嘘だと認定してもいいんじゃなかろうか。調べて本当だったらその時点で「本当に誰某の発言だったことが確認された」カテゴリーに入れ直せばいいだけだし、実のところカテゴリーを入れ間違えたからといって別に実害はない。ドヤ顔で「誰某曰く」と言っている者をネットで見かけた時は、調査能力の乏しい人、もといコピペ能力の高い人か、もしくは専門外の分野についてうっかり言及してしまった人を見る時のような「生温かい目」で見守るのがよさそうだ。

 敵が間違った動きをしている時は、それを邪魔しないよう十分に注意すべきだ――Alison(と書いても大半の人は誰やお前状態だろうけど)
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コメント

つね
この発言、映画「ワーテルロー」でナポレオンが会戦前日にウェリントンの布陣を見て言っていたのを思い出しました。もっとも私は、古くからの格言を引用したか、単なる映画上のセリフ回しくらいの認識でしたが、(誤って)ナポレオンの格言と知られているという背景があったのですね。

desaixjp
そもそもがフィクションなので、フィクションに向いたセリフだったのかもしれません。いまだに言及されているあたり、ミームとしての能力は高い言葉なんだと思います。
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