応仁の乱直後についてもそんなに急に数は増えなかっただろうが、16世紀初頭になるとこの数字が増え始める。地理的に限られた範囲の領土からそれだけの兵を動員したということは、戦国大名が自らのリソースをより有効に活用できるようになったからだ。鉄砲が本格的に広まる前の16世紀半ばには、大名が動員できる兵数は万単位に乗るようになっており、日本全体では大幅な増加となった。火薬兵器が広まった後も数は増加を続け、1600年前後には十万の単位まで到達したが、
火薬兵器の比率が一気に上昇したわけではない。
兵力の増加に伴い、下層出身の歩兵に頼る割合も増えた。戦国大名たちは、欧州の騎士に相当する重装騎馬弓兵ではなく、弓矢や長柄武器を携えた歩兵の大軍に頼るようになっていった。政府が大量動員できるだけの有効性を持つようになり、大名たちがそうした兵を使おうとした結果、変革が進んだ。動員するにせよ維持するにせよ、騎兵は高価であり、歩兵の方が扱いやすかった。
伝統的な騎馬の武士は社会的特権階級で構成されており、戦争に動員される際にはそれに見合う対価を要求してきた。15世紀後半にまとめられた
朝倉孝景十七箇条(英語はスペルミスで朝倉トシアゲになっている)では「萬疋の太刀」であっても「百疋」の「鑓百丁」には負けるから数を揃えろと書かれている。筆者によればこの記述は、歩兵を訓練すればその数、規律、団結力と機動力によって騎兵の個人的能力を打ち破るのは可能なのだから、よりコスト当たりの効果が大きいそちらを選べという意味、になる。強力な政府と効果的な歩兵との関係は、この時期には既に明らかになっていたというわけだ。
あくまで軍記物の世界においてだが、鎌倉時代までの戦闘については「高貴な戦士の個人的な英雄的行為」が話の主題になっている。そういった軍隊は、特に一度戦いが始まると司令官の命令には従わず、後の時代に見られるような大軍による機動を見せることはできなかった。鎌倉時代や室町時代において、戦争は戦士階級の中で行われる党派的な争いであり、そこでは自分自身、一族、党派の名誉を高めることが領土支配より大切だった。しかし戦国時代になり、領土をまとめ上げることが目的となると、そういった戦争のやり方は不適切になった。むしろ多数のパイク兵を動員する方が目的にかなうという理屈だ。
こちらでは槍という言葉が登場したのが1300年代前半で、応仁の乱の頃には足軽が槍を持って略奪する場面を描いた絵が登場している点を紹介した。戦国時代になるとそうした武器を持った大軍を動かすのが当然となり、桃山時代の将軍たちは兵站に気を遣いながら注意深く軍を動かすようになった。かつては名誉ある行為だった白兵戦の重要度は薄れ、戦争は技術(art)から科学(science)へと姿を変えた。
政府が戦士階級に対してこうした戦い方を押し付けることができるようになったのも、軍事的な変化をもたらした一因だろう。そのために重要なのは大軍を動員し動かす政府の能力であり、彼らに持たせる武器ではない。長柄だろうが弓矢だろうか、あるいは鉄砲だろうが同じ。鉄砲伝来は既に日本国内で起きていた変化の流れを加速したにすぎず、変化そのものはそれ以前から生じていた。また鉄砲は日本ではトップダウンで導入され、大名が自ら積極的に購入し製造させた武器だった。鉄砲を配られた軍隊は命令に従うことに慣れており、この新たな武器の使い方を言われたとおりに習得したという。
さらに欧州の軍事革命論で重要な大砲について、日本ではその役割が限定的だったことも指摘している。大砲の登場がルネサンス式要塞を生み出し、それが強い政府につながっていったとの理屈が、日本では成立しがたいのだ。欧州では要塞の変化を受けて進んだとされる軍の規模拡大が、日本ではむしろ先んじて進んでいた。軍事政治的な変化にとって火薬兵器の導入は重要ではなかったという論拠の1つだ。
以上が軍事革命論に関する筆者の指摘。技術的イノベーションは変化の主要な要因ではないことが、日本の事例からも確認できる、というのが彼の主張だ。そのうえで、この研究から導き出される「結論」について、3つの視点から論じている。
1つは欧州の軍事革命に関するもの。もちろん筆者は欧州でも「強い政府」が軍事革命に先行したと考えている。イタリアや低地諸国の都市部にいた歩兵、スイスのパイク兵、イングランドの長弓兵といったものは、歩兵の勃興が火薬兵器とは関係なく生じていたことを示すという。むしろ欧州の軍事革命は西欧エリートの失敗がもたらしたもの、というのが彼の考えだ。支配階級にとっては変化より安定した体制作りの方が利益が大きいし、日本の支配階級は江戸時代にそちらに舵を切った。だが欧州は日本のように統一することができず、17世紀以降も変化に晒された。
もう一つ、技術決定論への批判は、中世が「騎兵の鐙によって作られた」という説の否定にもつながる、と筆者は考えている。最近ではあまり見かけない気がするが、確かにこの説もちょくちょく言われていた。そういった特定の技術ではなく、もっと社会的政治的な変化こそ、行政的な能力の盛衰こそが騎兵の時代を生み出したのだという主張に対しては、特に異論はない。
2つ目は「戦国時代」概念の適用だ。日本だけでなく、Parkerが軍事革命と規定した時代の欧州も、さらには紀元前の中国の「戦国時代」も、それぞれの社会に歴史的な変化をもたらした。筆者は「技術決定論」には批判的だが、戦争が変化を呼び起こす可能性については肯定的に見ているようで、それぞれの「戦国時代」がどのような共通した特徴を持ち、どのような違いを生み出したかを調べるのに意味があると指摘している。
3つ目は社会と技術との関係だ。技術がもたらす効果は社会的なコンテクストによって定まると筆者は指摘している。同じ技術でも社会によって異なる需要のされ方をする(ユーラシア中央付近と周縁部での火薬兵器の在り方など)し、特に伝統的な文明は変化に対して抵抗することが多い。技術の発展は政治に従うものであり、新しい技術が急速に広まるのはむしろ「文明の深層部分の破綻」が起きていたからではないか、というのが彼の見方だ。
また社会の深層における破綻が技術発展に必要という見解についても、具体的な論拠があるようには見えない。少なくとも
前に紹介したプレプリントでは、軍事技術の発展に影響した要素にそうした項目は上がってこなかった。火薬兵器の位置づけをあまり過大評価してはいけないという指摘には頷くものの、だからといって火薬技術はただの枝葉と切り捨てるのは乱暴にすぎないだろうか。政治的変化から技術への作用が中心だとしても、技術から政治的変化に向かう反作用を完全に無視するのは、かえって拙い気がする。
スポンサーサイト
コメント